閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

平原演劇祭2017第3部「芝がするどく鳴ってゐる」

togetter.com

  • 日時:2017/3/19(日)13:00 - 16:00

  • 会場:府中是政豆茶房でこ

  • 料金:1000円+投げ銭(ドリンク付)

  • 出演:さやか、角智恵子、ひなた、暁方ミセイ、MEW、戸川裕華、中沢寒天、酒井康志、高野竜

  • 演目:「詩とは何か」(高野竜作)、21世紀版「小岩井牧場」(宮沢賢治原作、暁方ミセイ版)、「孤立が丘」(高野竜作)ほか

バングラデシュ産ナツメヤシのラビオリとサトウキビ純100ぶっかき黒砂糖です

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平原演劇祭の開催情報は、主宰の高野竜のtwitter(@yappata2)が頼りとなる。各部の公演は一回きりなので、このアカウントからの情報をうっかり見逃してしまうとこの特異な演劇祭に立ち会うことはできなくなってしまう。

2017第2部は3月はじめに行われ、場所はなんとバングラデシュの田舎町だった。twitterでの同行者募集に応じた京都カウパー団のげきまきまき(@makielastic)と二人で10日間、インドとバングラデシュを回ったようだ。この海外公演の様子は、二人のtweetから断片的にしかわからない。

今回の彼らのインド・バングラデシュ滞在中は、私はフランスにいたためもとより不可能だったのだが、できることならば随行してこの公演のレポートをしたかったものだ。高野が27年前にバングラデシュを訪ねたとき一晩だけ同宿した人だけが頼りという無謀なバングラ公演だったが、大きな成果が獲得されたようだ。このツアーが面白くなかったはずがないだろう。

竜‏ @yappata2 3月14日
用意したのは台本とケンガリと仮面と、岸田衿子「かばくんのふね」。絵本持ってったのは前回訪孟のイメージから路上パンソリみたいなことを想定してたんですがもしかして学校公演とかになるかもとも思ったので。なにしろ27年前にひと晩だけ同宿した人だけが頼りという雲をつかむようなハナシでして。

さて2017年第3部は、ここ数年、5月のはじめ頃に行われていた府中市是政にある豆茶房でこでの公演である。

武蔵関から西武多摩川線に乗り、その終点が是政駅だ。私はうっかり中央線の特快に乗ってしまい武蔵関を通過してしまった。立川から武蔵駅に戻っているうちに多摩川線の列車に乗り遅れ、開演予定時刻の13時に間に合わなかった。でこに着いたのは13時10分頃。開演を遅らせて私の到着を待ってもらったみたいで、まだ始まっていなかった。早くから来ていたお客さんに申し訳ない。でこは10畳ほどの広さしかない。観客の数は20名ほどだった。

13時15分頃に開演したが、喫茶店のドアは開け放たれたまま。入口付近に座っていた高野竜がドアの外を見ながら「大きな穴が開いている」とか話すと、でこの店内にいた女優(角智恵子であることがあとでわかる)がそれに応えて何か言う。

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この二人のやりとりに続きオープニング演目、高野竜のモノローグ劇の傑作、「詩とは何か」が始まった。この演目は毎年、現役の女子高生が演じる。高校生活になじめず、不登校の女子高生が町の高台から望遠鏡で駅前のロータリーの様子を眺める。そこには常連のナンパ師がいて、成功率の極めて低いナンパを日課のように行っていた。女子高生は、なぜかそのナンパ師のことが気になってしかたない。そのナンパ師が突然姿を見せなくなった。しばらくいないなと思っていると、再び彼は駅前に現れるようになった。そこで女子高生はあることに気づく。

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居場所を見つけられず、世界の隙間のようなところでひっそりと身を守り、世の中を観察する女子高生の心を大きく揺さぶる、ささやかではあるが劇的な事件が駅前のロータリーで起こる。その事件がもたらすささやかな奇跡に後押しされ、彼女は一歩新しい世界に押し出される。「詩とは何かを」を演じる女子高生女優は毎年変わる。今年この作品を演じたさやかはずっと遠くのほうを眺めているかのようだった。彼女のほほには静かに涙が一筋流れていた。でも感情が高ぶるようなことはない。彼女が観察し、経験した現実を、そのまま、すーっと受けとめるかのように、そして受けとめた現実をひとつひとつ丁寧に体のなかに刻み込む かのようにさやかは語った。

開け放たれた入口から聞こえる外の道路の音が、喫茶室なかの語りと呼応していた。通りすがりの近所のひとたちがいったい何をやっているのだろうと、喫茶店のなかを覗き込む。

「詩とは何か」を語り終えると、 さやかは、そのまま開け放たれたままの入口を通って外に出て行った。彼女の移動と入れ違いに戸川裕華の弾き語りがはじまる。

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戸川裕華は身長138cm、丸めがね、 おかっぱ黒髪の小学生少女のような見た目の歌い手だ。歌曲は多少単調だったが、思いを絞り出すような歌声とそのスタイルには独自性、存在の主張があった。「私はいま、ここにいる」と彼女は歌を通してずっと叫んでいるように思えた。

戸川裕華の弾き語りの後はおやつ時間。この軽食タイムも平原演劇祭には欠かせない要素だ。今回の軽食は、揚げラビオリと黒砂糖の塊。

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ラビオリの皮は春巻き、中味は、サラミとバングラデシュのナツメヤシ、あとクミンシードかクローヴパウダーの2種類の味つけとのこと。中味はあとで知った。辛かったり甘かったりの奇妙な味で、いったい何が入っているのだろうと思いながら食べた。黒砂糖の塊はかなり固く、錐を木槌で打ち込んで砕いた。素朴な甘みだが案外おいしい。バングラデシュのお土産として持ち帰ったそうだが、当然、空港では「一体これは何だ?」と何回か尋問されたそうだ。見た目がえたいが知れなくていかにもやばそうなので、検査官としては調べたくなるだろう。

