閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

Tokyo fiancée (2014)

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監督 : Stefan Liberski

脚本 : Stefan Liberski, d'après le roman Ni d'Ève ni d’Adam d'Amélie Nothomb
時間 : 100 minutes
出演:Pauline Étienne : Amélie (pour Amélie Nothomb)、Taichi Inoue : Rinri、Julie Le Breton : Christine

評価:☆☆☆☆

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ベルギー人女性作家、アメリ・ノトンの小説、Ni d'Adam ni d'Eveを原作とする映画。2015年にフランスなどで公開されたが、日本では未公開。日本人になりたくてしかたない20歳のアメリが来日。東京で彼女のただ一人のフランス語の生徒になったお金持ちの日本人男性と恋に落ちる、という話。

ベルギー人女性を主人公とする『ロスト・イン・トランスレーション』といった趣の作品。フランスの日本に対するステレオタイプ、彼らが見たい日本の姿を知るうえで、非常に興味深い作品だった。

日本版DVDがなくて、フランス語版で見たがアメリが日本人相手にフランス語を話しているという設定もあり、フランス語が聞き取りやすい。
主演のポリーヌ・エティエンヌが可愛い。彼女が映画のなかでの服装もおしゃれで可愛らしく、東京の風景とよくマッチしていた。彼女が裸になる場面がいくつもあるのだが、おっぱいもきれいだった。

愛人ジュリエット(1950)JULIETTE OU LA CLEF DES SONGES

愛人ジュリエット(1950)JULIETTE OU LA CLEF DES SONGES

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2003年にパリのオペラ・ガルニエで見たリチャード・ジョーンズ演出によるマルチヌーのオペラ《ジュリエットあるいは夢の鍵》は、私がこれまでに見たスペクタクルのなかでも最も印象深い作品だ。夢のなかで主人公のミシェルは、《忘却の村》に迷い込む。そこには彼が愛した女性ジュリエットがいた。彼はこの村でジュリエットを探し、歩き回る。この忘却の村の住民たちは過去を記憶しておくことができない。過去の不在である不安感から逃れるために、住民たちはこの村を訪ねる人たちに話を乞い、それを自らの過去の記憶としている。

マルセル・カルネ監督、ジェラール・フィリップ出演の映画版はずっと見たかったのだが、ようやく見ることができた。キリコの絵画で描かれる風景を思い起こさせる城塞、詩的で象徴的な響きの台詞が、幻想的で不安定な夢の世界を描き出し、それが実際には窃盗の罪で投獄されるミシェルの現実と対比をなしている。夢のなかでのミシェルの恋人、ジュリエットは彼が追いかけても、夏の日の逃げ水のようにすっと遠ざかってしまう。捕まえられそうで決して捕まえることができない、そのもどかしさの表現がいい。到達できない幻想の愛、理想の恋人の物語だ。

オペラ版と映画版では、話の展開が異なるように思った。ジョーンズ演出のオペラ版を見たのは15年前なので細部は覚えていないのだが、ミシェルがジュリエットと知り合ったときのエピソードがあったように思うし、夢のなかの忘却の村の彷徨がもっと強調されていたように思う。オペラ版もまた見てみたいし、ヌヴの原作版も読んでみたい。

わたしは、ダニエル・ブレイク(2016)I, DANIEL BLAKE

danielblake.jp

  • 製作国:イギリス/フランス/ベルギー
  • 初公開年月:2017/03/18
  • 監督: ケン・ローチ 
  • 製作: レベッカ・オブライエン 
  • 脚本: ポール・ラヴァーティ 
  • 撮影: ロビー・ライアン 
  • 編集: ジョナサン・モリス 
  • 音楽: ジョージ・フェントン 
  • 出演: デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ
  • 映画館:シネ・リーブル神戸
  • 評価:☆☆☆☆☆

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社会的弱者を蹂躙し、絶望と無気力に導く社会システムの理不尽に対するケン・ローチの激しい憤りが伝わってくる作品だった。私たちは怒りを表明しなくてはならない。決してあきらめてはならない。ケン・ローチの作品は、正しく生きるというのはどういうことなのかを教えてくれる。

私はこの映画で描き出される登場人物の強さと弱さに何度も泣いた。権力を持つものの理不尽で無礼な対応に対して、弱者はどれほど強くならなければならないか。そして社会・組織の横暴に対して、個人はどれほど弱いものなのか。強さと弱さの現実をこの作品ははっきりと提示している。

