閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

平成29年度渋谷学研究会「民俗芸能の舞台公演―その歴史・意義―」

www.kokugakuin.ac.jp
日時 | 平成30 年3 月15日(木) 13:30 ~ 17:30
会場 | 國學院大學渋谷キャンパス 5号館 5301教室

今、日本は空前の民俗芸能ブームとのことだ。東日本大震災が東北における民俗芸能の再興のきっかけとなったいう。被害の大きかった東北太平洋沿岸はもともと民俗芸能の豊かな地域だった。地域コミュニティの再構築、郷土意識の覚醒の核として、民俗芸能の機能が注目されるようになった。

これに伴い東京でも日本各地の民俗芸能の上演の機会が多くなった。このシンポジウムの問題提起は、本来の上演の時と場から切り離され、東京の劇場空間で上演される民俗芸能をどのように評価するかということだった。

共同体の祭から離れ、都会の劇場で演じられると、当然奏祭者(=伝統芸能の演者)と観客の関係は大きく変わる。東京の劇場で未知の観客の視線にさらされたり、他の芸能の奏祭者たちと交流を持ったりすることが、奏祭者の意識や芸のあり方に必然的に変化をもたらす。この変容をどうとらえ、評価するか。地域の閉鎖的な環境のなかで保存されてきた伝統が、舞台公演によって変化してしまうことを危惧する研究者は少なくない。しかしこうした新たな上演機会の獲得による衰退していた伝統芸能の活性化、表現の刷新といった肯定的な面もある。

 

今回のシンポジウムでは3人の報告者がいたが、それぞれの立ち位置は異なったものだった。一人目の小川直之氏は民俗学者で、研究者の立場から地方の伝統芸能を考察するだけでなく、宮崎の神楽を東京に招聘し、公演を行う活動にも関わっている。彼が参照するのは折口信夫が民俗芸能上演を國學院大學などでやったときの姿勢だ。二人目の報告者、舘野太朗氏は素人歌舞伎の実演者でもあり、演劇研究者でもある。彼は大正期の坪内逍遙のページェントの試みに注目し、ページェントという大規模素人地域演劇のコンセプトを引き継いだ坪内の弟子、小寺融吉の郷土舞踊の活動に現代における民俗芸能上演の可能性を探る。三人目のパネラー、小岩秀太郎氏はもともとは郷土芸能の担い手だったが、今は全日本郷土芸能協会という組織の一員であり、この協会のスタッフという立場から伝統の継承/新しい表現の創造、伝統の保存/活用という現在の地域芸能の葛藤の状況を述べた。

 

私は昨年から地域素人演劇研究のグループに入って調査をはじめているが、このグループに入ってから気づいたことは、日本各地で行われている地域素人演劇活動の数々は、私の研究フィールドである中世13世紀アラスの都市市民世俗劇上演を考える上で多くのヒントが含まれているということだ。

13世紀アラスの演劇、あるいは中世フランス演劇は、17世紀以降の古典主義以降の作家主義、芸術的演劇の歴史のなかにおさめて考えるよりも、地域のアマチュア演劇としてとらえ、その上演・創作活動が地域コミュニティに対して持っていた公共性を軸に作品を読み解くほうが実り多いように思うようになったのだ。
つまりこういうことだ。中世フランス演劇は極めてローカルで、とある地域の特殊な条件のもとに成立した文化現象である。しかしそのローカルな演劇のあり方が実は普遍的なものであるということが、現代日本の地域素人演劇研究から見えてくるだろうということだ。この仮説はおそらく正しい。論証するにはもっと勉強しなくてはならない。逍遙のページェント論は私としてもしっかりと検討しておきたい。そして論文の形で発表しなくてはならない。

今日の発表は私は門外漢といっていいのだけれど、中世フランス演劇のみならず、自分の演劇観を問い直すような示唆がいくつかあった。4時間半にわたるシンポジウムだったが、聞きに行ってよかった。

RoMT Acting Lab. プロジェクト公演『ギャンブラーのための終活入門』

ギャンブラーのための終活入門 – RoMT

A Gambler's Guide to Dying

  • 作:ガリー・マクネア
  • 翻訳:小畑克典
  • 演出:田野邦彦
  • 出演:太田宏
  • 場所:上井草 エリア543
  • 評価:☆☆☆

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太田宏さんの回を見に行った。
太田宏さんが前にRoMTでやった3時間超えの一人芝居『ここからは山がみえる』に比べると、脚本が弱い。つまらない本というわけではないけれど、それほど面白い話というわけでもない。