おやつ時間のあとは町歩き朗読となった。詩人の暁方みせいが、宮沢賢治「小岩井牧場」(のおそらくみせいによるアレンジ版)を読みながら、豆茶房でこの周辺を歩き回る。酒井康志が小型のラジカセを頭の上にかかげ、みせいさんに続く。ラジカセからはパーカッションの音が流れる。それを20名ほどの観客がぞろぞろと追いかけるという「ブレーメンの音楽隊」のような町歩き朗読となった。

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暁方みせいは歩きながら朗読するのだが、ときおり何箇所かで立ち止まったり、座ったりして朗読を続けた。彼女の朗読の声は、町の風景のなかに溶け込んでしまいよく聞こえない。ラジカセから流れるパーカッションの音はぽこぽこ響く。奇妙な集団散歩者、朗読付きの出現に、通りすがりに出会った住人たちはぎょっとしていた。そりゃそうだろう。

暁方みせいの朗読を引き継いで、そのまま野外で、今度はこの3月に高校を卒業するひなたが地域の観光ガイドのような一人語りを始める。

これが平原演劇祭2017第3部「芝がするどく鳴ってゐる」の最後の演目、高野竜の新作戯曲「孤立が丘」だった。最初は観客を目の前に、ひなたは地域の地図の看板を指し示しながら歴史ガイドのように、このあたりの地誌についてマニアックな説明を始める。しばらくするとそれがチェーホフの「かもめ」の一場面の再現へと移行していく。そのとき、ひなたが話す後ろで寝ていた路上生活者がいきなり覆いをとって起き上がり、ひなたに絡み始めた。この路上生活者は仕込みで、さきほどまで豆茶房でこにいた角智恵子だった。この仕掛けには大笑い。こんなとこに路上生活者が寝ているなんて変だなと思っていたのだが。

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角智恵子は女優なのか、何者なのか。この堂々たるチンピラぶり、ヒッピー風のふてぶてしさ、ただ者ではないのだけれど、彼女のアイデンティティがよくわからない。角智恵子はひなたの演技にだめ出しをする。この後、野外から再び豆茶房でこの店内に場所がまた戻る。

二人の会話はうねうねと脱線をくりかえしながら、この付近にかつて流れていた水路とその痕跡についての蘊蓄、詩の朗読、演技論、俳優論、戯曲論、それからまた地誌的な話題へと連なっていく。土地の歴史の物語が文学、演劇と結びつき、この二つのトピックのあいだを二人の会話は自由に行き来していく。そして土地と物語、演劇論は文学的幻想の世界へと帰結していく。

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ひなたは最後に極度の緊張が続いたためか立てなくなってしまった。彼女を角智恵子が開け放たれたままだった入口から外へと担ぎ出す。出る間際に角智恵子から

「あ、これで終演です」

という言葉はあったものの、なんか中途半端な感じだ。終演後のあいさつのない。

今回の公演ではずっと裏方をやっていた中沢寒天が場をつなぐために話しはじめた。

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大学で地理学のゼミをとっているという彼女は、先ほどひなたと角智恵子の芝居のなかで言及されていた是政の川の歴史のはなしへの補足のような感じで、彼女が住む浦安の地理的状況について話し出す。その話は、その地形にまつわる歴史の話につながり、さらに浦安をかつて襲った大水害にかかわる物語の語りへと移行していく。この中沢寒天「場つなぎ」も演目の一部だったのだ。

後でわかったことだが彼女の語りは、ひなたと角智恵子が演じた「孤立が丘」の終幕部に相当し、中沢寒天は浦安出身ではあるが、地理学のゼミなど大学で取っていない。

このように平原演劇祭では現実と虚構が巧妙に混じり合い、リアルな世界が時間のかなたの過去の世界、幻想の物語の語りの世界へと、自在に行き来する。

16時過ぎに出演俳優の紹介があり、本当の終演。

たかが世界の終わり(2016)JUSTE LA FIN DU MONDE

gaga.ne.jp

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成功したゲイの劇作家ルイが、自分の死を告げるために、12年ぶりに実家に帰る。なぜ死ぬのか、なぜ12年間帰省することがなかったのかは説明されない。12年間、帰省することはなかったこのハンサムな劇作家は、家族の誕生日に数行のメッセージを添えた絵はがきを送ることで家族との接触をかろうじて保っていた。

実家にいるのは、彼の母親、兄夫婦、妹の4人。登場人物は主人公を含め家族の成員の5人だけだ。実家にいる人たちはそれぞれどこか壊れている感じがする。母親はスーパーハイテンションで舞い上がっている。妹は情緒不安定。兄はなぜかいつも不機嫌で、他の家族の言葉尻を捉えては神経を逆なでするような攻撃的な嫌みを言う。弟のルイにも憎悪をむき出しにするが、その憎悪の原因はわからない。兄の妻はルイに好意的ではあるが、なぜか彼に対してはずっとvousという丁寧語で話す。話し方は常におどおどしていて、コミュニケーション障害があるように見える。

突然12年ぶりにやってきたルイだけが、冷静で温厚でまともな人間に言える。しかし彼は自分の死を告げにやって来たというのに、それを結局、家族に伝えることができない。彼の告白を受け入れるような雰囲気がないのだ。家族間のグロテスクで異常なテンションのバリアで、彼の存在ははじき飛ばされてしまうかのようだ。彼は地獄となったこの家族には救世主となるような存在なのだが、家族はその救世主を受け入れる余裕がなくなっている。結局、彼は何をしに帰ってきたのかわからない。調和を失った殺伐とした家族の状況に何の影響ももたらさないまま、兄に追い返されてしまう。

