閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

親密さ(2012年)

hamaguchi.fictive.jp

  • 製作:ENBUゼミナール
  • 監督・脚本:濱口竜介
  • 撮影:北川喜雄
  • 編集:鈴木宏
  • 整音:黄永昌
  • 助監督:佐々木亮
  • 制作:工藤渉
  • 劇中歌:岡本英之
  • 出演:平野鈴、佐藤亮、伊藤綾子、田山幹雄
  • 時間:255分
  • 映画館:ポレポレ東中野
  • 評価:☆☆☆☆☆

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第一部がとある小劇場劇団の公演の制作過程を描く群像劇だ。中心となる人物は演出家の女性と脚本家の男。この二人は同棲している。第二部は第一部で制作されていた作品の上演がそのまま省略なしで提示される劇中劇である。最後に10分ほどごく短いエピローグが添えられ、劇中劇の外枠がまた提示される。合計で4時間を超える大作だが、その構成はいびつで大胆だ。

これだけの長編作品だが、そこで映し出されているのは若者だけで構成されているとある劇団の小さな日常だ。その日常の様子を実に丁寧に繊細に再現している。

登場人物はみなとても生真面目に自分たちの生活を引き受けようとしている。これは劇中劇の『親密さ』の登場人物も同様だ。外枠の劇団員たちと現実と第二部で彼らが演じる劇中劇の人物像がシンクロし、第二部は演劇公演という枠組みが明示されているにもかかわらず、そこでのやりとりは明らかに外枠のリアリティを反映したものになっている。彼らは演劇による再現というやりかたで、自分たちの姿や生活をさらに深く見つめたのだ。

劇中劇の『親密さ』には、要領が良く、何でもそつなくこなす、頭のいい青年が一人登場する。いかにも現代の若者の代表といった感じの人物だ。しかし彼以外の人物はことごとく不器用で、自分に正直にしか生きることができない若者たちだ。彼らは如才なく周りに合わせて、何となく生きていくことがむしろつらい。この後者のような若者たちも依然多数、この世の中にはいる。しかし現実の世界の彼らの多くは、その己の不器用さをつきつめてまじめに考えるすべを知らない。

濱口竜介の『親密さ』はこの世に実はまだたくさんいるはずの不器用な人間、人を傷つけ、人に傷つけられることのなかで苦しみながら生きていくしかないような人間へのはげましとなぐさめの歌だ。

そしてそつなくゆうゆうと生きているような人間でさえも、心のなかには何らかの鬱屈を抱えていないわけではない。そうしたままならないものと向き合うためにはどうすればいいのだろうか、こうしたことを一緒に考えてくれるような作品なのだ。

私たちは誰もが文学、芸術を必要とするような時間があるのだ。

フィッシュマンの涙(2015)

fishman-movie.jp

 

  • 上映時間 92分
  • 製作国 韓国
  • 初公開年月 2016/12/17
  • ジャンル ドラマ/コメディ/ファンタジー
  • 監督: クォン・オグァン 
  • 製作総指揮: チョン・テソン、イ・チャンドン 
  • 脚本: クォン・オグァン 
  • 撮影: キム・テス 
  • 音楽: チョン・ヒョンス 
  • 出演: イ・グァンス、イ・チョニ、パク・ボヨン
  • 映画館:シネマート新宿
  • 評価:☆☆☆★

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シネマ—ト新宿でポーランド映画祭に通っていたときに、予告篇で流れていて面白そうだったので見に行った。娘も見たいと言っていたので一緒に見に行った。

新薬臨床実験の副作用で魚人間になってしまったフリーターの若い男の話。カフカの『変身』の現代韓国版バリエーションとも言えるような風刺劇だった。ただ喜劇的な要素は薄い。フィッシュマンは迷走する現代韓国社会のなかで翻弄される韓国人の若者の象徴のような存在だ。
フィッシュマンは映画のなかであまり語らない。彼は寡黙で自己主張をしない。自分をとりまく動きに受動的にいやおうなく流されてしまう存在だ。ぎょろ目の魚頭の彼は、その表情で自分の感情を伝えることもできない。それが何ともいえずもの悲しい。