はっとさせるような悲壮で美しい場面がいくつかある。最初に私が思わず涙したのは、福祉事務所の申請で困窮するケイティ母子を邪険に扱う職員に対し、ダニエルが決然と異議申し立てをした場面だ。私もまた自分の身の回りの人間が被る理不尽に対して、はっきりと抗議を行えるような人間になりたい。

配給所で思わずケイティが缶詰をその場で開けて食べてしまう場面もたまらない。ああいう情景を思い付き、作品に挿入できるローチのアイディアは驚くべきものだ。ずっと我慢してきた彼女は思わず缶詰を開け、その中身を立ったまま口にする。そのみじめさに崩れ落ちるケイティを受け止めるダニエルをはじめとする周囲の人間の心優しさに胸打たれる。

福祉局での対応に絶望したダニエルが、スプレーで福祉局の壁に対応を告発する怒りの落書きをする場面にも思わず背筋が伸びた。あの怒りの表明でもって彼はかろうじて人間としての尊厳を表明できた。あの落書きは彼だけではない、社会システムから虐待される弱者たちの悲痛な叫びであり、やりきれない憤怒の怒号だ。

そしてぼろぼろになったダニエルを訪ねるデイジーのドア越しのセリフ。「あなたは私たちを助けてくれた。今度は私たちがあなたを助ける」。この言葉に傷つきぼろぼろになったダニエルは人間を取り戻す。

社会の不条理に押しつぶされそうになりながらも、必死でそれに抵抗し、人間としての尊厳を守ろうとするダニエルとケイティの悲壮な闘いが、いくつもの感動的な場面を作り出していた。

 

平原演劇祭2017第3部「芝がするどく鳴ってゐる」

togetter.com

  • 日時:2017/3/19(日)13:00 - 16:00

  • 会場:府中是政豆茶房でこ

  • 料金:1000円+投げ銭(ドリンク付)

  • 出演:さやか、角智恵子、ひなた、暁方ミセイ、MEW、戸川裕華、中沢寒天、酒井康志、高野竜

  • 演目:「詩とは何か」(高野竜作)、21世紀版「小岩井牧場」(宮沢賢治原作、暁方ミセイ版)、「孤立が丘」(高野竜作)ほか

バングラデシュ産ナツメヤシのラビオリとサトウキビ純100ぶっかき黒砂糖です

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平原演劇祭の開催情報は、主宰の高野竜のtwitter(@yappata2)が頼りとなる。各部の公演は一回きりなので、このアカウントからの情報をうっかり見逃してしまうとこの特異な演劇祭に立ち会うことはできなくなってしまう。

2017第2部は3月はじめに行われ、場所はなんとバングラデシュの田舎町だった。twitterでの同行者募集に応じた京都カウパー団のげきまきまき(@makielastic)と二人で10日間、インドとバングラデシュを回ったようだ。この海外公演の様子は、二人のtweetから断片的にしかわからない。

今回の彼らのインド・バングラデシュ滞在中は、私はフランスにいたためもとより不可能だったのだが、できることならば随行してこの公演のレポートをしたかったものだ。高野が27年前にバングラデシュを訪ねたとき一晩だけ同宿した人だけが頼りという無謀なバングラ公演だったが、大きな成果が獲得されたようだ。このツアーが面白くなかったはずがないだろう。

竜‏ @yappata2 3月14日
用意したのは台本とケンガリと仮面と、岸田衿子「かばくんのふね」。絵本持ってったのは前回訪孟のイメージから路上パンソリみたいなことを想定してたんですがもしかして学校公演とかになるかもとも思ったので。なにしろ27年前にひと晩だけ同宿した人だけが頼りという雲をつかむようなハナシでして。

さて2017年第3部は、ここ数年、5月のはじめ頃に行われていた府中市是政にある豆茶房でこでの公演である。

武蔵関から西武多摩川線に乗り、その終点が是政駅だ。私はうっかり中央線の特快に乗ってしまい武蔵関を通過してしまった。立川から武蔵駅に戻っているうちに多摩川線の列車に乗り遅れ、開演予定時刻の13時に間に合わなかった。でこに着いたのは13時10分頃。開演を遅らせて私の到着を待ってもらったみたいで、まだ始まっていなかった。早くから来ていたお客さんに申し訳ない。でこは10畳ほどの広さしかない。観客の数は20名ほどだった。