今のフランス映画界を代表するような名優が揃って出演している。その演技のクオリティの高さは驚くべきものだ。マリオン・コティヤールが演じる人物のおどおどしたしゃべり、表情の不安定さを見て、すごいものだなと思う。他の俳優もみな素晴らしい。ヴァンサン・カッセルの切れ方とか。主人公をのぞいて皆、強烈な個性の狂った感じの人物ばかりなので、逆に演じやすいというのはあるかもしれないが。

物語としては、自分の死を家族にわざわざ告げにやってきたというゲイ劇作家、ルイのもったいぶりかた、気取り方が鼻についてイライラした。

音楽は使いたくなるような場面には、躊躇せずにふんだんに使われている。使用されているポピュラー音楽の歌詞は、その場面のパラフレーズとなっている。映像のほとんどは人物の顔のアップというのもこの映画の特徴だ。登場人物の視点と重なるショットが多い。主観的な視線だけで構成された映像とも言える。象徴的な映像・音楽・台詞を重ねることで、各人物の情念が濃厚に表現される。

海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~(2016) FUOCOAMMARE

www.bitters.co.jp

  • 上映時間:114分
  • 製作国:イタリア/フランス
  • 初公開年月:2017/02/11
  • 監督: ジャンフランコ・ロージ 
  • 撮影: ジャンフランコ・ロージ 
  • 編集: ヤーコポ・クアドリ
  • 映画館:Bunkamuraル・シネマ
  • 評価:☆☆☆☆

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シチリアの南、アフリカの沖合にある地中海の島を撮影したドキュメンタリー映画だが、澄んだ青色の海と空の映像はほとんど出てこない。薄曇りの灰色の空とその色を映し出す海、そして夜の風景。
この島にはこの20年間に40万人の難民が上陸したという。

この島に住む10歳ぐらいの少年の生活とこの島に漂着する難民たちの様子が並列的に映し出される。この二つの島の日常には直接的な接点はない。この二つの日常を繫ぐのは、島にただ一人の医師と島のローカルラジオ局で流れるニュースだ。

難民船は島のそばにあるリビアもしくはチュニジアから出航しているのだと思う。しかしその船に乗っている難民たちの出身国は、私が思っていた以上に多様だった。コートジボワール、ナイジェリア、スーダンソマリアエリトリアなどサハラ砂漠の向こう側の地域の人たちが多いのだ。中東のシリアからの難民もいた。彼らは何千キロもの陸路を経て、地中海沿岸の港町に到達し、そこで難民船に乗って地中海を横断しようとする。しかし映画で映し出されたその難民船の環境のひどさは、私の想像を超えるものだった。まさに命を賭けた脱出であり、それほどのリスクを冒してでも逃げ出したいようなひどい現実がアフリカ、中近東の彼らにはあったということだ。

最初のうちは少年の日常風景のスケッチが延々続くことの意味が分からなかったし、ナレーションもBGMとしての音楽もないので退屈し、眠くなってしまった。しかしこの対比の意味が見えてきて、少年の存在が何を象徴するのかがわかってくると、はっと目が覚め、引き込まれていく。

沈黙 ─サイレンス─(2016)SILENCE

chinmoku.jp

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2時間40分を超える長尺の作品だったが。音楽をほとんど使わないストイックな演出が、作品の宗教的テーマを厳粛に浮かび上がらせる。日本の風俗描写には大きな違和感は感じなかった。ただポルトガル人司祭が英語を話すことに対する違和感はさいごまで私は消えることはなかった。とりわけ冒頭の中国で司祭二人がキチジローに会う場面で、中国人も含め、全員が英語で会話していることでひっかかる。複数の言語が劇中で使われているため、ベースを英語にしても整合性を取るのが難しい場面が出てくる。

リアリズム史劇なので、英語使用のご都合主義が機能していない場面が出てくると私は興ざめしてしまう。劇中の英語は「ポルトガル語」にあたると理解し、脳内言語変換して見られるようになったのは、だいぶたってからだった。この英語をポルトガル語をみなすという映画内ルールがうまくいかない箇所で記憶に残っているのは、切支丹農民が「paraisoに行けるんですよね?」と英語で司祭に尋ねると、司祭が「paraiso? おおparadiseか!」と返事したやりとりです。ポルトガル人なんだから「パライソ」でわかって欲しい。英語に直してようやく理解するとは。英語はこの映画ではポルトガル語なんだと考えても、映画のなかの江戸時代の農民、武士たちは、いくらなんでも外国語コミュニケショーン能力が高すぎるように思える。

映画のなかでは司祭はほとんど日本語を話さないのだが、実際の布教ではむしろ司祭や修道士たちが日本語を積極的に学び、日本人のほうはポルトガル語スペイン語ができる人はそんなにいなかったのではないだろうか? そうでないとあれほど信者を獲得できなかったはずだ。

言葉のことが気になってしまったが、遠藤原作を忠実になぞった司祭の葛藤、キチジローの裏切りを軸とするドラマはやはり面白い。キリスト教側の論理だけではなく、日本の支配体制側の論理も、説得力あるものとして示しているところがこの映画のいいところだ。だからこそ司祭たちの迷いも深刻になっていく。

もう一つ、この映画を見て気づいたことは、踏み絵を拒否するというのは神に対する崇敬の表明だけでなく、権力の圧倒的な暴力に対する人間の尊厳を賭けた憤りの表現、決死の抵抗だったということだ。命を賭けての行為なので、踏み絵にはものすごく大きな勇気と決意が必要となる。それほどまでに当時の信者たちは追い詰められていたのだ。

 

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第三日目(1/27)