フィッシュマンを取材するテレビ局正規雇用を目指す男性の視点から、フィッシュマンの騒動を通して、韓国社会が抱える問題が浮かび上がってくる。

展開のリズムがたるくて、語り口も低温なので、若干退屈してしまう場面もあり、会心の作とは言えない。しかし映画全編に漂う韓国の若者たちの諦念、やるせなさ、怒りに胸がざわざわした。フィッシュマンの周囲の人間たちのエゴイズム、一人の人物が自分のなかに抱え持つ善人でもあり悪人でもあるような両義性をしっかり提示していたのもよかった。

フィッシュマンはCGではなく被り物とのこと。そのビジュアル・インパクトはなかなかのもの。

毒舌で、はっきり自分の意志を表明する気の強い女性を演じていたパク・ボヨンがよかった。丸顔でコケットな顔立ちの女優だ。

大いなる沈黙へ

 

映画『大いなる沈黙へ』オフィシャルサイト

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見逃していたこの作品、ようやく見ることができた。会場のユーロスペースはほぼ満席。

3時間弱の言葉のない沈黙の時間、修道士たちの祈りと修道院の周囲の美しい自然が流れる。最後のほうにごく短い時間、修道士たちが雪の斜面で戯れる場面が写る。

修道生活を画面を通じて体感するような感覚で3時間過ごすことができた。自宅でDVD鑑賞ではこの映画の時間を私は我慢することができなかっただろう。

なすべきことが定められ、神にひたすら向き合うあの静謐で平穏な世界は、ある種の理想郷であることは間違いない。彼らは至上の幸福のなかにある。しかしそんな彼らはあの平坦な日々のなかで退屈に死にそうな気分になったりすることはないのだろうか?
孤独な修道生活のなかで、彼らのなかの「人間」を抑えきれなくなるときもあるはずだ。映画では当然そうした場面は映し出されることはないのだが。

やはり自分も一度は修道院に寝泊まりしてみたいと思った。

サムソン(1961)

サムソン(1961)SAMSON

www.polandfilmfes.com

 

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ナチス占領下のワルシャワで逃亡生活を送るユダヤ人青年の姿を描く。

彼にのしかかる不安感、ストレスが、持続的に重苦しい映像を通して伝えられる。この青年はワルシャワのゲットーから脱出したものの、死にゆく同胞の運命を知りつつ、自分だけが生存し続けることに罪悪感を覚え、逃亡生活のなかで激しく葛藤する。最後、ナチスの兵隊たちに手榴弾を投げ、彼らもろとも崩壊した瓦礫のなかで死んでいく彼の笑顔や安らかで解放感にあふれていた。

エヴォリューション(2015)

映画『エヴォリューション』公式サイト

エヴォリューション(2015)EVOLUTION

  • 上映時間:81分
  • 製作国:フランス/スペイン/ベルギー
  • 初公開年月:2016/11/26
  • 監督: ルシール・アザリロヴィック 
  • 脚本: ルシール・アザリロヴィック、アランテ・カヴァイテ 
  • 撮影: マニュエル・ダコッセ 
  • 衣装デザイン: ジャッキー・フォコニエ 
  • 音楽: ザカリアス・M・デ・ラ・リバ 、ヘスス・ディアス 
  • 出演: マックス・ブレバン、ロクサーヌ・デュラン ステラ、ジュリー=マリー・パルマンティエ
  • 映画館:シネマカリテ
  • 評価:☆☆☆☆

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10歳ぐらいの美しい少年と25-35歳ぐらいの、クラーナハの絵から抜け出たような冷たい表情の女性が住む孤島でのグロテスクで耽美的な幻想譚。
各シーケンスのあいだには説明されない大きな闇があり、その不気味さが魅力になっている。
血液、粘膜、液体のイメージが支配的。痛くてグロテスクな場面も多いのでそういうのが苦手な人は見るのを避けたほうがいい。
この手のクリシェが好きなひとにとってはたまらないだろう。
夜の場面が多い。卓越した照明がラ・トゥールの絵画を思わせる絶妙の明暗のコントラストを作り出す。
シュールリアリズムの絵画を連想させる映像美は本当に素晴らしい。

 

地下水道(1956)