13時15分頃に開演したが、喫茶店のドアは開け放たれたまま。入口付近に座っていた高野竜がドアの外を見ながら「大きな穴が開いている」とか話すと、でこの店内にいた女優(角智恵子であることがあとでわかる)がそれに応えて何か言う。

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この二人のやりとりに続きオープニング演目、高野竜のモノローグ劇の傑作、「詩とは何か」が始まった。この演目は毎年、現役の女子高生が演じる。高校生活になじめず、不登校の女子高生が町の高台から望遠鏡で駅前のロータリーの様子を眺める。そこには常連のナンパ師がいて、成功率の極めて低いナンパを日課のように行っていた。女子高生は、なぜかそのナンパ師のことが気になってしかたない。そのナンパ師が突然姿を見せなくなった。しばらくいないなと思っていると、再び彼は駅前に現れるようになった。そこで女子高生はあることに気づく。

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居場所を見つけられず、世界の隙間のようなところでひっそりと身を守り、世の中を観察する女子高生の心を大きく揺さぶる、ささやかではあるが劇的な事件が駅前のロータリーで起こる。その事件がもたらすささやかな奇跡に後押しされ、彼女は一歩新しい世界に押し出される。「詩とは何かを」を演じる女子高生女優は毎年変わる。今年この作品を演じたさやかはずっと遠くのほうを眺めているかのようだった。彼女のほほには静かに涙が一筋流れていた。でも感情が高ぶるようなことはない。彼女が観察し、経験した現実を、そのまま、すーっと受けとめるかのように、そして受けとめた現実をひとつひとつ丁寧に体のなかに刻み込む かのようにさやかは語った。

開け放たれた入口から聞こえる外の道路の音が、喫茶室なかの語りと呼応していた。通りすがりの近所のひとたちがいったい何をやっているのだろうと、喫茶店のなかを覗き込む。

「詩とは何か」を語り終えると、 さやかは、そのまま開け放たれたままの入口を通って外に出て行った。彼女の移動と入れ違いに戸川裕華の弾き語りがはじまる。

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戸川裕華は身長138cm、丸めがね、 おかっぱ黒髪の小学生少女のような見た目の歌い手だ。歌曲は多少単調だったが、思いを絞り出すような歌声とそのスタイルには独自性、存在の主張があった。「私はいま、ここにいる」と彼女は歌を通してずっと叫んでいるように思えた。

戸川裕華の弾き語りの後はおやつ時間。この軽食タイムも平原演劇祭には欠かせない要素だ。今回の軽食は、揚げラビオリと黒砂糖の塊。

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ラビオリの皮は春巻き、中味は、サラミとバングラデシュのナツメヤシ、あとクミンシードかクローヴパウダーの2種類の味つけとのこと。中味はあとで知った。辛かったり甘かったりの奇妙な味で、いったい何が入っているのだろうと思いながら食べた。黒砂糖の塊はかなり固く、錐を木槌で打ち込んで砕いた。素朴な甘みだが案外おいしい。バングラデシュのお土産として持ち帰ったそうだが、当然、空港では「一体これは何だ?」と何回か尋問されたそうだ。見た目がえたいが知れなくていかにもやばそうなので、検査官としては調べたくなるだろう。

おやつ時間のあとは町歩き朗読となった。詩人の暁方みせいが、宮沢賢治「小岩井牧場」(のおそらくみせいによるアレンジ版)を読みながら、豆茶房でこの周辺を歩き回る。酒井康志が小型のラジカセを頭の上にかかげ、みせいさんに続く。ラジカセからはパーカッションの音が流れる。それを20名ほどの観客がぞろぞろと追いかけるという「ブレーメンの音楽隊」のような町歩き朗読となった。

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暁方みせいは歩きながら朗読するのだが、ときおり何箇所かで立ち止まったり、座ったりして朗読を続けた。彼女の朗読の声は、町の風景のなかに溶け込んでしまいよく聞こえない。ラジカセから流れるパーカッションの音はぽこぽこ響く。奇妙な集団散歩者、朗読付きの出現に、通りすがりに出会った住人たちはぎょっとしていた。そりゃそうだろう。