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パスカルは二日目のワークショップの最後に、次のような奇妙な指示を出した。「最終日の三日目は、あなたたちに今日行った都市のリサーチの報告をしてもらうのですが、もちろんどんな形式での報告でもかまいません。ただ一つお願いしたいのは、一つの報告が終わったら、それじゃあ次の報告、それから次の報告、という具合に次々と区切りをつけて報告が行われるというかたちではやって欲しくないのです。各発表はあるがまま、なすがままの経過の中で、自然でゆるやかな連鎖によって行って下さい。一つの発表をそれに必要と思われる時間を十分に使って行い、それをしっかりとみなが受けとめてから、連鎖的に次の発表が始まるような感じで。発表は数秒でも数十分でも必要な時間、使って下さい」
私は質問した。
「それでは全員が成果を発表できないかもしれませんね?」
この質問に対してパスカルは、「それはしかたない。C’est la vie(そういうもんだよ)だよ」とそれがごく当然のことであるかのようにさらっと答えたのだった。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第二日目(1/26)

theatercommons.tokyo

パスカル・ランベールによる「都市を舞台に、すべての参加者が観察者/記述者/表現者となる。「みること」からはじまる都市ワークショップ」の第二日目。

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血液型A型乙女座六白金星の私は授業をやるにあたっては、一見いい加減にやっているように見えながら、実は事前にきっちり計画をたてて、やるべきことをリスト化していないと不安なたちだ。毎日の仕事とはいえ、数十人の人間と対峙し、60分なり90分なりの時間を成立させるのは、かなり恐いことであり、とりわけ人間関係が構築されていない新学期の授業はいまだに緊張する。毎回の授業でどんなプログラムで構成するのかは決めているのだが、新学期の最初の授業ではとりわけ細かくやることを決めている。
平田オリザのワークショップを受けたときは、それゆえ、その見事に構造化されたプログラムの精緻さに感動したのだ。しっかり構築されているがゆえに平田のプログラムはあらゆる対象に対して応用可能なものになっている。いったいあのプログラムに到達するのにどれほどの時間を要したのだろうと考えてしまう。

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今回受けているパスカルのワークショップは、方法・発想的に平田のプログラムの対極と言えるものだ。ワークショップのコンセプトは、なるほどよく練られていて、魅力的だ。しかしその具体的方法は、徹底的に即興的・反射的であり、パスカルとワークショップ受講者のやりとりのなかで、脱線し、発展していく。これは驚くべきものだ。教育プログラムなどで、「受講者の自主性を引き出し、自由な発想、発言を歓迎する」と称するものはあまたあるが、その大半は実際には受講者に自分の発言を強要し、さらにその発言を講師の考える方向・結論へ意識的・無意識的に誘導するものでしかない。最終的には終わりの時間までに、予定調和的なものへと行き着くことで完結となる。

パスカルのすごいところは、最終的に帳尻を合わせるということが最初から頭にないということだ。彼は参加者から言葉を引き出そうとする。彼のエネルギーと明るさ、そしてフランス語なので通訳を介してのコミュニケーションとなるということがおそらく作用して(平野さんの通訳もかなり貢献している)、参加者はついうっかり余計なことを話してしまう。その余計なことまで話すことが許容され、むしろ推奨される完全に開かれた自由な時間が、このワークショップでは成立しているのだ。もちろん時間は有限だ。14時に始まり、18時には解散しなくてはならない。普通なら終了時間までには何とか帳尻合わせをしようという意識が働くものであり、そこで「自由さ」に欺瞞が生まれる。時間内に何とかまとめて、結論めいたものを出そうとする、求めるのが普通の人だ。しかしパスカルはそうではない。

昨日の第一日目は、25人の参加者のうち、15人の自己紹介が終わったところで時間切れとなった。

「それじゃあ、残りは明日、自己紹介ね」
三日間12時間のワークショップの一日目が、15人の自己紹介だけで終わっただけであることを、パスカルは全く気にしていない。『都市をみる/リアルを記述する』というワークショップのお題には全く入ることができなかった。でも濃厚な自己紹介を通じて、他者を知り、これからどういうことがこのメンバーで起きうるかについて想像できるような場を持てたことで、それは十分な収穫ではないか、というのがパスカルの考え方だ。

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そして今日の二日目の自己紹介。10人自己紹介をしていない人間が残っていたはずだが、今日来ていたのはそのうち8人だった。2人は昨日の様子にもしかすると呆れてしまい、参加を取りやめたのかも知れない。さすがに今日は『都市をみる/リアルを記述する』のリサーチの時間を取れないとまずいと思ったのか、自己紹介は昨日よりはあっさり目で40分ほどで終わった。もしかするとパスカルもちょっと疲れていたのかもしれない。自己紹介が終わると、

「それじゃあ、これからみんな建物外に出て、iphone使って写真撮るなり、音を撮るなり、明日の発表のための取材をしてください。17時半に戻ってきてね」

と参加者は建物外、半径500メートルの領域に放牧されてしまう。

発表と言っても、具体的に何をどうやればいいのか。それは発表者に完全に委ねられている。ここまで徹底的に自由にやってこそ、自由というのは意味を持つのだ。参加者のなかには演出家や俳優、ダンサーもいる。彼らはこれまで受け取った言葉をヒントに、プロフェッショナルとしての各人の矜恃を持って、彼らが見出した都市の断片について何らかの表現を提示しなくてはならないだろう。「具体的に何が求められているのかわからない」という言い訳は彼らには許されていない。もちろんアマチュアはアマチュアで、この自由さを引き受けたうえで、ありあわせの材料で何とか表現を作っていかなければならない。

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私は町に出た時点ではほぼノーアイディアだった。でもどんなものであってもでっち上げなくてはならない。とあるコンセプトに基づき、町の数カ所で写真を撮った。それを構成して表現とすることにしたが、うまくいくかどうか。いや、うまくいくかどうかはどうでもいいのだ。とにかくあり合わせの材料で自分ができることを提示するしかない。

17時半に元の会場に戻る。そこで簡単に明日の確認。明日は各自のリサーチの成果の発表となる。どんなかたちの発表になるのかは各自に委ねられている。パスカルはここで奇妙な指示を出した。