  • 地下水道(1956)KANAL、ILS AIMAIENT LA VIE [仏]
  • 上映時間:96分
  • 製作国:ポーランド
  • 初公開年月:1958/01/10
  • 監督:アンジェイ・ワイダ 
  • 脚本:イエジー・ステファン・スタヴィンスキ 
  • 撮影:イエジー・リップマン 
  • 音楽:ヤン・クレンツ 
  • 出演:タデウシュ・ヤンツァー 、テレサ・イジェフスカ 、エミール・カレヴィッチ 、ヴラデク・シェイバル、ヤン・エングレルト
  • 映画館:シネマート新宿
  • 評価:☆☆☆☆★

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ナチス・ドイツに対抗したワルシャワ蜂起の末期のできごと。ナチス・ドイツの圧倒的な戦力に退路を塞がれ、窮地に陥ったレジスタンス中隊は、地下水道を通って陣営まで退却することになる。この命令が下ったとき、中隊隊員に大きな動揺が起こる。その動揺のわけはその後に延々と続く地下水道の場面を見るとわかる。

汚水が流れる暗闇のトンネルを、ときには腰まで水に浸かりながら延々と進んで行かなければならないのだ。地下水道のルートは枝分かれの迷路のような状態である。

ほとんどが暗くて狭い地下水道の場面で、観客もカメラの映し出す映像とともに、中隊の人間たちが味わった閉塞感、不安感、恐怖を共有する。水に浸かったまま、暗くて狭い空間のなかでの彷徨に精神異常を来す者もいた。

出口の光が見えたとしても、その光がもたらした希望はすぐにさらに深い絶望へと変わっていく。ワイダは悲惨な彷徨の苦しみと絶望を容赦なく描き出す。救いのない重苦しい悲劇的状況をまっすぐと見つめるワイダの映像の強靱さに圧倒される。

ヤン・クレンツの音楽もいい。いわゆる現代音楽。その無調の響きが映像にさらに深みをもたらしている。

川越街道(2016)

  • 監督・脚本・編集:岡 太地
  • 出演:金子岳憲、小西麗、末延ゆうひ、金田侑生、古賀勇希、さほ、川島信義、南部映次、青坂匡、小畑はづき、桑名悠、笹原万容、横須賀一巧、川瀬陽太
  • 撮影:平野晋吾
  • プロデューサー:市橋浩治
  • 企画・製作:ENBUゼミナール
  • 110分
  • 映画館:新宿 ケーズシネマ
  • 評価:☆☆☆★

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川越街道沿線に15年以上住んでいる者としては、この映画が描き出す時代遅れの昭和の香り、すえた頽廃と絶望、やるせなさ、閉塞感、永続的で宿命的なダサさ、泥臭さは、まさに川越街道沿線地域の属性であることを認めざるを得ない。こちらの予想をほぼ裏切ることのない映画だった。川越街道から洒落た恋愛ドラマが生まれるわけがない。この街道の終着点である池袋は、ダサい郊外の荒廃と絶望の吹きだまりのような場所だ。もっともこれこそが川越街道の味わいなのだが。下町っぽい叙情がないわけではない。しかし川越街道沿いの町の叙情味は、殺伐さと紙一重だ。

川越街道とほぼ並行して走る東武東上線に深夜乗ってみるがいい。まさにこの映画に出てきたような濃厚で屈折したオーラを発する人たちがいっぱいいる。現代の東京における巨大な長屋のような庶民的な香り漂う地域なのだ。

