閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

悪への招待状:幕末・黙阿弥歌舞伎の愉しみ

小林恭二(集英社新書、1999年)
悪への招待状 ―幕末・黙阿弥歌舞伎の愉しみ (集英社新書)
評価:☆☆☆☆☆

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幕末の退廃の色濃い江戸へ、作者をガイドとして、時間旅行に出かけるという趣向。その江戸の町で何をするかというと、芝居見物である。黙阿弥の傑作狂言『三人吉三』の物語とその背景となる世相や風俗について詳細に解説を加えることで、この狂言の濃厚な演劇世界を読者に追体験させると同時に、作者の説明は作品に反映されている時代の空気、世界観にまで踏み込んでいく。
僕はこの著作を読みながら、今月初めに観た前進座の『三人吉三』の公演舞台の情景が鮮やかに浮かび上がってきた。この著作の出版は1999年なので、あるいは前進座の役者たちの役作りにもこの本の記述は反映されているのかもしれない。そう思ってしまうほど、臨場感あふれる描写で芝居見物が再現されている。
あとがきに著者が記している、この本を執筆するにあたってのルールは、「少なくとも自分がわからないことはすべて調べよう」というシンプルなものである。しかし演劇のように特に多くの前提となる約束事があるジャンルの場合、それが過去の作品である場合はなおさら、このシンプルなルールを徹底するだけで見えてくることは多い。もちろん娯楽性豊かな歌舞伎舞台は予備知識が乏しくても十分に愉しむことはできるが、どんな「通」の観客でも観劇の習慣化の中で、意識されることなく見落としている事柄は多いはずだ。
小林恭二は、『三人吉三』や当時の芝居見物の過程で出てくる様々な現代の聴衆には意味がよくわからない「決まり事」の数々にいちいち立ち止まって、納得できる説明付けに勤める。このシンプルで地道な作業の積み重ねにより、自分なりの「等身大」の幕末の姿、作品像を作り上げることに、作者は成功しているように思う。
言及箇所の目の付け所や解説の文章の軽やかな調子などは優れたプロの作家のものであるが、ヨーロッパの過去の演劇作品を研究する僕としても「プロ」としては、少なくとも同程度の配慮をもってテクストに向き合わなくてはならないだろう。小林氏と同じような目線で、どの程度過去のヨーロッパの演劇世界を僕が再現できるのかを、試してみたくなる誘惑に駆られた。
小林恭二氏は、近松門左衛門の『曾根崎心中』をテクストに、この著作と同じような試みで、元禄の上方風俗の再現を試みているとのこと。そちらも是非読んでみるつもり。