閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

unlock#2 ソラリス

青年団リンク 東京デスロック
http://www.specters.net/deathlock/

ソラリスの陽のもとに (ハヤカワ文庫 SF 237)

  • 作・演出:多田淳之介
  • 美術:鈴木健
  • 照明:岩城保
  • 出演:夏目慎也、佐山和泉、永井秀樹、石橋亜希子、大竹直
  • 上演時間:1時間40分
  • 劇場:東大駒場 こまばアゴラ劇場
  • 評価:☆☆☆☆
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東京デスロックの公演を見るのはこれが三度目だが、既成の演劇的表現とはひと味違う独創的な表現を毎回果敢に取り入れようとする姿勢が好ましい。アゴラ劇場は通路もふくめぎっしり埋まる盛況だった。身動きがとれないほど密集していたので、最初はパンツのよじれがもぞもぞするのが気になって困った。
今回のデスロック公演の素材は「ソラリス」である。レムの原作は僕は未読である。タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』は2,3度見ているが、最後に見たのはもう10年くらい前だと思う。一面「海」で覆われた星、「ソラリス」に滞在する調査研究員がその「海」が研究員の記憶から作り出す人物によって悩まされるという話である。その「海」によって記憶の底から実体化された人物は、当事者にとっては疚しく、忌まわしい思い出に関わる人物である。主人公の前には10年前に自殺した妻が現れる。その実体化された「妻」は何度消してもまた現れてきて、主人公を悩ませる。

上演前には、数年前喫茶店で同じテキストを上演したときの様子がスクリーンに映し出される。ちらしには脚本全文が細かい活字で掲載される。さらにその上、前説で演出家自身が作品概要について述べるのだ。芝居がはじまってからのオープニング映像でも概要が再び説明されるという念の入れよう。作品内容を事前に徹底して観客に周知させた上で、それがいかに表現されるかということで観客を楽しませてやろうという不遜で挑発的な仕掛けである。

暗転のあと、幕が開く。舞台と客席は台とアクリル版によって対峙している。中央に直径4メートルほどの砂でできた中州のようなものがあり、その周囲は深さ20センチほどの本水で囲まれている。上手に俳優が出入りする出入り口があり、その出入り口と中州の間には橋の役割をする板が架けられている。
事前になされた概要説明のとおりに、舞台は進行していく。話の内容自体、台詞回しは現代口語風のゆるやかに崩れたものになっているが、僕の記憶にあるタルコフスキーの映画の内容を基本的にはそのままなぞっている感じだ。
音楽が入ることもなく、禁欲的な雰囲気の中、台詞のやりとりが続く。映画版ではソラリスにすべてを見透かされ、いくつかの抵抗のあげく、無力感の中、主人公がソラリスにとりこまれていく様子に僕は大きな恐怖感を感じたことを覚えている。
デスロックによる舞台版では、登場人物は冒頭から深い倦怠感と虚無感の虜になっている。実体化した自己の記憶の中の人物との対決(それは己の過去の疚しさとの対峙でもあるのだが)との疲弊にほぼ白旗を揚げている状態で、崩壊しかけの自我を退廃によってかろうじて支えている感じだ。このぎりぎりの精神状態は、登場人物のエキセントリックな言動、とりわけ声調の極端な変化や本水に飛び込む、掛け合うなどの動作によって、リアルに表現される。打つ手がなく、どうしようもなくなった閉塞状況にある精神の極めて優れた表現に演出上の工夫を感じた。

ラストは回帰的循環的な構造にしてあったが、このタイプの芝居ではあのエンディングはかえって陳腐であるように思えた。むしろ幻影である妻ハリーを失ったケルビンの絶望的な空虚の前に、またハリーが現れるという悪夢的ではあるが希望も感じられるシーンでストンと終わったほうが余韻は深かったように僕は思った。

正直、客席の窮屈さも含め、観客にかなりの我慢を強いるストイックな芝居だったが、「ソラリス」の白々とした絶望感を演劇的表現に転換させるにあたっての演出家と役者の工夫と考察には感心し、中盤以降は舞台に引き込まれ、お尻のむずがゆさも忘れてしまった。

次回の公演ではどんな創意を見せてくれるのか、期待が膨らむ。