義太夫節研究会第一回研究成果報告会「五十回忌追善 十代豊竹若太夫を振り返る」

11/27(日)13時〜15時45分
東京藝術大学音楽学部5-401特別講義室
第一部が太田暁子氏と神津武男氏の講演、第二部がこの二人が聞き手になって、人間国宝の豊竹嶋太夫と竹本駒之助に十代豊竹若太夫の想い出を語ってもらうという座談会。
開始時間を勘違いしていて開場に到着したのが十三時半過ぎだった。太田暁子氏の発表は聞くことができず。神津氏の発表を聞いた。発表の冒頭の切り込み方がとてもいい。十世豊竹若大夫の五十周忌への黙祷を会場内の参加者に促し、捧げた後、それを国立劇場五十周年へとつなげる。今年五十周年を迎えた国立劇場では様々な企画・展示が行われたが、神津氏曰く、そのなかで文楽のありかたについて正面から論じた評言、総括が見当たらない。現代における文楽興行の担い手の要である国立劇場が、その責務を十分に果たしていないではないかと批判しているのだ。そして文楽の現在において、彼が研究者として語るべきことを語るという覚悟を宣言しているのである。気鋭の文楽研究者である神津氏のこの鮮やかな啖呵には、私は思わず背筋が伸びた。研究対象である文楽への深い愛情と研究者としてその対象を責任をもって引き受ける強い使命感を感じたからだ。狭い世界内部のヒエラルキー、人間関係に神経をすり減らすアカデミズムの世界では、若手の研究者がこうしたことはなかなか言えるものではない。
神津氏の今日の発表は30分。十代豊竹若太夫の生きた時代(明治・大正・昭和)が、義太夫節の歴史のなかでどういう意味を持つかを、資料として配付された人形浄瑠璃略年表を参照しつつ解説するという内容だった。かつては文楽の公演は「通し」で上演されるのがスタンダードだった。これが「見取り」中心の公演になったのは、昭和5年(1930)の四ツ橋文楽座の開場がきっかけである。「見取り」が公演の中心になることで、芸のあり方も全体の構成を反映した大きくダイナミックな芸から細部に工夫を凝らした小さな芸へ移行していった。当然、観客の文楽の受容のしかた、評価のポイントの大きく変わっていく。昭和41年(1966)に国立劇場が開場し、文楽興行の担い手の主軸となるが、「見取り」中心のプログラムはそのまま踏襲され、この傾向は現在まで続いている(むしろ「通し」上演は、『忠臣蔵』など極めて少数の公演に限られている)。文楽研究の成果を踏まえた通し狂言の再興という方向には消極的で、惰性で見取り公演を国立劇場が続けていることに神津氏はおそらく不満があるのだと思う。私は日本の伝統芸能には門外漢ではあるけれど、現代ではほぼ上演される可能性がない古代ローマ劇や中世ラテン語劇、中世フランス語劇の上演可能性やポエム・アルモニークが行ったような17-18世紀のコメディ・バレ、オペラの歴史的再現公演などと、文楽・歌舞伎の復活狂言のあり方は比較できる部分があるかもしれない。フランスでは古い時代の演劇伝統は途切れてしまっていて、ポエム・アルモニークなどの例では文献資料などをもとに最初から歴史的なすがたを作り上げていく、再現を目指すということになるが、日本の伝統芸能の場合、なまじ昔から繋がっているだけに、どのように再現するかについては特有の難しい問題が出てくることは想像できる(とりわけ受け継がれてきた技術・習慣への強いこだわりが演者にはあるはずだが、歴史的再現は演者の身体にしみついた「あるべきありかた」と対立することが少なくないだろう)。
発表内容も興味深かったのだが、はっきりとした発声、緩急をつけた話し方、強調のしかた、そしてユーモアといった神津氏の発表パフォーマンスにも感心した。やはり舞台芸術研究者ならば自身の発表パフォーマンスにも配慮が必要だ。話の内容の説得力も増すというものだ。
後半は嶋太夫、駒之助師匠の座談会だが、この座談会導入もGoogleMapをプロジェクタで映し出して、嶋太夫師匠が内弟子として過ごした十代豊竹若太夫旧宅付近を辿るという趣向があった。若大夫師匠の旧宅は大阪、住吉大社の近くの二階長屋だった。若太夫師匠が亡くなって五十年たっているので当然周囲の街並みには大きな変化があるのだが、それでも若太夫旧宅の隣にあった酒屋の建物はまだ健在だったし、その隣にあるパン屋にも嶋太夫師匠は記憶があると言う。
主に神津氏のリードで、嶋太夫、駒之助師匠が彼らの師匠であった若太夫の想い出について語る。大体80パーセントは嶋太夫師匠が話していた。師匠の話す内弟子時代の想い出が本当に面白い。嶋太夫師匠と駒之助師匠は文楽で最後の内弟子世代なのだそうだ。「内弟子はつらいですよ」とまず子守の話から。若大夫師匠は夜も朝も早かった。隣は酒屋だったけど若大夫師匠は下戸だった。師匠の晩御飯はトースト一枚だけ。パン好きだった。若太夫は目がほとんど見えなかったので、その身の回りの世話はかなり大変だったはずだ。
長屋の二階の三帖間で内弟子は寝起きし、稽古を受けた。ご飯はあんまりお米が入っていない薄いお粥だった。昭和二十年代の当時はどこもそんな感じだったそうだ。お粥は食べるというよりは飲む感じ。朝9時頃から通いの弟子がやって来る。稽古は通い優先で、内弟子の稽古は後回しだった。 実家にはお盆・正月の四日間だけ帰省できた。その時に実家から小遣いを貰えた。それをちびちび使って食べ物などを買った。若大夫師匠が近所で金を使うのは風呂屋に行く時くらい。ただ師匠は風呂嫌い。風呂に入ると「脂が抜けてしまうから」だそうだ。
当時の石鹸は鯨脂で作っていた。師匠家族7人だったので洗濯が大変だった。長屋だったので洗濯の物干し場は両隣と共用。隣の酒屋のお嬢さんに「洗濯好きなんやねぇ」と声かけられ、「えぇ」という微笑ましいやりとりもあったそうだ。
若大夫師匠は酒もタバコもやらなかったが、とにかく賭け事大好き。競馬、競輪、米相場。賭け事は常に大穴狙い。「文楽も米相場も死ぬ気でやる」。しかし嶋太夫師匠は払戻し窓口に行ったことは一度もない。
駒之助師匠は、若太夫師匠の付添で(目が悪かったからだろう)新町の赤線まで案内させられたことがあったとか。師匠を送り届けてから、家でおかみさんにあそこが赤線であることを聞き、以後二度と新町への送り迎えは断ったとか。おかみさんは「あそこに行ってくれるとうちは楽でええんや」と言っていたそうだ。
など色々、当時のエピソードが出てきて、非常に興味深い。神津さんのつっこみと嶋太夫師匠のぼけ、そして師匠の口から語られる若太夫師匠の大らかで破天荒な生活ぶりのおかしさに何度も大笑いした。