ブックメーカー(賭屋)、サッカー、スコットランド人の反イングランド感情などが折り込まれているので、エジンバラの観客は日本の観客よりはるかにこの一人芝居を楽しむことができたはずだ。そうしたローカルねたにとどまらない普遍的な要素はある話ではあるのだけれど、物語の語りの仕掛けは単調で、仕掛けに乏しい。ありきたりの物語といえばありきたりで、私は物語に乗っかって語りに聞き入ることができなかった。

太田さんの語り芸は達者で安定している。さすがにうまいし、手慣れているなとは思ったけれど、脚本の弱さゆえか、技術的な巧さには感心するけれど、語りの世界になかなか入っていけなかった。

入り込むことができなかたもう一つの理由は、椅子だ。約2時間の公演だったのだけれど、通常の高さのパイプ椅子(これでもきつかったかも)は数少なく、私の入場時にはもう埋まっていた。高さのない小さな椅子に座ることになってしまったが、あの椅子で2時間座ったままというのは拷問だ。

太田さん以外の俳優では、どんな風に変わっているのか興味はあるけれど(太田さんのようにはできないだろう)、あの椅子と脚本では再び赴く気にはなれず。

町田市立版画国際美術館《浜田知明 100年のまなざし》

2018/03/14 

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町田市立国際版画美術館に浜田知明展を見に行った。

高校時代にしばしば行っていた兵庫県立近代美術館の版画コレクションに浜田知明の銅版画があって、そのユーモラスで幻想的な作風に魅了された。1980年代後半だ。近代美術館の版画室はいつ行ってもガランとしていた。
 
1996年に新宿の小田急美術館(小田急百貨店のなかにあった)で浜田知明の大規模な展覧会があり、その会場に作者本人がいたので購入した画集にサインを貰った。画集は滅多に買わないのだけれど、今、家でこの画集をあらためて見て、購入しておいてよかったと思った。
 
1960年代以降の風刺的でとぼけたユーモアのある作品群も悪くはないけれど、やはり中国の戦地での兵隊としての体験に基づく1950年代の《初年兵哀歌》のシリーズが圧倒的に素晴らしい。
 
町田市立国際版画美術館の会場もガランとしていた。静かにゆっくりひとつひとつの作品と向き合うことができた。美術館の広くて暗い空間のなかで、額装された作品に対峙する体験は、画集で作品を見るのとはまた別の鑑賞体験だ。
 
美術館で作品を見るときにはいつも、「ここで展示されている作品のなかで一点持ち帰ることができるとすれば、どの作品を選ぶか」を考えながら見る。私が選ぶとすれば、初年兵哀歌(風景)1952だろう。他にも迷う候補はあるのだけれど。荒野の中に女性の死体が転がっている。死体は裸体でその性器には細長い棒が突き刺さっている。その背景、地平線の手前に遠ざかっていく兵隊の列が小さく描かれている。

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企画展のポスターで使われている《月夜》(1977)もいい作品だ。三日月のした静かに抱き合う男女、その姿はとろけるような倦怠と安らぎに満ちている。この作品は展覧会を企画した学芸員が選んだ「この一枚」なのだろう。

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大学の美術研究会に銅版画用のプレス機があって、一度だけエッチングを数枚作成したことがある。版画は手順がいろいろあってかなり面倒なので、美術研究会在籍中にやった銅版画はその一回だけ。タンギーっぽい幻想風景画を作って、今思うとけっこう面白い作品ができていたように思うのだけれど、刷った作品は手元にない。

 

クロード・ガニオン『KEIKO』(1979)

KEIKO

KEIKO

 
 
  • 上映時間:117分
  • 製作国:日本
  • 公開情報:劇場公開(ATG)
  • 初公開年月:1979/11/17
  • ジャンル ドラマ/ロマンス
  • 監督: クロード・ガニオン 
  • 製作: ユリ・ヨシムラ=ガニオン 
  • クロード・ガニオン 
  • 脚本: クロード・ガニオン 
  • 撮影: アンドレ・ペルチエ 
  • 美術: 橋本敏夫 
  • 編集: クロード・ガニオン 
  • 音楽: 深町純 
  • 出演: 若芝順子、きたむらあきこ、池内琢磨、橋本敏夫、中西宣夫
  • 評価:☆☆☆☆★