「あの〜、発表なんだけど、この人が終わったから、次この人みたいに、次々とこなしていくみたいには絶対やって欲しくないんだ。ある人の作品のプレゼンが終わったら、それを皆が受けとめて味わいつくしたあとで、その自然な流れで次の発表が連鎖的に行われるみたいな感じでやって欲しい。一つのプレゼンが数秒だったり、あるいは40分だったりしてもかまわない。それぞれの表現が必要とする時間を十分使ってやるんだ。時間を決めて、パンパンパンパンみたいな感じではやらないで」

参加者は20名以上いる。全員が発表するとなると、ひとり10分でも200分、3時間20分必要だ。準備を入れると4時間超えるだろう。しかしこんな調子では、平均10分で終わるなんてことはまず無理だろう。私はこの期に及んで、「でもこれでは明日、全員が発表できないじゃないか」とやきもきし、質問した。

「それじゃあ、明日、全員がその成果を発表できないかもしれませんね?」

するとパスカルは、

「うん、そうだね。でもC’est la vie(それが人生)ってやつだ。しかたないよ。発表できなくてもこうしてコミュニケーションを取れて、都市を見つめる機会を持てたんだからいいじゃん。また次の機会もあると思うし」
と答えたのであった。このワークショップで帳尻合わせを気にしていた自分がバカだった。私も「学生の自主性を引き出す」というのであれば、ここまで自由で開放的な授業をしてみたいものだ。

明日、どんな発表が見られるのか、本当に楽しみにしている。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第一日目(1/25)

theatercommons.tokyo

【第一日目 1/27(水)】

1/26から28の三日間にわたってSHIBAURA HOUSEで行われたフランス人劇作家・演出家のパスカル・ランベールのワークショップに参加した。

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「都市を舞台に、すべての参加者が観察者/記述者/表現者となる。「みること」からはじまる都市ワークショップ」という惹句が魅力的で、その下にある説明もかっこいいのだけれど、具体的に何が行われるのかよくわからない。

ワークショップ初日の今日は、ウェブページの文章とほぼ同じ内容が口頭で説明された後は、何と3時間半ずっと参加者の自己紹介が続き、それで終わってしまった。

 

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無料のワークショップでなかなか面白そうなのだけれど、日時的にどんな人が来るのだろうと思っていた。今日行ってみると学生、俳優、演出家、観劇人など世の流れからは外れたところで生きていそうな面白そうな人たちが集まっていた。知り合いも何名かいた。20名定員となっているが、50人の参加申込みがあったそうで、結局、今日集まったのは25名だった。今日は自己紹介(全員終わらなかった。10人ぐらいやっていない人がいる。明日やるらしい)、明日は自己紹介の残りを終えたあと、会場のSHIBAURA HOUSE(5階は硝子張りの開放的な作りでかっこいいビルだ)の半径500メートルぐらいを参加者がそれぞれ取材。明後日は取材成果を再構成して発表というスケジュールとのこと。しかしどのように何を取材するかは具体的な指示がなく、成果の発表についてもしかりという超フリーな形態なので、明日・明後日はどうなるかはわからない。

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「ワークショップはこれまで時間がなくてほとんどやったことがない。うまくいくかどうかはよくわからない」。「自分の自由を他の人たちにも共有してもらいたい」と講師のパスカル自身が言っていたりする。とにかく町に出て歩いたり、佇んだりしながら、リアルを観察して、リアルをそれぞれが把握し、そのリアルの断片を再構成して作品として伝える、ということらしい。「見る、観察する、記録する、再構成する」。でもどうやって? それは各自が考えるらしい。

きっちりと構築された平田オリザのワークショップとは対極にあるいきあたりばったりの即興の連続のワークショップだ。4時間の時間をどう使うかとなると、普通ならプログラムを事前に組み立てておくものだと思うのだが。

「今日は時間がたっぷりあるから、一人一人じっくり自己紹介していこう!」ということで、最初の人の自己紹介で40分近い時間を消化。自己紹介の内容にパスカルがいちいち突っ込みをいれる。最初の青年はミニマル音楽を作っていると言ったら、「じゃ、その場でどんな音楽なのかデモンストレーションしてみて」と無茶振りされているし。さらに「あ、朝のおばあさんとの会話、それをできるだけ忠実にここで他の人に演じさせてみて」なんてことを要求されたり。えらいと思ったのは、この行き当たりばったりのパスカルの無茶振りを、振られた人がとにかくやってみせたことだ。「えー、無理ですよ」と拒否したりしない。

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こんな奔放な突っ込みに誘導されたのか、参加者の自己紹介はほぼ初対面の人たちに対してかなりディープで深い内容になっていった。パスカルの行き当たりばったりの勢いに、思わず普通は人には自己紹介ではわざわざ言わないようなことを語るはめになっていくというか。こんな調子で自己紹介が進んで行ったので、25人のうち今日、自己紹介ができたのは15人だけで、あとの10人は翌日に積み残しである。何と言うことだ!でもパスカルは「これでいいのだ」と開き直った感じであった。

私の自己紹介はまだすんでいない。とにかくこの自由さに乗っかって、あとの二日、参加し、その様子を記録しておきたい。

静かなる叫び

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http://aoyama-theater.jp/feature/mitaiken2017

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フェミニズムを憎悪する男が、冬のある日、理工科学校の女子学生を銃で次々と殺戮していく様子を緊張感に満ちたモノクロの画面で再現する。この事件に遭遇した人間が味わった恐怖と混乱、彼らに残されたトラウマを淡々と描く。