暁方みせいの朗読を引き継いで、そのまま野外で、今度はこの3月に高校を卒業するひなたが地域の観光ガイドのような一人語りを始める。

これが平原演劇祭2017第3部「芝がするどく鳴ってゐる」の最後の演目、高野竜の新作戯曲「孤立が丘」だった。最初は観客を目の前に、ひなたは地域の地図の看板を指し示しながら歴史ガイドのように、このあたりの地誌についてマニアックな説明を始める。しばらくするとそれがチェーホフの「かもめ」の一場面の再現へと移行していく。そのとき、ひなたが話す後ろで寝ていた路上生活者がいきなり覆いをとって起き上がり、ひなたに絡み始めた。この路上生活者は仕込みで、さきほどまで豆茶房でこにいた角智恵子だった。この仕掛けには大笑い。こんなとこに路上生活者が寝ているなんて変だなと思っていたのだが。

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角智恵子は女優なのか、何者なのか。この堂々たるチンピラぶり、ヒッピー風のふてぶてしさ、ただ者ではないのだけれど、彼女のアイデンティティがよくわからない。角智恵子はひなたの演技にだめ出しをする。この後、野外から再び豆茶房でこの店内に場所がまた戻る。

二人の会話はうねうねと脱線をくりかえしながら、この付近にかつて流れていた水路とその痕跡についての蘊蓄、詩の朗読、演技論、俳優論、戯曲論、それからまた地誌的な話題へと連なっていく。土地の歴史の物語が文学、演劇と結びつき、この二つのトピックのあいだを二人の会話は自由に行き来していく。そして土地と物語、演劇論は文学的幻想の世界へと帰結していく。

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ひなたは最後に極度の緊張が続いたためか立てなくなってしまった。彼女を角智恵子が開け放たれたままだった入口から外へと担ぎ出す。出る間際に角智恵子から

「あ、これで終演です」

という言葉はあったものの、なんか中途半端な感じだ。終演後のあいさつのない。

今回の公演ではずっと裏方をやっていた中沢寒天が場をつなぐために話しはじめた。

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大学で地理学のゼミをとっているという彼女は、先ほどひなたと角智恵子の芝居のなかで言及されていた是政の川の歴史のはなしへの補足のような感じで、彼女が住む浦安の地理的状況について話し出す。その話は、その地形にまつわる歴史の話につながり、さらに浦安をかつて襲った大水害にかかわる物語の語りへと移行していく。この中沢寒天「場つなぎ」も演目の一部だったのだ。

後でわかったことだが彼女の語りは、ひなたと角智恵子が演じた「孤立が丘」の終幕部に相当し、中沢寒天は浦安出身ではあるが、地理学のゼミなど大学で取っていない。

このように平原演劇祭では現実と虚構が巧妙に混じり合い、リアルな世界が時間のかなたの過去の世界、幻想の物語の語りの世界へと、自在に行き来する。

16時過ぎに出演俳優の紹介があり、本当の終演。

たかが世界の終わり(2016)JUSTE LA FIN DU MONDE

gaga.ne.jp

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成功したゲイの劇作家ルイが、自分の死を告げるために、12年ぶりに実家に帰る。なぜ死ぬのか、なぜ12年間帰省することがなかったのかは説明されない。12年間、帰省することはなかったこのハンサムな劇作家は、家族の誕生日に数行のメッセージを添えた絵はがきを送ることで家族との接触をかろうじて保っていた。

実家にいるのは、彼の母親、兄夫婦、妹の4人。登場人物は主人公を含め家族の成員の5人だけだ。実家にいる人たちはそれぞれどこか壊れている感じがする。母親はスーパーハイテンションで舞い上がっている。妹は情緒不安定。兄はなぜかいつも不機嫌で、他の家族の言葉尻を捉えては神経を逆なでするような攻撃的な嫌みを言う。弟のルイにも憎悪をむき出しにするが、その憎悪の原因はわからない。兄の妻はルイに好意的ではあるが、なぜか彼に対してはずっとvousという丁寧語で話す。話し方は常におどおどしていて、コミュニケーション障害があるように見える。

突然12年ぶりにやってきたルイだけが、冷静で温厚でまともな人間に言える。しかし彼は自分の死を告げにやって来たというのに、それを結局、家族に伝えることができない。彼の告白を受け入れるような雰囲気がないのだ。家族間のグロテスクで異常なテンションのバリアで、彼の存在ははじき飛ばされてしまうかのようだ。彼は地獄となったこの家族には救世主となるような存在なのだが、家族はその救世主を受け入れる余裕がなくなっている。結局、彼は何をしに帰ってきたのかわからない。調和を失った殺伐とした家族の状況に何の影響ももたらさないまま、兄に追い返されてしまう。

