閑人手帖

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心中への招待状:華麗なる恋愛死の世界

小林恭二(文春新書,2005年)
心中への招待状―華麗なる恋愛死の世界 (文春新書)
評価:☆☆☆☆☆

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河竹黙阿弥の『三人吉三』の興味深く読み解いた『悪への招待状』のあとがきで,近松門左衛門の『曽根崎心中』を題材に同じ趣向の書物を書く用意があると著者が書いたのは1999年のことだった.6年の歳月がたってしまったのは,九平次という,作劇の上でも,筆者が想定する「心中」という概念の上でも,全く必要とは思われない登場人物を,近松門左衛門が『曽根崎心中』の中で導入していることに,説明をつけることに苦慮したからだと,あとがきにある.本書の第四章でこの九平次という存在がいかなる理由で,作劇上および近松の描きたかった「心中美学」の上で,余分な存在なのかは説明されているが,近松が敢えてこの九平次という人物を設定した理由については明確に説明づけられているとは言えない.
しかし恋愛死としての「心中」の成立を,元禄期の物質的反映の頂点にあった大坂という社会歴史的文脈から説明し,『曽根崎心中』の二人が抱える状況,二人の性格の違いについての綿密な分析によって,その心中の動機を,「人間」としての生の獲得という近代的欲求と近代以前の因果論的生命観との交錯点に見いだす小林恭二氏の指摘は非常に興味深いものだった.
『悪への招待状』同様,近松テクストの中で「現代人読者」がひっかかる地点にはいちいち立ち止まり,その背景となる事象を参照することで合理的な説明をする努力がなされている.

心中のイニシアティブを取ったのが遊女のお初であり,それは歓喜にも似た高揚感を伴っていたはずであることは,二人の状況と性格の違いから明確に説明されている.この指摘は,新籐十郎が『曽根崎心中』のお初を演じるにあたって,駆け落ちへの出発のシーンで,文楽での演出と違い,お初が徳兵衛をひきずるようなかたちで花道を退場していく演出を導入したという,先日のNHKの特番の内容を想起させる.籐十郎がこの演出を導入したのは偶然のきっかけによるもので,たまたま裾が絡んでよろけてお初を演じる籐十郎が徳兵衛の前に出てしまったことがあり,そのままの勢いで退場してしまったところ,客の反応もよく,それ以降,道行のシーンではお初が前に出る型でやっていると,テレビでは言っていた.おそらく近松のテキストを役者として読み込んでいた籐十郎は,この偶然に敏感に感じるところがあったのだろう.そして小林恭二氏のこの著作を読む限り,籐十郎の直観は近松の意図を踏襲したものになっている.

研究書ではなく,新書という枠組みで書かれた本だけに,記述の精度に乏しく,この本で示された見解がどこまで小林氏自身のものなのか,あるいは従来の学説にあるものなのか,門外漢の僕には区別できないけれど,古典を古典の背景となる世界の枠組みの中で丁寧に読み直すことによって,逆に新しく刺激的なテクストとして生まれ変わっているように思える.

曽根崎心中』は先月は歌舞伎座でかかっていて,今月は国立劇場の文楽公演でかかっているのだが,どちらもチケットをとっておらず見に行けない.残念.
この本を読んだあとだと,いろんな見方で楽しめるだろうに.