犯人の内面は説明されない。彼がただフェミニズムを激しく憎んでいて、それが大量殺戮の動機となったことだけが提示される。3人の視点からこの事件が再現される。一人は犯人、もう一人は生き残った女子学生、3人目はこの女子学生の友人の男子学生。犯人は最後に自殺する。男子学生は自分がこの惨劇の現場にいながら何もできなかったことに大きなショックを受ける。彼はただ動き回り、血まみれの犠牲者を目にする。事件後、この青年はクリスマス前に田舎で一人で暮らす母を訪ねた後、雪の平原のなかに自動車を停め、排気ガスで自殺する。女子学生は希望通り航空会社でインターンとして働きはじめた。しかし常にあの事件の悪夢に苦しめられている。彼女は妊娠した。その事実を不安とともに受けとめるが、自分のお腹のなかの生命に祈るように希望を託そうとする。

日常のなかに唐突に圧倒的な暴力が入り込んだときの人間の無力さ、弱さ、状況にただ戸惑い、恐れる様子が、冷徹に映し出される。そしてこうした暴力が、その被害者に与えるダメージの強烈さも。こうした説明不可能な破壊衝動は、その不条理性ゆえに人間を震撼させる。それはわれわれ自身が心のなかに抱え込んでいる闇の深さを象徴しているかのように感じさせる。

ヴィルヌーヴはこのセンセーショナルな事件をできるだけ理知的に客観的に提示しようとした。彼の硬質で冷静な映画美学がこの作品に荘厳な緊張感を与えている。切り取られたショットもシャープだが、音楽も素晴らしい。

 

平原演劇祭2017第一部『未成年安愚楽鍋』

構成:高野竜

出演:中沢寒天、耳見みみ、杏奈

会場:西日暮里じょじょ家

お品書き:

  1. 序(三池崇史『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』より)
  2. 菅原孝標女更級日記』上総〜相模
  3. 諸工人の侠言(しょくにんのちうッぱら)(仮名垣魯文安愚楽鍋』より)
  4. 人車の引力語(ひきごと)仮名垣魯文安愚楽鍋』より)
  5. 讃岐の国の女冥土に行きて、其の魂還りて他の身に付きたる語(『今昔物語』より)
  6. 落語家の楽屋堕(はなしかのがくやおち)仮名垣魯文安愚楽鍋』より)
  7. のっそりジュヴェーヌ(幸田露伴五重塔』より)
  8. 飛天夜夜叉(幸田露伴五重塔』より?)
  9. 菅原孝標女更級日記駿河

 

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埼玉県宮代町在住の劇詩人・演出家の高野竜がプロデュースする平原演劇祭2017第一部に行ってきた。場所は西日暮里駅から歩いて数分のところにあるじょじょ家というカフェ(おそらく)。店内のテーブルや椅子を外に出して、公演会場としていたのだが、それでも内部は八畳間ぐらいの広さしかない。

17時開演なので、その20分ほど前に会場に到着したのだが、既に人で埋まっていて通常の椅子席はすべて塞がっていた。最終的にはこの狭い場所に出演者3名を含め20名ほどの人間がひしめきあう状況になった。

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今回の演劇祭では「安愚楽鍋」という演目にちなんでスキヤキ付きだ。実際供されたのは「スキヤキ」と呼ぶべきかどうか微妙だが、肉の入った鍋料理がこの狭い会場内で調理され、主宰の高野竜がふるまった。しかしこの狭い会場に人がぎっしりの状態なので、なかなか肉鍋が観客に行き渡らない。狭い中、身体を寄せ合い、観客は肉鍋を食べる。食べ物も平原演劇祭の演目のひとつなので、食べないわけにはいかない。肉鍋はあっさり醤油味で、牛のすじ肉とネギ、豆腐などが入っていた。いつもの平原演劇祭以上のぐだぐだの状況のなか、十分押しでとにかく公演は始まった。

公演内容は未成年10代の少女三人によるリーディング公演だ。狭い場所に人が密集しているので客と演者の距離は数十センチしかない。演者は観客に至近距離で取り囲まれる中でリーディングを行わなくてならない。『未成年安愚楽鍋』という公演タイトルだが、会場では読まれたのは『安愚楽鍋』だけではなかった。上に記しているお品書きにあるテクストが読まれた、というよりは上演されたのだが、この「お品書き」、即ち朗読テクストのリストは観客全員には配付されなかった。これは不親切だ。配付を忘れていたのか、それとも最初から配付する気がなかったのか不明だが。

公演時間は約70分。70分のあいだ、三人の十代女優が「お品書き」テクストを上演していくが、私も含め、観客のなかで彼女たちが語る日本語の意味をちゃんと追えた人はいなかったのではないだろうか。まずオープニングの『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』の冒頭部再現(スマートフォンでの映像とシンクロさせて上演された)はすべて英語だ。もちろん字幕なし。それから平安時代のテクストである「更級日記」(読まれているときは作品名は私にはわからなかった)の抜粋、その後ようやく『安愚楽鍋』から「諸工人の侠言」(これも後で「お品書き」を見てわかった)。「諸工人の侠言」については、ウェブ上に転写している人がいた。

 