今のフランス映画界を代表するような名優が揃って出演している。その演技のクオリティの高さは驚くべきものだ。マリオン・コティヤールが演じる人物のおどおどしたしゃべり、表情の不安定さを見て、すごいものだなと思う。他の俳優もみな素晴らしい。ヴァンサン・カッセルの切れ方とか。主人公をのぞいて皆、強烈な個性の狂った感じの人物ばかりなので、逆に演じやすいというのはあるかもしれないが。

物語としては、自分の死を家族にわざわざ告げにやってきたというゲイ劇作家、ルイのもったいぶりかた、気取り方が鼻についてイライラした。

音楽は使いたくなるような場面には、躊躇せずにふんだんに使われている。使用されているポピュラー音楽の歌詞は、その場面のパラフレーズとなっている。映像のほとんどは人物の顔のアップというのもこの映画の特徴だ。登場人物の視点と重なるショットが多い。主観的な視線だけで構成された映像とも言える。象徴的な映像・音楽・台詞を重ねることで、各人物の情念が濃厚に表現される。

海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~(2016) FUOCOAMMARE

www.bitters.co.jp

  • 上映時間:114分
  • 製作国:イタリア/フランス
  • 初公開年月:2017/02/11
  • 監督: ジャンフランコ・ロージ 
  • 撮影: ジャンフランコ・ロージ 
  • 編集: ヤーコポ・クアドリ
  • 映画館:Bunkamuraル・シネマ
  • 評価:☆☆☆☆

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シチリアの南、アフリカの沖合にある地中海の島を撮影したドキュメンタリー映画だが、澄んだ青色の海と空の映像はほとんど出てこない。薄曇りの灰色の空とその色を映し出す海、そして夜の風景。
この島にはこの20年間に40万人の難民が上陸したという。

この島に住む10歳ぐらいの少年の生活とこの島に漂着する難民たちの様子が並列的に映し出される。この二つの島の日常には直接的な接点はない。この二つの日常を繫ぐのは、島にただ一人の医師と島のローカルラジオ局で流れるニュースだ。

難民船は島のそばにあるリビアもしくはチュニジアから出航しているのだと思う。しかしその船に乗っている難民たちの出身国は、私が思っていた以上に多様だった。コートジボワール、ナイジェリア、スーダンソマリアエリトリアなどサハラ砂漠の向こう側の地域の人たちが多いのだ。中東のシリアからの難民もいた。彼らは何千キロもの陸路を経て、地中海沿岸の港町に到達し、そこで難民船に乗って地中海を横断しようとする。しかし映画で映し出されたその難民船の環境のひどさは、私の想像を超えるものだった。まさに命を賭けた脱出であり、それほどのリスクを冒してでも逃げ出したいようなひどい現実がアフリカ、中近東の彼らにはあったということだ。

最初のうちは少年の日常風景のスケッチが延々続くことの意味が分からなかったし、ナレーションもBGMとしての音楽もないので退屈し、眠くなってしまった。しかしこの対比の意味が見えてきて、少年の存在が何を象徴するのかがわかってくると、はっと目が覚め、引き込まれていく。

沈黙 ─サイレンス─(2016)SILENCE

chinmoku.jp

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2時間40分を超える長尺の作品だったが。音楽をほとんど使わないストイックな演出が、作品の宗教的テーマを厳粛に浮かび上がらせる。日本の風俗描写には大きな違和感は感じなかった。ただポルトガル人司祭が英語を話すことに対する違和感はさいごまで私は消えることはなかった。とりわけ冒頭の中国で司祭二人がキチジローに会う場面で、中国人も含め、全員が英語で会話していることでひっかかる。複数の言語が劇中で使われているため、ベースを英語にしても整合性を取るのが難しい場面が出てくる。

