閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ヨアン・ブルジョワ『Scala - 夢幻階段』;ミロ・ラウ『コンゴ裁判』;SPAC『ふたりの女』(ふじのくに⇄せかい演劇祭2019)

2019/04/28
ヨアン・ブルジョワScala - 夢幻階段』;ミロ・ラウ『コンゴ裁判』;SPAC『ふたりの女
 
まっすぐ伸びる階段を中央にしたシンメトリックな舞台美術は、暗めの照明で照らし出されていてグレーのモノクロームでおしゃれにまとめられている。なんとなく『無印良品』を連想させる。
トランポリンを使って、フィルムを逆回しして見せるような動きの面白さが何よりも印象的だ。この「逆回し」は様々なバリエーションとともに何度も繰り返される。
シルク・ド・ソレイユのようだと評した人もいたが、確かに地味でシックでスノッブなシルク・ド・ソレイユという感じ。音楽を現代音楽風にして、照明を暗くして、そして抑制を感じさせるストイックで洗練された表現による新スタイルの芸術的サーカスというか。体の関節がいきなり外れて崩れるような動き(舞台セットの椅子やテーブルもこうした崩れ方をする仕掛けが施されている)もまた執拗に繰り返される。
同じ動きを何回も繰り返し、それを徐々に変化させるという手法は、その表現の洗練されたストイシズムと相まって、フィリップ・グラスの音楽を連想させるものだった。
最初のうちは表現としてちょっと気取りすぎてやだなあと思って見ていた。場面のヴィジュアルの面白さはあるが、想像力を刺激するドラマ性が弱いようにも。ただ反復しながらグラデーションのように変化していく場面に次第に引き込まれ、作品から詩的面白さも感じとられるようになり、見ている気分も盛り上がってきた。
 
昨年秋にアンスティチュで行なったイベントで、SPACの横山義志さんからこの作品の報告を聞いていて、日本で上映があるなら必ず見に行こうと思っていた。1990年代末から2000年代の初めにかけてあったコンゴ戦争の後(600万人の死者が出たという)、なお混乱が続くコンゴに演劇家のミロ・ラウが乗り込み、戦争後も続く多国籍大企業によるコンゴ人民からの搾取と虐殺事件の当事者を召喚し、擬似裁判によって事実を検証する様子を記録したドキュメンタリー映画だった。
これは驚異的な作品だった。リミニ・プロトコルなど、演劇的手法を用いて現実社会に切り込む手法の作品はすでに数多く試みられている(ドキュメンタリー演劇と呼のだったけ)。私が驚愕したのは、ミロ・ラウが演劇的手法で捉えようとした現実があまりにも巨大であり、そしておそらく非常に危険でデリケートでスリリングな問題であるからだ。
ミロ・ラウはコンゴの政治的状況の混沌のなかに果敢に飛び込み、「模擬裁判」という演劇的茶番に関係者を巻き込むことでその網目を解いていく。
なぜ模擬裁判か?それはコンゴの現実が自らの関わる事件についての公平な司法を期待できる状況にないからだ。こうした「模擬裁判」は外部者であるミロ・ラウであったからこそ可能になった。しかしそれを実現するための手間はどれほどのものだっただろうか?
いったいどうやってこの大掛かりな茶番に当事者である彼らを巻き込むことが可能になったのか。接触する人物の人選、そのアプローチ、引き込むための戦略の構想、こうした作業には膨大な労力と時間、智恵が投入されている。その作業を設計し、自分が動くだけでなく、この危険で不確定要素の大きいプロジェクトへの協力者を探して、説得し、彼らをを動かすための手間を考えると、頭がクラクラする。
この作品はまさしく演劇的発想と方法が用いられているが、演劇ではないという作品だ。「擬似裁判」という現実の模倣的再現が現実に裏返っていく。スリリングで緊張感に満ちた時間。
 この作品は純然たるドキュメンタリーではない。ドキュメンタリーにも「脚本」はあるが、おそらくこの作品にもかなり書き込まれた脚本はあるように思う。そうでなければ一発どりであの裁判場面は撮ることが不可能ではないか。演技指示という意味での演出もあった可能性が高い。問題はどこまでそういった作り込みを行ったかだ。周到なリサーチの上、様々な可能性を考慮した上で、一番ギリギリのところを切り取ろうとしているように見えた。
 作品創造に関連する文献を読みたい。制作の記録なども。また静岡の芸術祭での二回だけの上映、限定された演劇ファンを対象の上映だけはもったいない。全国の映画館で上映されれば、大きな反響を期待できる作品だ。東京でもまた上映されて欲しい。
 
4年前に再演を見ている。たきいみきが素晴らしくいい。たきいは年月を経るに従ってどんどん魅力的な女優になっている。見た目の堂々たる美しさだけじゃなくて、コミカルな表現がさまになっているところとか、その愛嬌にグッとくる。あと印象に残ったのは武石守正。登場人物の中で一番狂っている人物に見えるその異様な雰囲気と存在感。武石の登場場面が作品の混沌を深めている。俳優宮城聡の出演や三島景太のコミカル・グロテスクな怪演が、観客を喜ばせる。舞台芸術公園の森を借景としたビジュアルの美しさ、壮大さの中で、唐十郎の詩を堪能できる秀作だった。

ザカリーヤー・ターミル著・柳谷あゆみ訳『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』

この短編小説集は2018ねん2月に白水社から刊行され。
 
ザカリーヤー・ターミル(1931-)は現代シリアを代表する作家だが、1981年以降は英国に拠点を移し作家活動を行っている。『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』は200年に刊行されたターミル9冊目の短編小説集とのこと。長さの異なる59編の短編小説が収録されている。最も長いものでB5版のページで5ページ、短いものはごく数行しかない。
翻訳者の柳谷あゆみさんとは、早稲田大学文学学術院の講師控室で知り合った。彼女はふじのくに⇄せかい演劇祭2016でレバノンの演劇人、サウサン・ブーハーレドの『アリス、ナイトメア』の字幕操作をしていて、終演後に赤いシャツを着た太った中年男がブーハーレドに話しかけているのを見ていたそうだ。その赤シャツ男が、彼女の非常勤先でもある早稲田大学文学学術院の講師控室でパソコンに向かっていたので、思わず声をかけたそうだ。赤シャツを着ているとこんなこともある。
『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』に収録されている作品の多くは、シリアの架空の街区、クワイク街区を舞台としていて、荒廃、暴力、横暴、悲嘆、諦念が支配するこの貧民街で暮らす人々の生活がリアルに描き出されている。しかし言論や表現活動に厳しい制限が加えられているシリアでは、現状を批判する直截的な表現は注意深く避けなくてはならない。したがって『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』の描写は、生々しくリアリズムを感じさせつつも、寓意的・隠喩的な表現に満ちている。
B5版で71頁ほどの冊子ではあるが、稠密で詩的な描写ゆえに、読む終えるのにはかなり時間がかかった。耳慣れない固有名詞やごつごつとした文体に最初戸惑ったが、しばらくのあいだそれを我慢して読み進めると、シュールリアリズム的ともいえるブラックでグロテスクな幻想が立ち現れ、その世界に入り込んでしまう。短いエピソードの連鎖と語り物を思わせるハードボイルドな文体、そして描き出されたグロテスクは、『アラビアン・ナイト』のような説話集、あるいはオウィディウスの『変身物語』を連想させた。実際、この短編小説集の登場人物はいろいろなものへと姿を変える。暴力的で不条理な社会を生き抜くシリアの住民たちのたくましさには、ブラジルの貧民街のアウトローたちの姿を描いたフェルナンド・メイレリスの映画、『シティ・オブ・ゴッド』を連想した。
奇妙な後味をもたらす面白い小説集だった。苛酷な紛争が続くシリア社会で育まれた屈折した知性による現代暗黒寓話集である。

