近松半二・竹田和泉・北窓後一・竹本三郎兵衛=作
『奥州安達原』
- 「朱雀堤の段」
- 「環の宮明御殿の段」
- 劇場:三宅坂 国立劇場小劇場
- 上演時間:約3時間(休憩25分含む)
- 評価:☆☆☆☆
初文楽。これまで何回かチケットをとったのだが、その度に急に用事が入って観に行くことができなかったのだ。来週観る予定のク・ナウカの公演が「奥州安達原」なので、その前にオリジナルも観ておけば愉しみも増えると思い、今日見る演目も同じものにしたのだが、上演される箇所が異なっていた。ク・ナウカは四段目の「一つ家の段」を翻案するが、今日見たのは歌舞伎でもよく上演される三段目だった。ちょっと残念。
退屈して眠ってしまうことを危惧していたのだが、案外退屈しなかった。ゆったりとしたペースでたらたらと物語が進行するので意識を失いかけた瞬間はいくつかあったけれど。古典芸能は劇時間の使い方が本当に贅沢だ。
義太夫の文句が字幕で表示されるのがありがたい。字幕表示がなければしんどかったかもしれない。
お話も面白かった。登場人物の出自を混乱させることで、効果的に宿命的な悲劇的ドラマを盛り上げる。ご都合主義の展開も生身の人間が演じる歌舞伎より、人形浄瑠璃のほうが約束事としていっそう自然に受け入れることができるように思う。自害といった場面もあまり生々しく、しつこくならないのがよい。人間芝居は、人形芝居よりも雑味が多く含まれていることがよくわかる。その雑味こそが生身の人間で演じる演劇の魅力の源泉でもあるのだが、ドラマそのものを味わうという点では人形劇のほうが有利かもしれない。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
ヨーロッパ演劇史の本を読んだとき、西欧中世では、古代ローマの演劇伝統は断絶していて、修道院などで古代ローマの劇作家作品を上演する際には、読み手がテキストを読み、それに合わせて役者がパントマイムで読み上げられたテキストを演じていたとあった。これをはじめて知ったときは、いったいどんな倒錯的思考をへてこんな風変わりな上演方法を思いついたんだろうと思ったのだ。現代では、何年か前にフランスの太陽劇団が文楽の影響の下、人間を人形化した芝居を制作したし、ク・ナウカはそれ以前からこうしたスタイルを洗煉させて、独創的な舞台を作っている。
しかし文楽ではずっとこのスタイルで上演されていて、演劇形態としては何の不自然さも突飛さも感じない。人形劇というジャンルでは、人形使いと朗読者(声優)が完全に分かれていることは珍しくない。役者が人物を代行して表現する形式が現代では主流となっているために、文楽に関心のなかった僕には、読み方と演じ方が分離した方式が特殊に思えたのだ。
中世フランスの説話的文学の中には、ディアローグの作りが演劇的であるように思えるものが少なくないが、そのうちのいくつかはもしかすると人形劇風のスタイルで上演されていた可能性も皆無ではないように思えてきた。