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監督クロード・ガニオンがケベック出身ということで前から気になっていた作品だった。大学を卒業し、京都で一人暮らしをはじめた女性のvita sexualisをドキュメンタリー・タッチのハイパーリアリズムで描いた傑作だった。23歳で一人暮らしをはじめた女性のよるべなさ、孤独感、そしてその孤独感ゆえに恋愛を求める心理が丁寧に描写されている。FUKAIPRODUCE羽衣の《サロメvsヨカナーン》のリフレインで「ひとりぼっちよりもましだから愛している」に深く共感したが、この映画を見ても人は寂しからこそ恋をしてしまうんだなということがよくわかる。

主人公KEIKOは、大学を出て一人暮らしを始めるが、まず高校時代の先生を飲みに誘い、先生を誘惑して初体験をすませる。その後、行きつけの近所の喫茶店で知り合った若い男性に恋をし、彼との関係に溺れるが、その男が既婚者であることを知り、深く傷つく。会社の同僚の若い男性が彼女に接近するけれど、失恋直後の傷心の彼女はその男とは恋愛する気分になれない。彼女のアパートに遊びに来た会社の同僚の同性愛者の女性とKEIKOは関係を持ち、彼女と古い和風の家屋で同居生活を始める。彼女との生活でKEIKOは精神的な安らぎを得るが、結局はこの女性との共同生活を一方的に破棄し、親が勧める見合い相手と結婚する。
こんな性遍歴を送る女性というのは本当にいそうだ。

主演のKEIKOを演じた女優、若芝順子はこの作品にしか出演していない。当時現役の京大生だったそうだが、彼女のおっぱいが美しく、そのたたずまいは清楚にして非常にエロチックだ。彼女のルックスのみならず、映像の雰囲気、ダサい音楽が作り出す昭和的世界が実にいい。

『うちの子は』

せんがわシアター121 vol.11 海外戯曲シリーズ 「うちの子は」|調布市 せんがわ劇場 公演情報

  • 作:ジョエル・ポムラ
  • 訳:石井 惠
  • 演出:松本 祐子
  • 出演:磯西 真喜(演劇集団円)、岩澤 侑生子、瓜生 和成(東京タンバリン)、奥田 一平(文学座)、高橋 ひろし(文学座)、伴 美奈子
  • 美術:杉山 至
  • 照明:関 定己
  • 音響:堀内 宏史
  • 衣裳:丹下 由紀
  • 舞台監督:廻 博之
  • 演出助手:松川 美子
  • 宣伝美術:原子 尚之
  • 制作統括:末永 明彦
  • 劇場:せんがわ劇場
  • 上演時間:70分
  • 評価:☆☆☆★
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せんがわ劇場でジョエル・ポムラ『うちの子は』(松本佑子演出)を見た。
ポムラは今、フランスで最も評価の高い劇作家の一人だ。『うちの子は』は、様々な親子の葛藤の場面を提示する十のエピソードからなる作品。

情緒的で説明的な演出は私の好みではなかった。新劇風の「うまい」演技によって、各エピソードの情景が型にはまったわかりやすいものになっていた。

私も親なので、自分の親子関係を重ねながら見たこところもあったのだけれど、自分の場合は、自分の親子関係についての理解をセンチメンタルな物語の型にできるだけ流し込まないようにしている。意識的に子供とは距離を取ることを意識していないと、ずるずると自分の願望を投影することで子供を押しつぶしてしまいそうな気がするからだ。子供は自分とはまったく別の独立した存在であり、自分の思いどおりにはならない存在である。

『うちの子は』の脚本は、強力かつ繊細な緊張関係のなかにある親子関係のリアリティを細心の注意で反映されているように私は思った。しかし松本佑子の演出はそれを情緒的な型に流し込み、わかりやすいものに変形してしまった。昨年のリーディング公演でもそう思ったのだが、今年の演劇版はそうした類型化がさらに押し進められていた。

OiBokkeShi『カメラマンの変態』

oibokkeshi.net

  • 作・演出:菅原直樹
  • 出演:岡田忠雄、ポール・エッシング、申瑞季青年団
  • 舞台監督:市川博明
  • 映像:南方幹
  • 宣伝美術:hi foo farm
  • 宣伝イラスト:あさののい
  • 題字:和気はじめ
  • 制作:野坂牧子 濱町有衣子
  • 企画制作:「老いと演劇」OiBokkeShi
  • 特別協力:蔭凉寺 社会福祉法人光風福祉会 シバイエンジン
  • 会場:特別養護老人ホーム 蛍流荘
  • 評価:☆☆☆

