閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

モスクワからの退却 The Retreat from Moscow

加藤健一事務所 vol.66
http://homepage2.nifty.com/katoken/

  • 作:ウィリアム・ニコルソン William Nicholson
  • 訳:小田島恒志
  • 演出:鵜山仁
  • 美術:島次郎
  • 照明:五十嵐正夫
  • 衣裳:竹原典子
  • 舞台監督:鈴木正憲
  • 出演:加藤健一、久野綾希子、山本芳樹
  • 劇場:下北沢 本多劇場
  • 上演時間:2時間20分(休憩15分含む)
  • 評価:☆☆☆☆★
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カトケンの芝居を見に行くのはずいぶん久しぶりな感じがする。
英米系の娯楽性の強いウェルメイド・プレイは、僕の嗜好とちょっとずれたところにあって普段はあまり食指が動かない。
ただ今回の作品は、今、「自由聴講」というかたちで出席している小田島恒志氏の戯曲翻訳の授業で取り扱っているテクストなので、発売と同時にチケットを購入した。
「日本語の台詞」として翻訳されたことばが舞台上でどのように流れていくのかを確認するのを楽しみにしていた。授業では最初の40ページほど、今日の公演では約2時間の上演時間のうちの最初の4,50分ぐらいのところまで読み進めている。

結婚後33年を経て別居、離婚に至る50台半ばの夫婦の物語である。登場人物は3人だけ。夫婦と30台前半の彼らの息子。息子は実家から一時間半ほど車で行ったところにあるロンドンで一人暮らしをしている。
33年間の結婚生活の間に、夫婦間には金属疲労のような停滞感が蓄積していた。夫はエキセントリックで感情の浮き沈みが激しい妻との生活に疲れを感じている。妻は自分とまともに向き合おうとせず、自閉に向かう夫の姿に不満を抱き、さらにエキセントリックな言動をエスカレートさせていく。

新しい恋人を見つけた夫は、ある日曜日、妻に別れを告げる。妻はその事実を受け入れることができない。彼女の切実な関係再生への呼びかけにもかかわらず、夫は家を出て恋人と新しい生活を始める。既に30を超えた息子は、両者の間で中立的な関係を維持するよう努める。

原文を読んだ印象では、冒頭から妻の台詞には、自己存在の承認を夫に求める調子の中に悲壮さが感じられたのだが、演出では冒頭部分では特にその悲壮さを抑え、彼女の言動の極端さを喜劇的に提示していた。妻の台詞には時折彼女が暗唱した詩の一節が挿入され、それが夫が朗読するナポレオン軍の悲壮な「モスクワからの退却」の情景を描く兵士の日記とともに、ドラマに象徴的・普遍的な色合いを与えている。しかし鵜山仁の演出では、原作の象徴的・幻想的要素も含め、家族ドラマとしてのリアリズムの中で再現することを目指しているように思えた。
妻アリスの特異な饒舌にもかかわらず、「拒否された」こと「否定された」ことによる苦悩と悲しみの表現には、強いリアリティが感じられた。
何ヶ月かの苦しみの時期を過ごしたあと、アリスは夫を訪ねる。自分が「編纂した」詩集を携えて。
そしてこの詩集の受け渡しの場面で、ようやく彼女は自分に真摯に向き合う夫の姿を確認することができたのだ。33年間この夫婦がえることのできなかった共感を、離婚という事態をへてはじめて彼らは得ることになるのである。夫の「承認」は、絶望の底にいた彼女に深い安らぎをもたらす。

何とも身につまされる話であった。おおくの夫婦は、私が思うに、多かれ少なかれ欺瞞の蓄積の中で夫婦関係を維持しているのではないだろうか。そしてその欺瞞に絶えられなくなり、本心で向き合おうとしたとき、たいていの夫婦関係は崩壊せざるを得ないようにも思える。この崩壊の過程の悲痛な描写の最後に、微かな希望、前向きの未来を与えられたことに安堵し、大きな感動を覚えた。