2018年の演劇生活 総括

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2019年あけましておめでとうございます。
2018年は119本の舞台作品を見ました。見た作品については、満足度を☆の数で評価しています。最高点が5つ星(☆☆☆☆☆)で、0.5点は黒星★。
 
5点(☆☆☆☆☆)が「素晴らしい!完璧!」、4.5点(☆☆☆☆★)「素晴らしい、けれどちょっとひっかったところもあった」、4点(☆☆☆☆)「大満足」、3.5点(☆☆☆★)「満足」、3点(☆☆☆)「まあ悪くない」、といった感じで、見た直後の印象の評価になっています。
 
昨年見た作品のうち5つ星評価は14作品でした。そして4.5点が21作品。おおむね4.5点以上だと、きわめて満足度の高い公演だったと言っていいでしょう。私の場合、その割合は総観劇数の約3割になります。
ただ振り返ってみると、高評価をつけた作品でもどんな作品なのかほとんど忘れているものもかなりあります。また見た直後は低評価でも、印象に強く残っている作品もかなりありました。
 
2018年の片山ベストテンを上げると以下の通りになります。
  1. 平原演劇祭『平原演劇祭2018第2部 奉納ヴィヨンの妻』@鶴見線浅野駅周辺
  2. 赤門塾演劇祭『愛の乞食 他』@赤門塾
  3. 劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』@明治大学14号館演劇Bスタジオ
  4. 劇団ぶどう座『植物医師』@劇団ぶどう座稽古場
  5. ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』@早稲田大学演劇博物館
  6. ゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』@彩の国さいたま芸術劇場
  7. iaku『逢いにいくの、雨だけど』@三鷹芸術文化センター星のホール
  8. ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』@こまばアゴラ劇場
  9. ゴキブリコンビナート『情欲戦士ロボ単于』@小金井公園特設テント
  10. ココカラ『ヤルタ・ゲーム』@アポロカフェワークス
 
埼玉県宮代町在住の演劇人、高野竜氏が主宰する平原演劇祭はいわゆる演劇という枠組みを超越したきわめてユニークな芸術表現ですが、昨年6月に横浜市鶴見線浅野駅周辺で行われたオールナイト公演はまさに類例のない演劇体験でした。鶴見線海浜工業地帯への通勤者のための支線で、そのただなかにある無人駅、浅野駅周辺は深夜にはほぼ無人地帯となります。『平原演劇祭2018第2部 奉納ヴィヨンの妻』は午前1時開演で、午前5時過ぎに終演。浅野駅周辺で移動しながら行われるいくつかのパフォーマンスを、20名ほどの観客が懐中電灯を片手にぞろぞろ追いかけながら見るというものでした。この公演のレポートは、http://otium.hateblo.jp/entry/2018/06/10/000000にあります。
 
赤門塾は在野の哲学者、長谷川宏氏が埼玉県所沢に1970年に開業した小中学生対象の学習塾です。現在は長谷川宏氏の息子の優氏が塾の経営と演劇祭などの塾行事を取り仕切っています。赤門塾では40年以上前から3月末に塾生や塾生OBたちによる演劇祭を行っています。小学生の部、中学生の部、高校生以上OBの部の三部に分かれた公演は、アマチュア演劇ながら演者の本気が舞台からほとばしる見ごたえのあるものでした。この演劇祭のレポートはhttp://theatrum-wl.tumblr.com/post/173166619826/にあります。
 
劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』は明治大学の学生演劇サークルの公演でした。日本ではほとんど知られていないカナダのケベックの劇作家、ミシェル・マルク=ブシャールの傑作を、日本の大学生である自分たちの演劇として演じるためのさまざまな工夫がありました。原作の丁寧な読み込みを感じさせる優れた翻案劇になっていました。この公演についてはhttp://theatrum-wl.tumblr.com/post/171978186001/に劇評を掲載しています。
 
劇団ぶどう座は、岩手県西和賀町で半世紀以上にわたって活動している劇団です。『植物医師』は宮沢賢治作の短い作品ですが、この作品をこの劇団の稽古場で、 岩手の演劇人によって演じられるのを見ることで、いっそう味わい深い演劇体験を得ることができたように思いました。この公演は、西和賀の劇場、銀河ホールが毎年開催している演劇祭のなかで上演されました。演劇祭のレポートおよびこの公演の劇評は、http://theatrum-wl.tumblr.com/post/178069818651/に掲載されています。
 
ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』は早稲田大学演劇博物館の空間の特性が十全に生かされた優れた演出でした。リンドバークを演じた女優、河原舞のありかたも印象的でした。
 
ノゾエ征爾が演出したゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』は、数百人の素人老人俳優を舞台に上げるという画期的で独創的なアイディアの公演でした。大群衆老人俳優のパワーとカオスが作り出すエネルギーが圧巻でした。
 
昨年はiaku / 横山拓也の作品が数多く東京で上演され、この優れたストレートプレイの書き手が東京でも広く認知されるようになったように思います。横山戯曲はアクロバティックでスリリングな対話が、人間の心理の微妙な動きを丁寧に伝えるドラマティックな討論劇です。彼の作品には一つとしてつまらない作品はありませんが、今年上演された作品のなかで私が一本を選ぶとなると12月に三鷹で上演されたiaku『逢いにいくの、雨だけど』になります。
 
青年団所属の俳優の河村竜也と劇作家・俳優の山田百次によるホエイ『郷愁の丘ロマントピア』は、湖に沈んだ北海道の炭鉱町を舞台に地方の現代史を悲劇をしっかりと描き出す傑作でした。
 