「エエ、コウ、松や聞いてくれ、あの勘次の野郎ほど附合つきあいのねえまぬけは、西東にしひがしの神田三界かんださんがえにゃアおらアあるめえと思うぜ。まアこういう訳だ聞いてくりや、夕辺ゆうべ仕事のことで八右衛門さんの処とこへ面ア出すと、ちょうど棟梁とうりうが来ていて、酒が始まっているンだろう、手めえの前めえだけれど、おらだって世話焼きだとか犬いんのくそだとか言われてるからだだから、酒を見かけちゃア逃げられねえだろう。しかたがねえからつッぱえりこんで一杯いっぺえやッつけたが、なんぼさきが棟梁とうりう大工でえくでもご馳走にばかりなッちゃア外聞げえぶんがみっともねえから、盃を受けておいてヨ、小便をたれに行く振りで表へ飛び出して横町の魚政うおまさの処とけへ往いってきはだの刺身をまず一分いちぶとあつらえこんで、内田へはしけて一升とおごったは、おらア知らん顔の半兵えで帰けえってくると、間もなく酒と肴がきた処とツから、棟梁とうりうも浮かれ出して、新道しんみちの小美代を呼んで来いとかなんとか言ったからたまらねえ。藝妓ねこが一枚いちめえとびこむと八右衛門がしらまで浮気うわきになってがなりだすとノ、勘次の野郎がいい芸人の振りよをしやアがって、二上にあがりだとか湯あがりだとか蛸坊主が湯気ゆげにあがったような面つらアしやアがって、狼の遠吠えでさんざツぱら騒ぎちらしゃアがって、その挙句が人力車ちょんきなで小塚原こつへ押しだそうとなると勘次のしみツたれめえ、おさらばずいとくじを決めたもんだから、棟梁も八さんもそれなりになってしまッたが、エエ、コウ、おもしろくもねえ細工せえくびんばう人ひとだからだ、あの野郎のように銭金ぜにかねを惜しみやアがって仲間附合を外すしみったれた了簡なら職人をさらべやめて人力じんりきの車力しゃりきにでもなりゃアがればいいひとをつけこちとらア四十づらアさげて色気もそツけもねえけれど、附合とくりゃア夜が夜中よなか、槍がふろうとも唐天からてんぢよくからあめりかのばったん国までも行くつもりだア、あいつらとは職人のたてが違わあ。口はばツてえ言い分だが。うちにやア七十になるばばアにかかアと孩児がきで以上七人ぐらしで、壱升の米は一日いちんちねえし、夜があけてからすがガアと啼きやア二分にぶの札がなけりゃアびんばうゆるぎもできねえからだで、年中十の字の尻けつを右へぴん曲るが半商売だけれど、南京米なんきんめえとかての飯は喰ツたことがねえ男だ。あいつらのようにかかアに人仕事をさせやアがって、うぬは仕事から帰けえツて来ると並木へ出て休みにでっちておいた塵取ごみとりなんぞをならべて売りやアがるのだア。すツぽんにお月さま、下駄に焼き味噌ほど違うお職人さまだア、ぐずぐずしやアがりやア素脳天すのうてんを叩き割って西瓜の立売にくれてやらア。はばかりながらほんのこったが矢でも鉄砲でも持って来い、恐れるのじゃアねえわえ、ト言い掛かりやア言いたくなるだろう、のウ松、てめえにしたところがそうじゃアねえか。オイオイ、あンねえ《女》熱くしてモウ二合ふたつそして生肉なまも替りだア、早くしろウ、エエ。

江戸末期・明治初期の戯作文の語り文体、こんなものを早口で一気に読み上げられてその意味を追える人は、平原演劇祭という特異な演劇公演の観客のなかにもそうはいないはずだ。そもそもこれを快速で語っている女優も意味を追いながら読んでいるとは思えない。演者である女優三人の前には、小型の電気グリルが見台のごとく置かれていて、そこで肉を焼きながら彼女たちは語っていた。

お品書きを後で見てわかったことだが、仮名垣魯文安愚楽鍋』からの抜粋が3つあるが、これ以外のテクストが『安愚楽鍋』とどういう繋がりを持っているのか、「序」の「スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ」を除いて私にはわからない。

「諸工人の侠言」、「人車の引力語」と二つ『安愚楽鍋』からのテクストが演じられた(と言うべきだろう)あと、『今昔物語』から「讃岐の国…」という幻想譚(鬼が出てくる幻想譚であることはかろうじてわかった)が奇妙な仮面を被って朗読される。その後に『安愚楽鍋』から「落語家の楽屋堕」。つぎの『のっそりジュヴェーヌ』は、エッフェル塔建設に己の職人としての全存在をかける大工の話で、「あれ?どっかで聞いたような話だなあ」と思っていたら、幸田露伴五重塔』のパロディだった。私は前進座の公演で『五重塔』を見ていたので、聞き覚えがあったのだ。でもなぜ『五重塔』?と思う。最後は『更級日記』で終わる。

一月のこの時期に『安愚楽鍋』を未成年女優に朗読させ、観客に「すきやき」(かっこ付きだが)をふるまうというアイディアには、何らかの理由があるに違いない。そして一見、つながりがみえないテクストの構成にも意味があるのだろう。

観客にとって意味が取れないテクストを延々と聞かせるために、観客に肉鍋を食わせたりする他、時折楽器などで効果音を入れたり、三人娘に合唱させたり、食べさせたり、飲ませたりといったいくつかの緩やかな趣向はあった。

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こんな窮屈な場所での意味不明のパフォーマンスが公演として成立するのか、と問いたくなる人もいるかもしれないが(私自身が、自分でも問うていたのだが)、これがちゃんと成立している。もちろんいわゆる演劇公演とは異なるありかたで、こうした時空の共有がパフォーマンスを軸に成立していたのだ。

いったいわれわれ観客を何を聞き、何を見ていたのか。意味不明だが確かに日本語ではある言葉の音楽的な連なりを、その意味を追うことをあきらめたままぼんやりと聞き、さらにぐつぐつと鍋が煮え立つ音を聞き、そして時折、電車の通過音を聞いた。

高野竜の平原演劇祭は、様々な趣向でその場にいる者を強引に内輪として取り込み、彼らをまとめて別の時空へ連れて行ってしまう。

今日の公演で一番印象に残ったのは、最初の肉鍋で出てきたすじ肉の旨みだった。一応の公演終了後、再び鍋に追加された野菜や肉が観客にふるまわれた。牛肉はすじ肉だけ。あとは豚やら鴨やら。こんな窮屈ところで、立ったまま、知らない人と飯を食うなんて落ち着かないなあと私は思ってしまうのだが、それでもなぜか食べてしまう。鍋はすぐに空っぽになっていた。