リアリズム史劇なので、英語使用のご都合主義が機能していない場面が出てくると私は興ざめしてしまう。劇中の英語は「ポルトガル語」にあたると理解し、脳内言語変換して見られるようになったのは、だいぶたってからだった。この英語をポルトガル語をみなすという映画内ルールがうまくいかない箇所で記憶に残っているのは、切支丹農民が「paraisoに行けるんですよね?」と英語で司祭に尋ねると、司祭が「paraiso? おおparadiseか!」と返事したやりとりです。ポルトガル人なんだから「パライソ」でわかって欲しい。英語に直してようやく理解するとは。英語はこの映画ではポルトガル語なんだと考えても、映画のなかの江戸時代の農民、武士たちは、いくらなんでも外国語コミュニケショーン能力が高すぎるように思える。

映画のなかでは司祭はほとんど日本語を話さないのだが、実際の布教ではむしろ司祭や修道士たちが日本語を積極的に学び、日本人のほうはポルトガル語スペイン語ができる人はそんなにいなかったのではないだろうか? そうでないとあれほど信者を獲得できなかったはずだ。

言葉のことが気になってしまったが、遠藤原作を忠実になぞった司祭の葛藤、キチジローの裏切りを軸とするドラマはやはり面白い。キリスト教側の論理だけではなく、日本の支配体制側の論理も、説得力あるものとして示しているところがこの映画のいいところだ。だからこそ司祭たちの迷いも深刻になっていく。

もう一つ、この映画を見て気づいたことは、踏み絵を拒否するというのは神に対する崇敬の表明だけでなく、権力の圧倒的な暴力に対する人間の尊厳を賭けた憤りの表現、決死の抵抗だったということだ。命を賭けての行為なので、踏み絵にはものすごく大きな勇気と決意が必要となる。それほどまでに当時の信者たちは追い詰められていたのだ。

 

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第三日目(1/27)

theatercommons.tokyo

パスカルは二日目のワークショップの最後に、次のような奇妙な指示を出した。「最終日の三日目は、あなたたちに今日行った都市のリサーチの報告をしてもらうのですが、もちろんどんな形式での報告でもかまいません。ただ一つお願いしたいのは、一つの報告が終わったら、それじゃあ次の報告、それから次の報告、という具合に次々と区切りをつけて報告が行われるというかたちではやって欲しくないのです。各発表はあるがまま、なすがままの経過の中で、自然でゆるやかな連鎖によって行って下さい。一つの発表をそれに必要と思われる時間を十分に使って行い、それをしっかりとみなが受けとめてから、連鎖的に次の発表が始まるような感じで。発表は数秒でも数十分でも必要な時間、使って下さい」
私は質問した。
「それでは全員が成果を発表できないかもしれませんね?」
この質問に対してパスカルは、「それはしかたない。C’est la vie(そういうもんだよ)だよ」とそれがごく当然のことであるかのようにさらっと答えたのだった。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第二日目(1/26)

theatercommons.tokyo

パスカル・ランベールによる「都市を舞台に、すべての参加者が観察者/記述者/表現者となる。「みること」からはじまる都市ワークショップ」の第二日目。

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血液型A型乙女座六白金星の私は授業をやるにあたっては、一見いい加減にやっているように見えながら、実は事前にきっちり計画をたてて、やるべきことをリスト化していないと不安なたちだ。毎日の仕事とはいえ、数十人の人間と対峙し、60分なり90分なりの時間を成立させるのは、かなり恐いことであり、とりわけ人間関係が構築されていない新学期の授業はいまだに緊張する。毎回の授業でどんなプログラムで構成するのかは決めているのだが、新学期の最初の授業ではとりわけ細かくやることを決めている。
平田オリザのワークショップを受けたときは、それゆえ、その見事に構造化されたプログラムの精緻さに感動したのだ。しっかり構築されているがゆえに平田のプログラムはあらゆる対象に対して応用可能なものになっている。いったいあのプログラムに到達するのにどれほどの時間を要したのだろうと考えてしまう。

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今回受けているパスカルのワークショップは、方法・発想的に平田のプログラムの対極と言えるものだ。ワークショップのコンセプトは、なるほどよく練られていて、魅力的だ。しかしその具体的方法は、徹底的に即興的・反射的であり、パスカルとワークショップ受講者のやりとりのなかで、脱線し、発展していく。これは驚くべきものだ。教育プログラムなどで、「受講者の自主性を引き出し、自由な発想、発言を歓迎する」と称するものはあまたあるが、その大半は実際には受講者に自分の発言を強要し、さらにその発言を講師の考える方向・結論へ意識的・無意識的に誘導するものでしかない。最終的には終わりの時間までに、予定調和的なものへと行き着くことで完結となる。