ゴキブリコンビナートの公演は常に期待以上の過激さを見せてくれます。昨年に引き続き、小金井公園に設置された特設テント劇場での公演は、演者のみならず観客も身の危険を感じるスリル満点のスペクタクルでした。その破格にばかばかしく、壮絶な表現には、圧倒的な感動もあります。
 
←ココカラは小さなカフェを会場に、まだ日本に紹介されていない英語圏の現代作家の戯曲をリーディングのかたちで上演するユニットです。今回はアイルランドの劇作家、ブライアン・フリーるによるチェーホフ『犬を連れた奥さん』の翻案劇の上演でした。観客の想像力に訴えかけるリーディング公演ならでは醍醐味を味わうことのできる優れた演出でした。この公演のレビューはhttp://otium.hateblo.jp/entry/2018/07/13/000000にあります。
 
ベスト10に上げた作品以外にも言及しておきたい公演はいくつもあります。
SPACの公演では、SPAC俳優の牧山祐大演出による個人企画、『犬を連れた奥さん』(榊原有美、大高浩一出演)が印象に残りました。音楽の生演奏付きのチェーホフの短編小説の翻案でした。こうした小さい企画公演は今後もやって欲しいと思います。
 
東京外国語大学の学生劇団、劇団ダダンによる『つつじの乙女』も素晴らしい公演でした。信州の民話を取材した松谷みよ子の作品の翻案劇。恋の情念と狂気の物語でした。原作にはない外枠の設定もうまく機能していました。
 
島根県松江市で半世紀以上にわたって活動を続ける劇団あしぶえの代表作、『セロ弾きのゴーシュ』をこの劇団の本拠地であるしいの実シアターで見ることができたのも、忘れがたい演劇体験となりました。最小限の要素で構成された舞台美術、切り詰められた台詞のやりとりによって物語の本質を伝える緊張感に満ちた美しい舞台でした。
 
年末に行われたチンドンのまど舎の『中野チンドン劇場〜のまど舎創業五周年記念興行〜』はいわゆる演劇公演ではありませんが、ちんどんをベースにしたユニークでアットホームな和風レビューショーでしたた。観客がこれほど楽しそうな笑顔の公演はめったにあるものではありません。チンドンのまど舎のサービス精神にエンターテナーの魂を感じることができました。
 

5つ星評価:14作品

  1. 1/16 ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』@こまばアゴラ劇場
  2. 2/10 劇団螺船企画公演『2018、孤児のミューズたち』@明治大学14号館演劇Bスタジオ
  3. 2/12 ハンブルク・バレエ団『ニジンスキー』@東京文化会館
  4. 3/24 赤門塾演劇祭『愛の乞食 他』@赤門塾
  5. 5/19 iaku『あたしら葉桜、葉桜』@こまばアゴラ劇場
  6. 5/27 ゴキブリコンビナート『情欲戦士ロボ単于』@小金井公園特設テント
  7. 6/7 日本のラジオ『ツヤマジケン』@こまばアゴラ劇場
  8. 6/9 平原演劇祭『平原演劇祭2018第2部 奉納ヴィヨンの妻』@鶴見線浅野駅周辺
  9. 7/14 ←ココカラ『ヤルタ・ゲーム』@アポロカフェワークス
  10. 7/24 Ensemble Pygmalion魔笛』@Grand Théâtre de Provence@Aix-en-Provence
  11. 9/2 劇団ぶどう座『植物医師』@劇団ぶどう座稽古場
  12. 9/28 ゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』@彩の国さいたま芸術劇場
  13. 10/17 ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』@早稲田大学演劇博物館
  14. 12/8 iaku『逢いにいくの、雨だけど』@三鷹芸術文化センター星のホール
 

4.5星評価:21作品

  1. 1/1 地点『どん底』@アンダースロー
  2. 1/14 SPAC『しんしゃく源氏物語』@静岡劇術劇場
  3. 3/11 榊原有美、大高浩一『犬を連れた奥さん』@静岡芸術劇場一階ロビー特設ステージ
  4. 4/8 ITOプロジェクト 糸あやつり『高丘親王航海記』@ザ・スズナリ
  5. 4/28 たきいみき、奥野晃士、春日井一平『寿歌』@野外劇場「有度」
  6. 5/24 iaku『粛々と運針』@こまばアゴラ劇場
  7. 5/25 iaku『梨の礫の梨』@こまばアゴラ劇場
  8. 5/26 iaku『人の気も知らないで』@こまばアゴラ劇場
  9. 5/31 田上パル『Q学』@アトリエ春風舎
  10. 6/19 劇団ダダン『つつじの乙女』@東京外国語大学
  11. 6/29 モメラス『青い鳥 完全版』@STスポット
  12. 7/6 Kawai Project『ウィルを待ちながら』@こまばアゴラ劇場
  13. 7/20 Anne-Cécile Vandalem『Arctique』@La Fabrica@Avignon
  14. 7/22 Les Bâtards Dorés『Méduse』@Gymnase du Lycée Saint-Joséph@Avignon
  15. 9/1 劇団田中直樹と仲間たち『水仙月の四日』@Uホール
  16. 9/8 平原演劇祭『嵐が丘』@BUoY
  17. 9/23 劇団あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』@しいの実シアター
  18. 9/24 モメラス『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』@BUoY
  19. 11/18 さいたまネクスト・シアター『第三世代』@彩の国さいたま芸術劇場 NINAGAWA STUDIO
  20. 12/2 新生 若獅子『上州土産百両首/蛍―お登勢と龍馬―』@シアターΧ
  21. 12/14 チンドンのまど舎『中野チンドン劇場〜のまど舎創業五周年記念興行〜』@なかの芸能小劇場
 

スタッフド・パペット・シアター『マチルダ』

作・演出・美術:ネビル・トランター Neville Tranter

出演:ネビル・トランター、ウィム・シトヴァスト Wim Sitvast

劇場:プーク人形劇場

上演時間:55分

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とにかく脚本が素晴らしい。こんなリアルで美しい脚本はそう書くことができるものでない。人形劇の特性が生かされた素晴らしい脚本だった。これまで見てきた大人向けの人形劇の多くは脚本に不満を感じていた。日本では大人向け人形劇の観客はきわめて限定されていて、そのほとんどが人形劇の創作に関わっている方でないだろうか。そのためか人形造形の美しさや操演の洗練ぶりなど技術的なところに重点が置かれ、台本は人形を動かす口実、枠組みにしか感じられない空虚で貧弱な内容のものが多いように思っていた。大人のための人形劇はそのあまりに限定されあ観客層ゆえに、操演や人形をいかに見せるかが重視され、人形によるドラマよりもむしろ人形そのものを見るための芝居になっているものが多いように思った。