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老いと演劇」OiBokkeShi第4回公演『カメラマンの変態』を美作市の老人ホームで見た。観客は幼児から高齢者まで様々だったが、アフタートークの様子から介護職に就かれている方が多くいたようだった。
91歳の老人を俳優として、高齢者介護に関わる演劇を作るという発想が斬新で、この公演は様々なメディアで取り上げられている。実際、私もこのような超高齢者を役者としてどう動かすのか興味津々だった。
作・演出の菅原直樹は、青年団の演出家だが、岡山に居住し、介護職の現場で働いている。

91歳の老俳優の「おかじい」は、脳梗塞の後遺症で食事介助が必要で、言葉が話せない老人を演じていたが、実際にはかくしゃくとした人だった。耳は遠くなっているようだが、介護老人を「演じる」ことができる人だ。ここが私の事前の予想とは違ったところだ。私は運動も知的な反応もままらない、そういう高齢者がその生の身体を、舞台で晒すことを、どこかで期待していたことに、作品を見終わった後で気づいた。

上演時間は60分。「おかじい」の他に、彼を介護するオーストリア人の若い男性、かつて写真家である老人と関わりを持った40代の謎の女性の3人芝居。
三幕構成で最初は老人と介護人の食事介助などの場面、二幕目は老人に40年ぶりに会うという謎の女がやってきて、老人はその女をモデルに写真を撮る。三幕目は、老人の死後、女と介護職男性のやりとり、そして2人のその後が背景文字によるナレーションで示される。

芝居の雰囲気は平田オリザ風だが、設定の非現実性やナレーションでの過剰な説明など、平田風戯曲・演出ゆえにかえってディテールの粗が気になってしまう。正直なところ、演劇作品としてそれほど面白いものではなかった。眠気を堪えるのが大変だった。

終演後に「おかじい」が終演後の高揚を抑えることなく、暴走して長々と挨拶を行った。その暴走ぶりが面白かった。この後説も含めて作品とすべきなのかもしれない。

老齢ゆえに「おかじい」の演技にはミスがあったらしい。しかしそのミスがどこだったのかは私には分からなかった。今回の芝居ではおかじいにセリフはない。手順を忘れても何とかなるような融通は利くような台本になっていたのだろう。

おかじいは超高齢者ではあるが、作演出の意図を理解し、それに沿った演技ができる俳優だった。これがもし本当の痴呆で身体が不自由な状態の老人が出演し、その作品が演出家のコントロールがほぼない不可能な状態の演劇、生の老人を晒す芝居だったら、どうだっただろうかと考えてしまう。もっと微妙で複雑な問題提起ができていたのでは。私が見たかったのはむしろそういう芝居だったように思う。しかしそれは単に見世物として、そうした人たちを晒されるのを見たいというわけではない。

現実問題としての老いという問題なら、私には年老いた両親がいるし、最後の十年間を脳梗塞のため、痴呆状態のまま、老人介護施設で過ごした祖母がいた。『カメラマンの変態』の冒頭の食事介助の場面を見ながら、私は祖母が最晩年を過ごした老人介護施設で自分が祖母の食事介助したときのことを思い出した。私がそのとき特に感慨を抱くことなく、淡々と「さあ、おばあちゃん、食べな」と言いながらスプーンを口に運んでいたことを。

老人介護をめぐるこうした現実は私に限らず多くの人にとって既知の状況だ。しかし身の回りにそういう現実がある(あった)と言っても、そうした生の現実を私自身や関係する人々が直視できたか、そしてその現実を直視した上でそれについて率直に語ることができるか、考えることができるかといえば、そういうものではない。老人介護の問題には直視しがたい、率直に語りがたい、心理的障壁がある。

そうした人とそれらの人々の抱える問題を をどのように演劇的に提示することが可能なのか、というのを期待して私はこの作品を見に行ったのだが、この点では物足りなさを感じた。91歳の素人の老人を舞台に出すというのは「コロンブスの卵」と言っていい素晴らしい発想だと思う。しかし芝居自体はごく普通の芝居だった。「すごい!91歳のおじいさんが舞台に出て、芝居をしている!」という感動は確かにあるのだけど。

