- 作:Samuel Beckett サミュエル・ベケット
- 翻訳:岡室美奈子
- 演出・美術:佐藤信
- 照明:黒尾芳昭
- 衣裳:今村あずさ
- 出演:手塚とおる,柄本明,三谷昇,渡辺美佐子
- 上演時間:2時間
- 劇場;三軒茶屋 シアタートラム
- 評価:☆☆☆★
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今年はベケット生誕100年だそうだ.この秋にベケット関連の催しがいくつかある.
『エンドゲーム』はこれまで『勝負の終わり』というタイトルで訳されていたもの.今回の公演のための日本語訳は,日本へのベケットの紹介者でもあり,『勝負の終わり』を訳した安藤信也氏の弟子である岡室美奈子氏による新訳である.
ベケットは多くの場合,まずフランス語で戯曲を書き,それから英語版を出版した.英語タイトルは必ずしもフランス語タイトルの直訳ではない.英語タイトルの『Endgame』にはチェスの終盤戦の意味もあるとのこと.劇の冒頭で「終了」を予告されつつも,この芝居のことばのやりとりは延々とひきのばされる.英語タイトルからはその終わりそうで終わらない緊張感とチェスのゲームの終盤のやりとりが重ねられていることがわかる.『エンドゲーム』はやはりとても美しいテクストだ.「終わり」は劇の冒頭で宣言されつつも,中央に座る盲目のハムは自分たちの世界が終了の直前にいることを自覚しつつ,脈絡のない会話のやりとりによって最後の悪あがきを延々と続ける.クロヴは半分諦念しているかのごとく無気力な忍耐でハムにつきあう.
安藤氏はもともとフランス文学畑であるので訳の底本は当然フランス語版を使ったはずだ.岡室氏はアイルランド文学が専門なので英語版を訳の底本としているはずである.もちろん仏語版も参照していることは間違いないが.
岡室訳はディアローグの喜劇性を強調した「格調の低い」文体をあえて選択したとのこと.今日の公演では果たして柄本明の怪演もありかなり観客の笑いもあったのだが,僕は柄本明のこれみよがしの作為をうっとおしく感じた.ベケット劇の科白のやりとりには廃墟の中でがらくたを積み上げていくような退屈さがあるのだけれど,その中に珠玉のように美しいフレーズが含まれている.殺伐とし無機質であるようにみえながら,実はきわめて詩的な魅力に富んだテクストだと僕は思っている.絶望の中に切実な祈りのような真摯な言葉が混じっている.柄本の演技はこざかしくて,ベケットのテクスト自体の持つ文学的な美しさを減じてるように僕には思えた.
公演後,ポストトークあり.アメリカ人のベケット学者の「研究発表」だった.これが実につまらない.ベケットぐらいメジャーな作家となるとオリジナルな視点で語るのは大変難しいのだろうけれど,今日は公演後のポストトークなのだから,学会発表ののりで枝葉末節のどーでもよいことをくどくど述べられてもなぁ.最後に佐藤信の演出に「日本的なもの」を感じた,「俳句」の明らかな影響があるなどと適当なことを言っている.佐藤信の演出は無国籍風で,だいたい今日の公演でわざわざ日本趣味を強調する意味も少ないのだけれど,日本人が外国ものを演じたりすると,どんな芝居を上演しても外人の目には和風に映ってしまうことは多いようだ.ク・ナウカのように明らかにそういう方向をねらっているのならともかく,そうでない場合はこういうほめ方をされても複雑な気分のはずだ.歌舞伎とか能のような伝統芸能のインパクトが強すぎるため,劇評家のようなプロの見巧者でさえ,日本伝統芸能の固定観念から自由になることはときに難しいようだ.たいして面白いと思わないけれど,一応社交辞令として何か言わなきゃいけないときに,とっさに出てくる決まり文句なのかもしれないが.平田オリザの芝居がこのところパリでちょくちょく上演されるのだが,彼の芝居ももしかすると彼の地の批評では「歌舞伎風のスタイル」とか書かれているかもしれない.