パスカルのすごいところは、最終的に帳尻を合わせるということが最初から頭にないということだ。彼は参加者から言葉を引き出そうとする。彼のエネルギーと明るさ、そしてフランス語なので通訳を介してのコミュニケーションとなるということがおそらく作用して(平野さんの通訳もかなり貢献している)、参加者はついうっかり余計なことを話してしまう。その余計なことまで話すことが許容され、むしろ推奨される完全に開かれた自由な時間が、このワークショップでは成立しているのだ。もちろん時間は有限だ。14時に始まり、18時には解散しなくてはならない。普通なら終了時間までには何とか帳尻合わせをしようという意識が働くものであり、そこで「自由さ」に欺瞞が生まれる。時間内に何とかまとめて、結論めいたものを出そうとする、求めるのが普通の人だ。しかしパスカルはそうではない。

昨日の第一日目は、25人の参加者のうち、15人の自己紹介が終わったところで時間切れとなった。

「それじゃあ、残りは明日、自己紹介ね」
三日間12時間のワークショップの一日目が、15人の自己紹介だけで終わっただけであることを、パスカルは全く気にしていない。『都市をみる/リアルを記述する』というワークショップのお題には全く入ることができなかった。でも濃厚な自己紹介を通じて、他者を知り、これからどういうことがこのメンバーで起きうるかについて想像できるような場を持てたことで、それは十分な収穫ではないか、というのがパスカルの考え方だ。

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そして今日の二日目の自己紹介。10人自己紹介をしていない人間が残っていたはずだが、今日来ていたのはそのうち8人だった。2人は昨日の様子にもしかすると呆れてしまい、参加を取りやめたのかも知れない。さすがに今日は『都市をみる/リアルを記述する』のリサーチの時間を取れないとまずいと思ったのか、自己紹介は昨日よりはあっさり目で40分ほどで終わった。もしかするとパスカルもちょっと疲れていたのかもしれない。自己紹介が終わると、

「それじゃあ、これからみんな建物外に出て、iphone使って写真撮るなり、音を撮るなり、明日の発表のための取材をしてください。17時半に戻ってきてね」

と参加者は建物外、半径500メートルの領域に放牧されてしまう。

発表と言っても、具体的に何をどうやればいいのか。それは発表者に完全に委ねられている。ここまで徹底的に自由にやってこそ、自由というのは意味を持つのだ。参加者のなかには演出家や俳優、ダンサーもいる。彼らはこれまで受け取った言葉をヒントに、プロフェッショナルとしての各人の矜恃を持って、彼らが見出した都市の断片について何らかの表現を提示しなくてはならないだろう。「具体的に何が求められているのかわからない」という言い訳は彼らには許されていない。もちろんアマチュアはアマチュアで、この自由さを引き受けたうえで、ありあわせの材料で何とか表現を作っていかなければならない。

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私は町に出た時点ではほぼノーアイディアだった。でもどんなものであってもでっち上げなくてはならない。とあるコンセプトに基づき、町の数カ所で写真を撮った。それを構成して表現とすることにしたが、うまくいくかどうか。いや、うまくいくかどうかはどうでもいいのだ。とにかくあり合わせの材料で自分ができることを提示するしかない。

17時半に元の会場に戻る。そこで簡単に明日の確認。明日は各自のリサーチの成果の発表となる。どんなかたちの発表になるのかは各自に委ねられている。パスカルはここで奇妙な指示を出した。

「あの〜、発表なんだけど、この人が終わったから、次この人みたいに、次々とこなしていくみたいには絶対やって欲しくないんだ。ある人の作品のプレゼンが終わったら、それを皆が受けとめて味わいつくしたあとで、その自然な流れで次の発表が連鎖的に行われるみたいな感じでやって欲しい。一つのプレゼンが数秒だったり、あるいは40分だったりしてもかまわない。それぞれの表現が必要とする時間を十分使ってやるんだ。時間を決めて、パンパンパンパンみたいな感じではやらないで」

参加者は20名以上いる。全員が発表するとなると、ひとり10分でも200分、3時間20分必要だ。準備を入れると4時間超えるだろう。しかしこんな調子では、平均10分で終わるなんてことはまず無理だろう。私はこの期に及んで、「でもこれでは明日、全員が発表できないじゃないか」とやきもきし、質問した。