ザ・モニュメント 記念碑

themonument14.webnode.jp

  • 作: コリーン・ワグナー
  • 翻訳: 神保良介
  • 演出: 川口典成(ピーチャム・カンパニー)
  • 出演: 西田夏奈子  神保良介
  • 劇場:高田馬場 プロトシアター
  • 評価:☆☆☆☆

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2014年に同じ劇場で見た時も雪の日だったような気がする。

すごく陰惨で重い芝居だったという印象は強烈だったが、話の内容は覚えていなかった。しかし始まってすぐどんな話だったが記憶が蘇った。

若い兵士と女の二人芝居、2時間。
兵士は何人もの若い女性を拐かし、強姦し、殺害した。その罪で裁かれ処刑されようとするときに、女がやって来て女の命令にはそれがどんなものであっても従う、という条件で、兵士の処刑を免れさせる。兵士は鎖で繫がれ行動の自由を奪わる。女は兵士に対して常に強圧的にふるまい、ときに理不尽な要求を兵士にして、兵士を肉体的・精神的に苛む。

マリヴォーの一幕ものの芝居にあるようなある種の人工的な状況の下で展開する実験劇で、戦争中の独特の高揚感のなかで倫理観を麻痺させ女を陵辱し、殺害した状況が兵士によって再現される、あるいは女の命ずるままにその状況を再現させられる。圧倒的な権力関係のなかの暴力の残忍さを延々と見せつけられるきつい芝居だ。

こうした戦争がらみの極限状況を、日本人の俳優が説得力のある演技で再現することは難しい。生ぬるく平和の日本の状況が、この種の芝居に要求される苛烈さにそぐわないのだ。上村聡史演出のカナダのケベックの作家、ムワワッドの『アンサンディ』を見た時、岡本健や麻実れい、その他新劇系の俳優たちがあの作品で描き出されている悲惨な状況を、「上手に」演じれば演じるほど、私はそらぞらしさを感じた。

『ザ・モニュメント 記念碑』では状況を徹底的にきりつめ、抽出することで、日本人俳優でも説得力のある表現が可能な普遍性を持つことができているように思った。もちろんずっと極度の緊張を保ち続けたまま、激しい芝居を続ける二人の俳優の演技も素晴らしいとしかいいようがない。見ている方もその迫力に引き込まれながら、げっそりしてしまうような芝居なのだから、演じるほうの消耗度も相当なものだと思う。

プロトシアターという会場の殺伐とした倉庫のような空間も作品に合っていた。むき出しの石の床のひび割れが作品の雰囲気とマッチしていた。

青年団リンク ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』

whey-theater.tumblr.com

  • 作・演出:山田百次(ホエイ|劇団野の上)
  • 出演:河村竜也(ホエイ|青年団) 長野 海(青年団) 石川彰子(青年団) 斉藤祐一(文学座) 武谷公雄 松本 亮 山田百次(ホエイ|劇団野の上)
  • 照明:黒太剛亮(黒猿)
  • 衣裳:正金 彩
  • 演出助手:楠本楓心
  • 制作:赤刎千久子
  • プロデュース・宣伝美術:河村竜也
  • 劇場:こまばアゴラ劇場
  • 評価:☆☆☆☆☆

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歴史のなかでその使命を終え消えてしまった共同体は無数にある。その町で暮らしていた人々の存在も、町の消滅とともに忘れ去られてしまい、時間の闇のなかに消えて行く。

ホエイの『郷愁の丘ロマントピア』は、私たちの今がそうした巨大な喪失の上に成り立っていることを教えてくれる作品だ。演劇的な手法で、ある町の歴史・物語を再現し、その町の記憶を召喚することで、そこで生きていた人々を厳かに鎮魂する。作品から聞こえてくる声の重なりの分厚さに圧倒され呆然とした気分になった。その声は、忘れ去られ、消え失せたものの膨大さを私たちに思い起こさせる。

背景を覆うホリゾント幕が表すダム湖のうす青色が静かに伝える、深く悲痛な思いに打ちのめされる。あの青の向こう側には、かつて多くの人たちが生活していた共同体があった。観客である私たちも俳優とともにこの人工湖の傍らに佇み、そこに沈んだ集落の日々を思う。

オーソドックスな回想の芝居だが、ホエイの演劇ならではの独自の視点と表現があた。ある土地の物語・歴史を、作り手と観客が自分たちの物語として、そして普遍性のある物語として、誠実に理解し、語り、受け止めることにはどうすべきなのかがが、しっかり考えられている作品だと思った。

