閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

囚われの身体たち Corps Otages

Familia Productions

原作・脚本・ドラマトゥルク:ジャリラ・バッカール Jalila Baccar
演出・脚本・トラマトゥルク・照明:ファーデル・ジャイビ Fadhel Jaibi
舞台美術・衣装:カイス・ロストン Kais Rostom
照明:イワン・ラバース Yvan Labass
振付・音楽:ナウェル・スカンドラーニ
出演:
ジャリラ・バッカール Jalila Baccar、ファトゥマ・ベンサイデン Fatma Ben Saidane、ジャメル・マダニ Jamel Madani、モエッズ・マラベット Moez M'rabet、バスマ・エラシ Besma Eleuch、ロブナ・ムリカ Lobna M'lika、ワファ・タブビ Wafa Tabboubi、リアド・ハムディ Riadh Hamdi、ハジェール・ガルサラウィ Hajer Garsallaoui、カレド・ブジド Khaled Bouzid、ホスニ・アクラミ Hosni Akrimi

  • 上演時間:二時間二十分
  • 劇場:西巣鴨 にしすがも創造舎特設劇場
  • 評価:☆☆☆☆
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一昨年、独特の身体表現と洗練された照明、そして文学的に構築されたテクストの力強さで、強烈な印象を残したチュニジアの劇団、ファミリア・プロダクションの公演。今回は日本で四公演。二〇〇人ほど収容できるにしすがも創造舎特設劇場はほぼ満席だった。
舞台は7,8メートル四方の正方形板張り。その正方形の舞台の内側により濃い色の六メートル四方ほどの正方形がある。背景、および側面はは黒いカーテンで囲まれている。舞台左右には椅子が何脚か置かれている。左手にはサンドバッグがつるされている。中身の詰まった対話を積み重ね展開していく「ことばの演劇」のパーツと象徴的に精神状況を表象する舞踊的なパーツが交錯し、チュニジア社会の情緒不安定の状況がゆっくり、徐々に明らかになっていく。
物語の発端は、ごく平凡なイスラム教徒の女性高校教師の自爆テロである。この自爆テロの背景は政府も彼女の周囲の人間にもよくわからない。蓄積されたフラストレーションが突然爆発してしまったかのように、過激な政治運動とは無縁にみえたこの女性の自爆テロは起こり、チュニジア社会をパニックに陥れる。
この自爆テロを核に、彼女と同居していたフランス語教師の家族の問題へと物語は踏み込んでいく。彼女の両親はマルクス主義の活動家であり、彼女はリベラルな雰囲気の中で成長する。パリにわたり、そこでイスラム原理主義に目覚めた彼女は両親の思いに逆らいイスラム教徒となる。喉頭ガンで声を失った父の拒絶、母も娘の改宗に戸惑うが結局は娘を説得することはできない。母はかつて自分の配偶者を拷問にかけた審問官を町で偶然見つけ、彼にストーカーのようにつきまとい始める。そして自爆テロ。娘の逮捕と拷問。

9.11のNYテロがアラブ世界、そのアラブ世界の中でも紛争の中心からは遠く離れたチュニジアの社会にもたらした重苦しい空気を感じることのできる作品である。反米的機運が一気にたまり、イスラム原理主義的な動きが活発する中、西欧世界とアラブ世界のきわめて微妙なバランスの中でチュニジア社会は神経過敏の状態に陥ってしまう。この芝居の登場人物はこのチュニジア社会のヒステリックな反応に翻弄され、傷ついていく。これはいま進行中の問題である。劇の最後にも解決の糸口は示されない。ただもがき苦しむ人物たちの切実さが伝えられる。

重く、暗い社会派の芝居。政治的問題を演劇的技法で表現し、変換することで、その主題は普遍的なリアリティを獲得した。しかし観客もその重い現実を反映したねばつくようなメッセージを受け止めなくてはならない。観客にとってもしんどい芝居である。表現される事象は、各場面で部分部分しか照らし出されない。場面、場面の間にある闇は観客がつなぐことで、ようやく全体の絵がぼんやりと浮かんでくる、そういう芝居である。

言語はアラビア語が主に使われているが、時折フランス語が混じっている。チュニジアはフランス語が通じる国でもある。
字幕は背景に電光掲示されるが、省略されすぎであるし、字幕の出るタイミングが台詞と大幅にずれていることがかなり多い。この字幕の不備は、作品がすぐれてことばの演劇でもあるだけに、大きなフラストレーションとなった。