 人形劇の人形は、その空洞性、受動性ゆえに、人間の俳優以上に、観客の感情や願望の受容体となる。生命のない人形はその思いをじっと受けとめることで、各々の観客のもとで生命を持つ自律的な存在となる。私たちは人形に私たち自身の姿を見ている。

生身の俳優によって現実を表象するのではなく、あえて人形が使われる意味はなんだろうか。人形劇を見るたびにこの問は繰り返される。人形は生身の俳優の代理なのであろうか。代理であるなら、どこに人形に俳優を代理させる意味があるのだろうか。人形劇は人間の俳優の演じる演劇の代替ではなく、人形劇固有の世界があるはずだ。それではいわゆる演劇にはない、人形劇固有の表現とはどんなものだろう。

あの残酷さと優しさは、人形という媒介を通してこそ、直視できるものとなる。人形劇は、世界の本質を抽出したうえで、それに具体的なかたちを与えることができる。人形は本質的に象徴的で寓意的な存在だ。本当に必要な要素だけを伝えるそのストイシズムゆえに、人形は私たち観客の様々な思いを受けとめる容器となりうる。

チルダは介護付き老人ホーム《カーサ・ヴェルデ》で暮らす102歳の老女の名前である。暗い舞台上の中心で彼女は開演前から鉄棒にじっとぶら下がったまま、前方を眺めている。眺めているというはその表情はにらみつけてるというほうが近いかもしれない。55分の上演時間のうちの最初の40分間、彼女は同じ姿勢を保ったまま、動きもしないし、話もしない。不動の彼女の前で、《カーサ・ヴェルデ》の経営陣の二人はどうやって老人たちを食い物にして、さらに大きな利益を得るかという話ばかりしている。老人たちの介護をする男の看護士はいつも不機嫌・無愛想で、老人たちの扱いもぞんざいだ。入居者の一人マリーは看護士の目を盗み、新聞社に電話して《カーサ・ヴェルデ》の劣悪な環境を告発するマリー、ダウン症の老婆ルーシーと彼女にずっと付き添ってきた心優しき兄のヘンリー、ライオンのぬいぐるみを唯一の友とし、狂気と絶望のなかに生きるミスター・ロスト。102歳のマリーは鉄棒にぶら下がったまま、《カーサ・ヴェルデ》の人々の様子を見守っている。

チルダはこのままずっと最後まで動かないままなのではないかと思っていたら、開園して40分たったころにようやく彼女は動き出す。最初は意味のわからないうめき声をあげて、それが徐々に意味のある言葉になっていく。動けるといっても彼女は鉄棒にぶら下がった状態であり、鉄棒を離れて移動することはできないようだ。彼女が大事にしていた赤毛の女の子の人形が見当たらないとマチルダは当り散らしている。その人形は実は彼女の前においてあるテーブルにぶら下がっているのだが、彼女の位置からはそれを見ることができない。黒いシャツを着た操演者(ネヴィル・トランター)の姿を彼女のは見ることができるのだが、それが誰なのかはわからない。観客にもこの操演者が劇のなかの人物としてどういう役割を果たしているのかわからない。彼女は話し始めたのは、戦争が引き離した彼女の若いころの恋人ジャン・ミシェルのことだ。赤毛の人形はジャン・ミシェルが彼女に贈ったプレゼントだった。しかし彼女が誰に向かってジャン・ミシェルの思い出を話しているのか。マチルダはこの黒シャツの人間に話しかけるのか、独り言を言っている、自分に言い聞かせているのか。

若いときの恋の思い出、これだけが102歳となった彼女の生を支えているように見えた。ジャン・ミシェルのことを語る彼女は、その語りともがくような動きによって、彼女がまさに「生きている」ことを私たちに力強く伝えている。

死の間際の老女が若いころの恋の記憶を再現するという作品などいくらでもあるではないか。確かにそのとおりだ。しかしここで人形劇の特質に立ち返ってみよう。

 

濱口竜介『寝ても覚めても』(2018)

netemosametemo.jp

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濱口竜介監督の『ハッピアワー』は5時間17分の大作だが、神戸を舞台にしたこの作品は私にとっては特別に愛着がある作品で、4-5回見ているはずだ。ここ2年は年末に神戸の元町映画館で『ハッピーアワー』の上映を見るのを帰省の楽しみにしている。

寝ても覚めても』は濱口竜介の初の商業映画で、純然たる恋愛映画だ。運命的な愛に固執する主人公の女性の姿は、ロメールの『冬物語』(ロメールの作品のなかでも最も好きな作品の一つだ)を連想させた。今、書いて気づいたことだが、心理のゆれの繊細な描写という点で、濱口の作品にはロメールを想起させるところがある。ただロメール諧謔、優雅さ、軽やかさは濱口には乏しい。濱口の映画の人物は不器用で内省的だ。

濱口の映画で何が感動的かと言えば、彼の映画の人物たちが真実を生きようとするところ、そして彼らの行動に真実を引き受けようとする真摯な覚悟が感じられるところだ。
寝ても覚めても』の展開や人物の行動には不自然で強引なところはあるし、その台詞はときに過剰に説明的だったり、文学的だったりする。しかしこうしたリアリティからの逸脱は、彼らの真実を映画の物語のなかで引き出すための仕掛けだ。嘘に嘘を重ねることで、はじめて表現可能になる真実というのがある。

真実は他者を傷つけ、自らを傷つける。傷つけ、傷つけられることをまっすぐ受けとめ、自らの責任において引き受ける覚悟をする濱口の映画の人物たちの行動は美しい。
私たちの日常は欺瞞に満ちている。私たちの多くは欺瞞のない世の中の苛酷さにはおそらく耐えることができないだろう。
できる限り正直に生きたいと思っている私は、自分の周りの欺瞞を呪いつつ、それをある種の必要悪として受け入れて生きている。

だからこそ、たとえフィクションのなかであっても、そこで真実が語られていることに激しく心動かされてしまうのだ。

ゆりの木団地夏祭り2018

https://www.instagram.com/p/Bm7-PvdhVBR/

板橋区のゆりの木団地、夏祭り2018。これが毎年、夏の締めくくり。ベーシスト、西村直樹が率いるワイルドグリーンズのライブ。

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東京都板橋区赤塚新町にある光が丘パークタウンゆりの木通北団地の夏祭りに行ってきた。毎年8月の最終週の土日に行われる。板橋区練馬区の区境にあるゆり北団地は賃貸と分譲が混在する700戸ほどの規模の団地だ。築35年で住民の高齢化はかなり進んでいる。