渡辺源四郎商店『コーラないんですけど』

渡辺源四郎商店第26回公演 『コーラないんですけど』

  • 作・演出:工藤千夏
  • 出演:三上晴佳、工藤良平、音喜多咲子、<声の出演>宮越昭司、各務立基
  • 音響:藤平美保子
  • 照明:中島俊嗣
  • 舞台美術・宣伝美術イラスト:山下昇平
  • 舞台監督:中西隆雄
  • 宣伝美術:工藤規雄、渡辺佳奈子
  • 音響操作:飯嶋智
  • 監修:畑澤聖悟
  • プロデュース:佐藤誠
  • 制作:秋庭里美、佐藤宏之、夏井澪菜、音喜多咲子、木村知子
  • 劇場:こまばアゴラ劇場
  • 評価:☆☆☆☆

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2017年の初芝居はこまばアゴラ劇場で渡辺源四郎商店『コーラないんですけど』。

妻と子供二人(高1女子、小5男子)と一緒に見に行った。家族で演劇を見に行くのは前がいつだったか思い出せないほど久しぶりである。もしかすると初めてかもしれない。

作・演出は工藤千夏。ちらしの絵の雰囲気、タイトル、そして年末・正月の公演なので何となく脳天気なおめでたい内容の芝居を予想していたのだけれど、シリアスで時事的・社会的な主題を扱った作品だった。チラシの文面を読むと「師走の忙しさも、元日の華やぎのかけらもない芝居である」とちゃんと書いてある。

今の世相に人びとがもやもやと感じている不安感を演劇化した作品だった。といっても重苦しい雰囲気の作品ではない。工藤千夏作・演出で、しかもなべげん所属のあの俳優を使うとなると、たとえ生真面目なテーマででも、ほんわかしたやわらかい雰囲気のパステル・カラーの芝居になってしまう。

母子関係、すなわち家族問題と戦争という二つの問題が扱われている。「コーラないんですけど」という日常的な言葉が、そのまま戦争と繋がってしまうような状況を、引きこもりの少年と彼を溺愛し、甘やかす母の二人のやりとりを核に描いた作品だった。

この共依存のこの母子の家庭は一般社会から孤立しているように見える。家庭両親の離婚の原因、父親が今、何をしているのかについてはまったく語られない。母の過剰な愛情と期待を浴びて育った少年は、その過剰さに押しつぶされてしまい小学校高学年の頃からゲーム三昧の引きこもり生活を送っていた。劇中では彼の幼い頃から、その小学校時代、思春期、さらに彼が成人し、民間軍事支援機関に入り親元を離れるまでが描き出される。シーケンスごとの年代が前後していたり、その並び方に飛躍があったりする上、母親と息子の役柄も年代によって同じ俳優が入れ替わって演じるので、最初のうちは孤立したエピソードが並置されているように思える。

劇が進行するに従って、二人の関係性やシーケンスの繋がりが明確になり、現代の日本ではいたるところにありそうな母子の閉鎖的な共依存関係とその生活の不安・破綻が、遠く離れた紛争の地の問題とつながりうる現実のすがたが浮かび上がってくる。

中東、アフリカなどの地域紛争と日本の現実が繋がっているというような感覚に、私がリアリティを感じるようになったのはいつ頃からだろう? 私の場合、それはごく最近のことだ。サラ・ケインが『blasted』でユーゴ紛争の凄まじい暴力とイングランド地方都市のモーテルの一室とを直結させた場面では、作品そのものの迫力には魅了されたけれど、私は日本の現実と戦争状態にある外国の状況が直結しうるものだというイメージを持っていなかった。

ケベックのムワワッドの戯曲に基づくヴィルヌーヴの作品、『灼熱の魂』を見て、その後、ケベックに行き、その移民社会であるカナダでは『灼熱の魂』のようなドラマが神話的・象徴的レベルではなく、リアルな物語として説得力を持ちうることを知った。ムワワッドの作品を通じて、私は中東紛争とフランス、ケベックのつながりにはじめて興味を持ち、幾分かの知識を得た。しかしそれは依然まだ遠い世界の、私の現実とは関係ない世界の出来事だった。その後、ニースに行き、そこでのフランス語教員研修で中・東欧、旧ソ連、中東、アフリカの先生方と知り合い、紛争地域の問題は私にとって少し身近に感じられるようになった。日本での安倍政権のもとでの憲法改正の動き、そして安保法案の決議、さらにフランスなどヨーロッパで頻発する中東勢力によるテロリズムにより、中東問題には無関心でいられなくなっている。

しかしそれでも今日、この作品を見るまで、自分の子供が戦場に行く可能性についてはほとんど考えていなかったことに気づいた。劇中での民間軍事援助組織は架空の組織ではあるが、実際に閉塞感に満ちた現実から脱出しようと、自衛隊や傭兵組織への加入を目指す若者はいるだろう。制度として整備されれば、かなり大量の若者がそうした組織に流れる可能性がないとは言えない。

どんな芝居なのかまったく予想せずに、何となく家族四人親子でこの芝居を見ることになったのだけれど、内容的に芝居の中の世界を自分のリアルな世界と重ねて考えずにはいられない。
主題の扱い方は、正面から社会派の鋭い切り口でというのではなく、親子の共依存関係を軸にあえて柔らかくぼんやりと映し出すという方法が取られていた。母子役は時折、役柄を入替ながら、同じ役者が演じる。この母子の家庭を訪問する人間、母がコーラを探しに行くコンビニの店主は、また別の役者二人が複数役で演じていた。母子については衣装を変えるわけでもなく、ほとんどシームレスに役柄が交代するのだけれど、その転換は実に鮮やかで説得力があった。この母子関係にゆさぶりをかける外部の人間を演じた二人の役者もよかった。四人ともカメレオンのように各シーケンスで要求される役柄へと変化していく。俳優はそれぞれ愛嬌があって、そのユーモラスな変容ぶりを楽しむ作品でもあった。

偶然そうなったのだが、親子四人でこの作品を見ることができたのは幸運だった。