閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

二人阿国

皆川博子(新潮社,1988年)
二人阿国
評価:☆☆☆☆★

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昨年秋に有吉佐和子の『阿国』を大変面白く読み,このお正月には有吉原作をもとにした津上忠脚色の前進座の舞台を見た.三月に新橋演舞場で1990年に初演されて以来再演を重ねている栗山民也演出,木の実なな主演の『ミュージカル阿国』の上演がある.この『ミュージカル阿国』の原作が皆川博子の『二人阿国』である.原作を読んで面白そうだったら舞台のチケットも購入しよう,と思い,図書館で原作を借りて読んでみた.
皆川の『二人阿国』では有吉の創造した阿国とは全く異なる阿国像が提示されている.そもそも主人公は「出雲の阿国」ではない.もともとは阿国とは別の放浪の旅芸人の一座にいた舞子が主人公なのだ.この舞子の少女期から思春期にかけての成長が物語の主題だ.「出雲の阿国」は戦乱による一座離散という事態をきっかけに,この幼い舞子を自らの一座に組み入れる.阿国の姿は,この幼い舞子を通して描き出される.その阿国像は,新たな舞踊のスタイルを作り出した時代のカリスマ的存在というよりは,いまだ流動的て荒々しい時代の中をたくましく,したたかに生き抜く旅芸人の一典型である.
『二人阿国』の阿国像に比べると,有吉佐和子の阿国像は現代における力強く女性像の願望が投影された演劇的な女傑であり,いかにも作り物めいた物語内の存在に思える.『二人阿国』の中では,阿国をはじめ旅芸人の一座は踊りの後は,身体を売って生計を得る遊女となる.彼女たちは社会の中では受動的な存在に過ぎない.殺伐とした当時の性の描き方は作品に大きなリアリティを与えている.有吉版では,阿国は「遊女歌舞伎」に常に少女のような倫理観で反発し,身体を売ることは決してなかった,三九郎などとの近代的恋愛に身を焦がした女性であるのとは対照的でである.
『二人阿国』は特異な芸能者である阿国の活躍を描き出すことを主題としていない.阿国を自らの鏡として成長していく少女の心理の変化,自我の確立の過程を,静謐さを感じさせる端正で風雅な文体で書き出している.しかも芸能者として抱える「業」の深淵も少女の成長の過程の中でしっかりと描き出されている.エネルギーに満ちた女豪傑の大河物語である有吉版阿国よりもはるかに「純文学的」な作品だ.
しかし有吉版よりはるかに地味な印象の『二人阿国』を,娯楽性が要求されるミュージカルの原作に選んだのはどういうわけだろう.松竹のページでの紹介を読んだり,宣伝映像を見る限り,『二人阿国』の雰囲気はかけらも感じられないのだが.
http://www.shochiku.co.jp/play/enbujyo/0703/index.html
舞台版での読替のありように好奇心をかきたてられ,『ミュージカル阿国』のチケットも購入してしまった.再演を重ねている舞台だけにつまらないことはないはずだ.