この団地の夏祭りは団地の自治会の主催になる。団地ができた当初から行われているのだが、櫓を組んでの盆踊りではなく、仮設ステージでの音楽ライブが行われるのが特徴だ。12年ほど前からだと思うが、団地住民ではないが地元在住のベーシスト、西やんこと西村直樹が、彼のバンド、ワイルドグリーンズとともにこの夏祭りに出演するようになった。以後、西やんを中心に夏祭りのライブが年々進化していったのだ。f:id:camin:20180826182253j:plain

最初はワイルドグリーンズのライブだけだったのが、西やんが知り合いのミュージシャンに声をかけ、ライブが拡大していった。シャンソン歌手のソワレさんがこの夏祭りに参加するようになったのは、7−8年前からだと思う。そのあと地元のオーケストラが出演するようになり、そのオケが西やんのバンドと部分的に一緒に演奏するようになった。地元のバレエ教室の子供たちをステージにあげ、音楽に合わせて踊らせたときもあった。団地と団地周辺の老若男女たちはこの破天荒で自由なライブに熱狂し、夏祭りは年々盛り上がっていった。

このようにしてゆりの木夏祭りは、団地の夏祭りとしては異色の老若男女を巻きこんでの地域住民熱狂ライブ祭りになっていった。

昨年からは団地住民に夏祭りのためのアマチュア合唱団の結成が呼びかけられれ、オケの指揮者の池田開渡さんが合唱団を指導して、夏祭りでゆりの木スペシャルオーケストラ+西村直樹とワイルドグリーンズ+地元バンド+ゆりの木合唱団の合同演奏で、第九の演奏を夏祭りのフィナーレでやるようになった。これが実に感動的だった。夏祭りの会場は団地の二つの棟の狭間の細長い空間である。そこに押し寄せた聴衆たちの盛り上がりようと言ったら。

今年のフィナーレはこのゆりの木夏祭り第九の第二回となった。昨年より合唱団員の数は増えている。天候にも恵まれ、トリ前の西やんのワイルドグリーンズのライブのころから祭り会場は人でいっぱいになった。

野外、それも団地の建物の間の路上で、フルサイズオーケストラの演奏が行われるなんてそうそうないだろう。聴衆は地域の住民。酒が入った人も多く、はじまる前からかなり盛り上がっている。このゆりの木スペシャルオケに参加する正装の演奏者の顔もなんか嬉しそうだ。こんな環境で演奏する機会は彼らにとってもそうそうない。

オケの準備が整い、指揮者の池田開渡さんが現れると、既に彼はこの夏祭りのスターなわけで、聴衆たちは大喝采を送る。最後の第九演奏の前に、まずオケだけでエルガーの《威風堂々》、ボロディン《韃靼人の踊り》。それから地元のギタリストとトランペット奏者をソリストとして迎えて《アランフェス交響曲》の第二楽章。これはかなり大胆なアレンジが加えられたものだった。

それからワイルドグリーンズ、地元バンドのマヤン&シモベーズ、そしてゆりの木合唱団とゆりの木スペシャルオーケストラによる《ゆり北第9》が始まった。

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始まる前からその素晴らしさを予感してどきどきする。写真に写っているビニール傘は、手作りの集音マイク。野外の祭りでの演奏なので、マイクがないと音が聞こえにくいのだ。音響も地元の人間がやる。
合唱隊が登場すると会場は大いに盛り上がる。そして終演時の一体感、盛り上がりと言ったら!こんな親密な雰囲気の演奏会なんてそうそうあるものではない。本当に乳児から老人まで、様々な年齢層の住民がこのライブを心から楽しんでいるのが伝わってくる。

今年はアンコールがあった。エルガーの《威風堂々》のさびの部分がもう一度演奏される。聴衆もハミングで演奏に加わるように指揮の池田さんからうながされる。驚異的なもりあがりと高揚感のなか、祭りは終了。

ゆりの木団地夏祭り2018、フィナーレは《威風堂々》のサビをオケの演奏に合わせて聴衆も合唱。しびれるわ。最高。

私のとなりで立っていたひとが「あー、楽しかった」とつぶやいていた。

東京の端っこにある小さな団地の夏祭り、でもこの夏祭りは本当にすばらしいものだ。最高。

ゆきゆきて、神軍(1987)

ゆきゆきて、神軍(1987)

  • 上映時間:122分
  • 製作国:日本
  • 初公開年月:1987/08/01
  • 監督: 原一男 
  • 製作: 小林佐智子 
  • 企画: 今村昌平 
  • 撮影: 原一男 
  • 編集: 鍋島惇 
  • 助監督: 安岡卓治 
  • 出演: 奥崎謙三
  • 映画館:渋谷 アップリンク
  • 評価:☆☆☆☆☆

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1987年にこの作品が渋谷ユーロスペース(当時は今とは別の場所にあった)で上映されたとき、私は大学一年だった。私より前にこの映画を見た同じサークルの友人が憤りながら次のように言っていたことを覚えている。

「あんなとんでもないおっさん初めて見たわ。病気の人間を殴りつけているんやで。もう無茶苦茶な奴だよ」

この特異すぎるドキュメンタリーは公開当時おおいに話題になり、渋谷ユーロスペースは連日超満員だったようだ。

この映画の公開前から、神戸出身の私は奥崎謙三のことは知っていた。衆議院の兵庫一区から奥崎は立候補していて、その選挙活動中に殺人未遂事件を起こしたことは大きく報道されていたからだ。兵庫一区は私が居住している選挙区だった。高校生だった私には投票権はなかったが、選挙報道が好きだった私は、奥崎の奇矯な政治的主張も印象に残っていた。「けったいなおっさんがおるもんやなあ」と思っていたのだ。この殺人未遂事件が、終戦後にニューギニアで部下の処刑を先導した下士官、古清水への奥崎の制裁行為だと知ったのは、この映画を見たときだったが。

ロードショー公開で見て以来、3、4回は『ゆきゆきて、神軍』を見ているように思う。今回はたぶん十年ぶりぐらいでこの作品を見た。すでに何度も見ている作品にもかからず、やはりずんと重量のある鈍器で胸を強打されたような衝撃を受ける。奇跡的な傑作だ。

奥崎のエキセントリックな言動、過剰でえげつない自己演出には辟易としつつも、それでも私は奥崎の戦争に対する責任の取り方、取らせ方、その思想と行動の一貫性、欺瞞の追求態度には、共感するところがある、そして自分がこの映画における彼のふるまいに影響を受けたところがあることを確認し、居心地の悪さを感じた。

私がこれまで見た戦争についてのフィクションやノンフィクションで、『ゆきゆきて、神軍』ほど戦争が人間にもたらす恐怖と無残さとおぞましさをリアルに生々しく感じさせる作品はない。