SPAC『しんしゃく源氏物語』

http://spac.or.jp/the_tale_of_genji_2018.html

  • 演出:原田一樹
  • 作:榊原政常
  • 衣裳デザイン:朝倉摂
  • 舞台美術:松野潤
  • 出演:池田真紀子、石井萠水、大内智美、河村若菜、舘野百代、ながいさやこ、山本実幸
  • 劇場:静岡芸術劇場
  • 上演時間:100分
  • 評価:☆☆☆☆★

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SPAC最多上演レパートリー作品だが、私は見るのは今回がはじめてだった。
醜女の末摘花が荒れ果てていく家でひたすら光源氏の来訪を待つという話だ。
源氏物語』のエピソードをそのまま使っているが、劇作品となったこの『しんしゃく』は『ゴドーを待ちながら』のバリエーションになっている。

「もう光源氏はやって来ないかもしれない」という絶望感の中で貧困に喘ぎながらも、退廃することなく矜恃を保ち続け、健気に「待つ」姫を演じた池田真紀子がよかった。

彼女の演じた末摘花の高潔さが「待つ」という状況に重層的で形而上的な深さをもたらした。この作品を見た観客は、彼女が到来を待望していた「光源氏」にさまざまなものを投影するだろう。「光源氏」は自分ではどうすることもできない運命の象徴であり、この作品は運命に翻弄されつつ、運命に希望を託し、それにすがって生きていくしかない人間の姿を描いた悲劇だ。現れることのない光源氏は彼女を救い出す「白馬の王子」的な存在から、彼女の生存の本質にかかわる何かに変貌している。

待望の光源氏の再訪を知らされたとき、彼女は一度「会うのは嫌や」と拒んだ。その言葉のあとの数秒間の沈黙が作り出す緊張感がたまらない。あの数秒間に彼女の思い、悔しさが凝縮されている。最後の場面の末摘花の美しさは崇高さを感じさせるものだった。

七人の女優がみな素敵だった。女優の素晴らしさに注目してしまうような戯曲と演出だった。末摘花に寄り添う老女、少将を演じた舘野百代の芝居がとりわけ印象に残った。
姫と娘の間で葛藤し、混乱する様をコミカルに丁寧に演じていた。彼女の存在はこの劇の要となっていた。ひたすら待つ状況が続き、停滞するこの物語に心地よいリズムを作り出していた。

河村若菜が演じた叔母が末摘花をいびり倒す場面もリズミカルなのりがあってとても良かった。関西弁のいびりの勢いが、あの場面に絶妙の緊張感をもたらす。表情や仕草、口調の一つ一つにニュアンスがあり、俳優の細かい配慮と工夫が伝わってきた。意地悪演技は堂にいったもので、観客の笑いを取っていたが、単なる意地悪叔母さんではない思いやりのかけらみたいなところもさりげなく表現に入れているところが心憎い。

この作品は中高生鑑賞事業でも上演される。『源氏物語』が題材と言うことで多くの学校から申込みがあったそうだ。思春期のただなかで、希望と不安を抱えながら何か分からないものを待っている彼らがこの作品にどんな感想を持ち、どんな反応を示すのか知りたい。ある種の迷える子供たちにとっては、ひたすら待ち続ける末摘花の物語は、まさに自分の抱える実存への不安をかたちを与えてくれるような、たまらない体験になるのではないだろうか。

映画『勝手にふるえてろ』

furuetero-movie.com

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生き方をこじらせ、恋愛妄想のなかで生きる屈折した女性の物語。
主演の松岡茉優がとにかく素晴らしい。「こんなに可愛らしく歪んだ女の子がいるなんて!」と思わせる好演。Qの市原佐都子の世界に近いところがあるが、こじらせ妄想が発酵し過ぎてグロテスクな様相を露悪的に見せる寸前で留まっている。その絶妙の危うさが、松岡茉優が演じる人物をさらに魅力的にしている。

映像のなかでシームレスにつながる彼女の妄想世界と現実を抜群の演技センスで表現する。監督の演技演出も細部まで計算しつくされていることがわかる。

FUKAIPRODUCE羽衣の名曲《サロメvsヨカナーン》のリフレインは「一人ぼっちよりもましだから愛している」だが、本当の孤独に陥った彼女が「本当の」恋に行きつくラストの切なさと苦さが感動的だ。これは女性のエディプス・コンプレックスの物語にもなっている。

大傑作。