「それじゃあ、明日、全員がその成果を発表できないかもしれませんね?」

するとパスカルは、

「うん、そうだね。でもC’est la vie(それが人生)ってやつだ。しかたないよ。発表できなくてもこうしてコミュニケーションを取れて、都市を見つめる機会を持てたんだからいいじゃん。また次の機会もあると思うし」
と答えたのであった。このワークショップで帳尻合わせを気にしていた自分がバカだった。私も「学生の自主性を引き出す」というのであれば、ここまで自由で開放的な授業をしてみたいものだ。

明日、どんな発表が見られるのか、本当に楽しみにしている。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第一日目(1/25)

theatercommons.tokyo

【第一日目 1/27(水)】

1/26から28の三日間にわたってSHIBAURA HOUSEで行われたフランス人劇作家・演出家のパスカル・ランベールのワークショップに参加した。

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「都市を舞台に、すべての参加者が観察者/記述者/表現者となる。「みること」からはじまる都市ワークショップ」という惹句が魅力的で、その下にある説明もかっこいいのだけれど、具体的に何が行われるのかよくわからない。

ワークショップ初日の今日は、ウェブページの文章とほぼ同じ内容が口頭で説明された後は、何と3時間半ずっと参加者の自己紹介が続き、それで終わってしまった。

 

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無料のワークショップでなかなか面白そうなのだけれど、日時的にどんな人が来るのだろうと思っていた。今日行ってみると学生、俳優、演出家、観劇人など世の流れからは外れたところで生きていそうな面白そうな人たちが集まっていた。知り合いも何名かいた。20名定員となっているが、50人の参加申込みがあったそうで、結局、今日集まったのは25名だった。今日は自己紹介(全員終わらなかった。10人ぐらいやっていない人がいる。明日やるらしい)、明日は自己紹介の残りを終えたあと、会場のSHIBAURA HOUSE(5階は硝子張りの開放的な作りでかっこいいビルだ)の半径500メートルぐらいを参加者がそれぞれ取材。明後日は取材成果を再構成して発表というスケジュールとのこと。しかしどのように何を取材するかは具体的な指示がなく、成果の発表についてもしかりという超フリーな形態なので、明日・明後日はどうなるかはわからない。

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「ワークショップはこれまで時間がなくてほとんどやったことがない。うまくいくかどうかはよくわからない」。「自分の自由を他の人たちにも共有してもらいたい」と講師のパスカル自身が言っていたりする。とにかく町に出て歩いたり、佇んだりしながら、リアルを観察して、リアルをそれぞれが把握し、そのリアルの断片を再構成して作品として伝える、ということらしい。「見る、観察する、記録する、再構成する」。でもどうやって? それは各自が考えるらしい。

きっちりと構築された平田オリザのワークショップとは対極にあるいきあたりばったりの即興の連続のワークショップだ。4時間の時間をどう使うかとなると、普通ならプログラムを事前に組み立てておくものだと思うのだが。

「今日は時間がたっぷりあるから、一人一人じっくり自己紹介していこう!」ということで、最初の人の自己紹介で40分近い時間を消化。自己紹介の内容にパスカルがいちいち突っ込みをいれる。最初の青年はミニマル音楽を作っていると言ったら、「じゃ、その場でどんな音楽なのかデモンストレーションしてみて」と無茶振りされているし。さらに「あ、朝のおばあさんとの会話、それをできるだけ忠実にここで他の人に演じさせてみて」なんてことを要求されたり。えらいと思ったのは、この行き当たりばったりのパスカルの無茶振りを、振られた人がとにかくやってみせたことだ。「えー、無理ですよ」と拒否したりしない。

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こんな奔放な突っ込みに誘導されたのか、参加者の自己紹介はほぼ初対面の人たちに対してかなりディープで深い内容になっていった。パスカルの行き当たりばったりの勢いに、思わず普通は人には自己紹介ではわざわざ言わないようなことを語るはめになっていくというか。こんな調子で自己紹介が進んで行ったので、25人のうち今日、自己紹介ができたのは15人だけで、あとの10人は翌日に積み残しである。何と言うことだ!でもパスカルは「これでいいのだ」と開き直った感じであった。

私の自己紹介はまだすんでいない。とにかくこの自由さに乗っかって、あとの二日、参加し、その様子を記録しておきたい。