神戸の下町、板宿の商店街の小料理屋のおやじの告白場面がある。人のよさそうなごく普通の雰囲気のおじいさんだ。彼は奥崎に促されるままに、戦地で飢えた兵士たちが「白豚」、「黒豚」という符号を使って人肉を食べていたことを淡々と語る。南方の戦地で飢えに苦しんだ兵士たちが人肉を食べていたという事実は、大岡昇平の『野火』などのテクストを通しては知っていた。しかしその人肉を食べる壮絶な戦争体験を当事者が自分のこととして語るのを映像で見るインパクトは強烈なものだった。それを語るおやじは、板宿の商店街の小さな店の好々爺といった感じの人物なのだからなおさらだ。

奥崎が追い詰めた元兵士のなかで、もっとも良心的で常識的に思える埼玉在住の山田吉太郎から引き出した告白は、実はもっとも陰惨なものだった。連隊の唯一の生き残りとして日本に帰還した彼は、飢えを満たすために仲間の兵士のなかで「利己的なふるまいをするもの、役に立たないもの」を共謀して一人ずつ殺し、食していた事実を語るのだ。
奥崎の暴力と恫喝を通して、かつての兵士たちは部下の非合法的処刑(戦時の法にあっても)、人肉食といった事件に口を開き、自己弁明を行うが、その様子は、そのような苛烈な追求のなかでもなお語られなかった陰惨な事実を想像させるものだった。自己保身のために過去に自分が関わった行為のおぞましさを、「私だけでない、他の人も傷つけるから」と口のきけない死者たちの名誉を守ることを口実に、封印する行為は、人間的と言えるかもしれないが、卑劣な態度だ。

奥崎は敢えて暴力的な手段を使って、かつての兵士たちの傷をむりやり押し開き、大量出血させる。奥崎に果たしてそういう権利はあるのか。奥崎の言っていることはある意味、正論なのだ。戦場から生き残った者たちは過去のおぞましい行いを明らかにすることで自らを裁き、そのことが今後の戦争抑止につながるであろうという主張である。しかし奥崎独自の正義を掲げつつ行われるカメラという武器を使っての追求は、彼のグロテスクな自己顕示と自己陶酔と表裏一体であることがあからさまであるだけに、見ている私の心はぐらぐらと激しく揺さぶられてしまう。

 

平原演劇祭2018第3部 移築民家とアタラシイ「ゲキ」15『戊辰150年、夏。』

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  • 【日時】2018年08/05(日) 12:00-18:00 
  • 【場所】宮代町郷土資料館内旧加藤家住宅および久喜市香取公園。観劇無料
  • 【上演演目】
    http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1967150234&owner_id=4324612より)
  • 嵐ヶ丘抄』1986年に東大の冥風過激団によって宮城聡演出・主演で上演された政治ロマン劇。一幕のみ。全幕上演は9月と10月に!
  • 『夢の光源」』一昨年、一場のみ同じ加藤家で発表しました作品の完全版。壇ノ浦合戦で敗走した藤原景清の故事と、1992年頃のジャムー・カシミール紛争のことなど。

  • 『空木(うつぎ)』 宮代町の作家、島村盛助による宮代町が舞台の短編小説。東京で修行してきた若者が田舎で開業して退屈するハナシ。ややホラーかも。明治と大正の境目ごろに書かれたらしい。

  • 『逃(タオ)』 5幕ものの書き途中の1幕目。バンクーバーの米加国境ポイント・ロバーツで先住民の残像を呼吸するふたりの白人の出会いと別れ。

  • ゴジラ vs.スーパーX』

  •  『お富の貞操彰義隊戦争を明日に控えた上野の住宅地で、置き去りになった猫を引き取りにくる女中と、家宅侵入していた乞食の交感。芥川龍之介作。

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以下二作は、会場を移し、久喜市香取公園にての上演。

  •  『朝敵揃』 平家物語より。ゴイサギの名の謂われです。昨年は深夜奉納でやりましたが今年は夕方!

  • 『誰も練ってはならない』 高野竜作。再々演です。プッチーニではありません。東京都迷惑防止条例で大道芸が取り締まられたことに関して。

  •  【出演】角智恵子、森かなみ、冬岸るい、嵯峨ふみか、宮崎まどか、山羽真実子、橙田かすみ、空風ナギ、教仙拓未、小関加奈、山城秀之、最中、中沢寒天、青木祥子、高野竜

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年に4-5回開催される平原演劇祭だが、そのうち一回は宮内町郷土資料館敷地内にある古い日本家屋、旧加藤家を会場に行われる。ここ数年、加藤家での公演は9月が多かった。
平原演劇祭は上演場所の空間的特性を取り込んだ演出がその特色の一つだが、茅葺き屋根で縁側と土間を備えるこの住居での公演は、9月よりもむしろ7月-8月の夏の盛りに、周囲の蝉の声を聞きながら行われるのがよりふさわしいのではないかという気がしていた。

昨年の公演の際に主宰の高野竜さんに「なんで加藤家での公演は9月なんですか? 8月のほうがよさそうなのに」と聞いたところ、「いや〜、何回か8月にやったことはあるんですが、あまりにも暑すぎて」という返事だった。

ところが今年は9月6日〜9日に北千住のBUoY、10月7日に筑波大学で公演を行うためか、8月最初に加藤家で公演を行うことになった。

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写真のとおり、茅葺き屋根で、部屋を取り囲む縁側で障子を開けると風が通り抜ける加藤家は通気性抜群でいかにも涼しげではある。しかし35度越えの気温には、この涼しげな構造も役に立たない。昨日は建物を通り抜ける風もなかった。もっとも風があったところで熱風だったかもしれないが。茅葺き屋根の和式伝統住宅といえど、屋内もうだるような暑さ。

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クーラーのないこの家屋の32畳の空間に、演者15名を含めると40名ほどの人間が、平原演劇祭のために集結した。とにかく暑かった。団扇が用意されていたが、あまりに暑すぎて、うちわで扇ぐ気にさえなれない。用意されていた座布団が座っていると汗でじっとりと濡れる。会場が汗臭かった。私はフランスから木曜夜に帰国したばかりで時差ボケもあった。時差ボケと暑さでぼんやりしたなかでの観劇となった。上演開始は正午、加藤家住宅での上演終了が午後4時前。途中30分ほどのスイカ休憩があった。

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加藤家での上演演目は、上記にあるように宮城聰主演・演出で1980年代に冥風過劇団で上演された『嵐が丘』の抜粋を軸に、いくつかの小篇が『嵐が丘』を分断するかたちでシーム—レスに上演されるというものだった。『嵐が丘』は、英国の作家、エミリー・ブロンテの作品ではなく、80年代に冥風の座付作家だった花岡敬造による戯曲だ。ブロンテの小説にも言及はあるが、まったく別の話で舞台は昭和初期の満州である。今年の平原演劇祭ではこの『嵐が丘』を今回の加藤家公演のほか、9月のBUoY、10月の筑波大学で上演する。俳優と配役は変わるし、上演場所によって演出も当然大きく変わるはずだ。BUoYは無照明上演とのことで、観客に懐中電灯持参が呼びかけられている。