灰とダイヤモンド(1957)

灰とダイヤモンド(1957)POPIOL I DIAMENT

www.polandfilmfes.com

  • 上映時間:102分
  • 製作国:ポーランド
  • 初公開年月:1959/07/07監督: アンジェイ・ワイダ 
  • 原作: イエジー・アンジェウスキー、アンジェイ・ワイダ 
  • 脚本: イエジー・アンジェウスキー、アンジェイ・ワイダ 
  • 撮影: イエジー・ヴォイチック 
  • 音楽: ボーダン・ビエンコフスキー 
  • 出演: ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジジェフスカ 、バクラフ・ザストルジンスキー
  • 映画館:シネマート新宿
  • 評価:☆☆☆☆★

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ドイツの支配から解放された新生ポーランドの旅立ちはなんと重苦しいものだったのか。祖国を取り戻したと同時に祖国に自らの居場所を失い、呆然と絶望するしかなかったポーランド人があの当時数多くいたことを想像させる。
一夜の恋にすがった亡命政府派の暗殺者とバーの女性が抱える孤独と絶望の深さに心打たれた。
モノクロの画面のシャープな絵の美しさに痺れた。

この世界の片隅に(2016)

konosekai.jp

 

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突然の死が日常に入り込むのが当たり前となった戦時下の状況の下では、平時にはありえないような感動的な人間のすがたが見られることもあっただろうが、極度のストレスに晒される日々の継続のもと、平時には閉じ込められていたあさましく非道な行いも噴出していたに違いないと、私は想像する。

この世界の片隅に』は、そうした極度にストレスフルな状況であっても、いやそういう状況であるからこそ、そうあって欲しいという人間のありかた、庶民の日常への願望が描き出されているように思った。

無垢な犠牲者である庶民を美化するのではなく、悲惨で痛ましい歴史的現実のなかに祈りと希望を求めたいという気持ちがこのような作品を作らせたのではないだろうか。

もしかすると戦時下にこういう日常が本当に存在していたかのもしれない。人間の生活のはかなさ、そのはかなさゆえの愛おしさ、美しさを淡々と優しく伝える作品だった。見ていて知らないうちに泣いてしまった。

帰りの電車のなかで、映画を反芻しまた泣いた。じわじわと心に迫る作品だ。