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上演演目については、このブログ記事の冒頭を参照頂きたい。今回は珍しく、上演演目についての解説が高野竜氏によって事前になされている。高野竜の作品の言葉は詩情に満ちた美しいものなのだけれど(彼の作品の大半は

mixi.jp

で参照することができる)、それらが上演されるときは上演空間と俳優の特性を巧みに利用した演出上の創意に気を取られ、上演中に語られている言葉のほうには意識があまりいかないことが多い。いくつかの作品が、間に挿入され、筋が分断されたり、今回の「ゴジラ」登場のような馬鹿馬鹿しいギミックのインパクトが強烈だったりして、実際のところ何が展開しているのかよくわからないことが多い。後から思い出すと、いくつかの印象的な情景が言葉とともに記憶に残っているという感じだ。今回は暑さと時差ボケによって、その印象はいつも以上に朦朧としたものになってしまった。

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「暑いなあ、かなわんなあ」と思いながらぼーっと見ているうちに、熱気がこもるこの薄暗い日本家屋のなかで、32畳の正方形の空間をぐるりと観客が取り囲んで演劇の場を作り、そのなかで何かが行われていることを眺める時間を共有していること自体が、今回の公演では重要であるような気がしてきた。

観客も暑かったが、ゴジラの着ぐるみや劇中の設定上、冬服を着込んだままで演技を続ける俳優たちはもっと大変だっただろう。暑さのなかでかげろうが立ちのぼっているかのような朦朧とした感覚のなかに、いくつかの場面が豊かな詩情とともに浮かび上がる。

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15人の俳優のうち、男性は朗読を担当した高野竜と俳優2人の3人だけで、他はみな女優だ。しかもその大半は20代のまだ若い女優である。若い女優たちが男装し、畳間でどたばたと動きながら演じる『嵐が丘』は、小学校の頃、学校図書館で読んだ挿絵入りの江戸川乱歩の小説の世界をなぜか想起させる。

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畳の縁を国境線に見立てた『逃(タオ)』 は「5幕ものの書き途中の1幕目」とのことだが、小柄な女優、小関加奈の可愛らしさ、ぴんと糸を張ったような芝居の緊張感が印象的だった。

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とにかく屋内が暑かったので、休憩中に屋外で食べたスイカが異常においしく感じられた。私はもともとはスイカはあまり好きな果物ではない。小学生のころは、「カブトムシの好物」というイメージと種を出すのが面倒で、スイカは嫌いな果物だった。今も手と口がべちょべちょしてしまうのが嫌でスイカは夏に一二回しか食べないのだが、昨日はたくさんスイカを食べた。あんなにたくさんスイカを食べたことはこれまでなかったかもしれない。

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午後4時前に平原演劇祭2018第3部の旧加藤家での「第1部」は終了。希望者は車に分乗するなどして、そこから10キロほど離れた久喜市の香取公園(「かんどりこうえん」と読むらしい)で行われる「第2部」会場に移動した。第1部の出演俳優も含め、20名ほどが第2部会場に移動した。

香取公園は高校とショッピングセンターのそばにある。もともとは洪水などの被害を防ぐための遊水池なのだそうだ。そこに数種類の鷺が住み着き、鷺の群生地になっている。この香取公園で昨年の平原演劇祭では、深夜に奉納舞踏と朗読の公演が行われた。この模様は以下の記事で報告している。

otium.hateblo.jp

今年は夕方に、青木祥子による一人芝居『誰も練ってはならない』と高野竜による朗読『朝敵揃』 が上演された。

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『誰も練ってはならない』は、香取公園内の遊歩道を青木が自転車で走りながら演じる。25人ほどの観客はぞろぞろとその後ろを着いていく。普段は付近の住人の散歩道となっている公園内道路だ。そこを集団でゾロゾロと歩くのはあまりにも怪しいので、一応「探鳥の会」ということにしておいた。実際、青木が演じているときに、道の向こうから犬を連れた散歩の女性がこちらの様子を見て固まっていた。

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高野竜の『朝敵揃』 は、『平家物語』からの抜粋だ。この場所が鷺の群生地となった由来の説明をしたあと、高野竜は高野の息子が書いた筆書きの巻物を、鷺の群生地の前で朗々と読み上げた。第3部の「第2部」の上演時間はあわせて20分ほどだった。

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このあとすぐそばにあったショッピングセンター、アリオ鷺宮で打ち上げが行われたようだが、私は疲労のため、ここで帰った。

 

「演劇×介護×子育て」ナイト #2 原サチコ講演会@リトルトーキョー

清澄白河にあるイベントスペース、《リトルトーキョー》で行われた竹中香子さん企画のイベント
「演劇×介護×子育て」ナイト #2
に行ってきた。ドイツの公立劇場で女優として活動を続ける原サチコさんに、「演劇と子育て」について聞くというもの。

f:id:camin:20180803193702j:plain今30歳で、フランスで舞台女優をやっている竹中香子さん自身が子供を近いうちに持ちたいという強い願望を持っていて、今日の企画を思いついたという。

原さんは1999年からドイツで演劇活動を行っている。ドイツ人男性と結婚し、2001年に男の子を出産するが、子供がまだ幼いうちにドイツ人男性とは離婚。以後、シングルマザーで子育てをしながら、ドイツ、オーストリアのいくつかの公立劇場で女優として活動してきた。子供は今、17歳だと言う。
原さんについてはドイツでの活躍ぶりは目にしていたが、私は彼女の舞台を見に行ったことがなく、どんな女優でどんな人なのかはよく知らなかった。日本人・アジア人女優がいなかったドイツで、シュリンゲンジーフ、シュテーマン、ポレシュといったドイツ演劇の先端を行く著名演出家に認められチャンスをつかみ、順風満帆の舞台人生を送っている人、というイメージだった。

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 彼女がドイツに渡ったのは35才のときである。女優としても、女性としても「崖っぷち」の年齢だ。シュリンゲンジーフの演出舞台が好きで、彼の演出作品に出演することを熱望してドイツに渡った。そしてその夢を実現させ、シュリンゲンジーフの舞台にも出演できた。ドイツ人男性と恋に落ち、結婚し、男の子を出産した。「よし、これでドイツでやっていけるんじゃないか」と思っただろう。しかし2001年〜2004年の最初の4年間、彼女はドイツの劇場で年に一本しか作品に出演できていない。アジア人俳優など当時のドイツには入る余地は例外的にしかなかったのだ。
明日が見えないこの時期、彼女のドイツ人の夫は彼女の苦境に理解を示してくれず、彼女はドイツでよるべなき異邦人となってしまう。しかし今さらおめおめ日本に帰ることもできない。この時期の彼女のことを想像すると、胸が押しつぶされるような思いだ。
2004年にドイツ人男性と離婚した彼女は、いろいろとつてをたどって女優としての仕事を探すがこれがそうそう見つかるものではない。彼女を女優として認めていたシュリンゲンジーフが強く推してくれたおかげで、2004年にようやくウィーンの劇場に専属俳優として契約することができた。ただし1年のみの契約。息子と二人でドイツで女優として暮らしていくには、劇場専属俳優の道しかない。彼女は女優しかできない人間なのだろう。レパートリー制のドイツ語圏公立劇場で、彼女はウィーン・ブルク劇場での最初の一年に4作品に出演する。崖っぷちの状況でこの劇場との契約にかけていた彼女の芝居は、鬼気迫る壮絶なものだったはずだ。一年目で劇場の芸術監督の信頼を得た彼女は、以降2008-09年のシーズンまでウィーン・ブルク劇場の専属女優として15作品に出演する。
ウィーン時代には子供はまだ幼かった。ベビーシッターに預けるお金がなかった彼女は、劇場で仕事がある日はほぼ毎日子供を劇場に連れて行ったそうだ。劇場のスタッフの女性の一人が彼女が稽古や出演のあいだ、子供の面倒を見てくれたと言う。
ウィーン・ブルク劇場での5年の後、ハノーヴァー、ケルン、ハンブルクドイツ国内の公立劇場の専属俳優として活動を続ける。日本で公演を行うようになったり、講演などが増えてきたのは、2013年にハンブルクの劇場で専属俳優として働きはじめてからのようだ。
親子・家族関係というのは人それぞれではあるものの、シングルマザーと女優の両立のモデルとしては、原さんのケースはあまりにも特殊すぎる。ドイツの公立劇場の看板女優としてのポジションを確実にし、子供が17歳になった今だからこそ、過去を振り返って「よく乗り越えたものだなあ」と言えるかもしれないが、明日の状況もわからない状況の最中ではさぞかしスリリングで不安な日々だったに違いない。
いや、本当にすごい人がいるものだなあと感心。彼女は、日本人女優など居場所がなかったドイツの劇場に、無理矢理体を押し込んで、自分の居場所を作ったパイオニアだ。ドイツ女優シングルマザー生活の前半は、その苦労を苦労として語ったりはしないけれど、どう考えても寿命が縮まるようなピンチと絶望の連続であったように思う。その強烈なストレスを受けとめて、逆に力にしてしまう強さには感嘆するしかない。

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ドイツ演劇の世界に原さんのように飛び込んだ人は他にいるかどうか知らないが、ドイツ演劇に限らず、あるいは演劇の世界に限らず、この世の中には原サチコにはなれなかった「原サチコ」が無数にいるのではないだろうか。ほとんどの人は彼女が最初の4年に経験した絶望と孤独を乗り越えることはできないだろう。
彼女があの不遇で先の見えない最初の4年間に耐えることができたのは、自分の才能と存在価値を信じることができる強固な自信があったから(シュリゲンジーフやシュテーマンという現代ドイツを代表する演出家に認められたというのは大きかっただろう)、そして圧倒的に弱くて自分に依存している存在、自分の分身である子供の存在があったからだろう。
 
 

←ココカラ『ヤルタ・ゲーム』

kokokara2015.wixsite.com


リーディング公演Vol.4:『ヤルタ・ゲーム』

作:ブライアン・フリール
翻訳・演出 江尻裕彦
出演:真那胡敬二、中井奈々子
会場:アポロカフェワークス
新宿区山吹町296 コーポ山吹102
上演時間:55分

評価:☆☆☆☆★

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『ヤルタ・ゲーム』はアイルランドの劇作家、フリールによるチェーホフ『犬を連れた奥さん』の翻案劇である。黒海に臨むロシアの保養地、ヤルタで出会った初老の男と若い既婚婦人との不倫の愛の物語だ。

https://www.instagram.com/p/BlKwWhugZqh/

江戸川橋と神楽坂の間、住宅街の路地にあるアポロカフェワークス。←ココカラ『ヤルタ・ゲーム』。アイルランドの劇作家ブライアン・フリールの作品なので、面白くないわけはないだろう。


←ココカラは、江尻裕彦が邦訳がない英語の劇作品を翻訳・演出し、リーディングというかたちで上演するユニットだ。第3回公演は2015年11月だからだいぶ間が空いてしまった。今回の第4回公演が仕切り直しということになる。しかし公演のスタイルは変わっていない。カフェを会場にした少人数の俳優によるリーディング。邦訳のない作品を選んでいるが、作品の選択が絶妙だ。リーディングという上演形式にふさわしい作品が、リーディングという形式だからこそ味わうことのできる魅力を引き出す演出で、上演される。しっとりとした大人の楽しみといった雰囲気のなかで、演劇の言葉の世界に浸ることができる。


『犬を連れた奥さん』の登場人物は二人だ。観客に向かって右側に初老の男性俳優(真那胡敬二)が座り、右側に若い既婚婦人(中井奈々子)が座る。俳優の前には譜面台が置かれ、俳優は観客のほうを向き、座ったまま、リーディングを行う。朗読は過剰に芝居臭くならないように、しかし明瞭に観客にメッセ—ジが伝わるように、しっかりとコントロールされている。座ったままの朗読だが、表情の変化や目の動き、そして手足が絶妙のタイミングで動くことで、そうしたディテイルが観客の想像力を引き出すキューになっている。←ココカラの公演を見ると、リーディング公演ならではの演劇の面白さに気づかされる。俳優の表現にはリーディングゆえの枷がかけられている。しかしそうした表現上の枷は、繊細にコントロールされた声、表情、手足の動きを通して、むしろ観客の想像力を引き出す仕掛けとして機能する。物語の展開が観客の興味をひくものであることはもちろん重要だ。観客と演者の関係は演劇よりはるかに親密だし、そしてその相互反応も緊密だ。落語の技術と似ているところがあるかもしれない。演者と観客のリズムがうまくかみあったとき、その相互反応のなかに濃厚なドラマが生まれる。すーっと静寂に包まれるような時間が現れる。


二人の俳優がよかった。中井奈々子は大柄でえくぼが印象的な美しい女優だった。どうしようもない日々の退屈のなかで、不倫の愛の深みにずるずるとはまり込んでいく二人の関係には悲壮で滑稽な絶望感とともに軽やかで明るい解放感もある。こんな不倫に溺れてみたいものだ、と思ってしまうような素敵な公演だった。