閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

通し狂言 摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)

  • 作:菅専助・若竹笛躬
  • 補綴・演出:山田庄一
  • 美術:国立劇場美術係
  • 序 幕
    • 住吉社前松原の場
  • 二幕目 
    • 高安館表書院の場
    • 同 奥御殿庭先の場
    • 同 河内国竜田越の場
  • 三幕目
    • 天王寺南門前の場
    • 同 万代池の場
  • 四幕目
    • 合邦庵室の場
  • 上演時間:4時間15分(休憩30分、15分)
  • 評価:☆☆☆☆

通常は今回の上演の大詰にあたる「合邦庵室の場」のみの上演が多いとのこと。国立劇場での通し上演はこれが六度目だとのこと。
プログラムの解説によると「継母の禁断の恋」「盲目の貴公子の流浪」という主題はもともとはインドの仏教説話にあるという。それが日本に伝わり、『今昔物語集』に収録され、さらに能の『弱法師』、説教節『しんとく丸』という作品が生まれた。現代でも三島由紀夫の『近代能楽集』の中の一作品、そして寺山修二の『身毒丸』にこの主題は引き継がれている。さらに興味深いのはインド起源のこの説話がヨーロッパにつたわり、ギリシャ悲劇『ヒッポリトス』やセネカの『ファエドラ』、さらに17世紀古典主義悲劇最大の劇作家ラシーヌの傑作『フェードル』へとつながっていったという説があることだ。
歌舞伎の『摂州合邦辻』は、1773年に文楽作品として初演された作品である。
上演機会が多い「合邦庵室」の場では、らい病を病み、盲目となった俊徳丸とその恋人浅香姫を匿う合邦のもとへ、俊徳丸に恋焦がれ家を出た合邦の実の娘、玉手御前がやってくるところから始まる。夫を裏切り義理の息子に恋をするという玉手の浅ましさを、厳格な父である合邦は許すことができない。玉手は別室に匿われた俊徳丸と浅香姫を見つけると、浅香姫を足蹴にし、俊徳丸を奪いとろうとする。そして俊徳丸が醜い姿になり、盲目であったのは自分が彼に与えた毒酒が原因であり、それによって浅香姫から俊徳丸を遠ざけ、義理の息子と自分との道ならぬ恋を成就させることが目的だったと告白する。合邦はあまりの娘の狂乱の恋の浅ましさに激怒して剣を抜き、娘を切りつける。瀕死の状態になった玉手は、ようやく自分の本当の意図を告白する。これまでみせていた俊徳丸への恋は芝居であったというのだ。俊徳丸の義弟、次郎丸が彼を殺す陰謀を知ったため、彼女は俊徳丸の命を救うため、そして俊徳丸同様に自分の義理の息子である次郎丸に罪を犯させないため、俊徳丸に恋をしたふりをして毒酒を飲ませ、彼に相続を放棄させるようにしむけたというのだ。さらに今わの際になって浅ましき邪恋のありさまを父親の前で隠さなかったのもわざとだと言う。そうやって父親の怒りを引き出し、自らを切り殺させることで、俊徳丸のらい病と盲目の治療の秘薬である寅年寅月寅日寅刻生まれの女の肝の生き血、すなわちその年月日刻にまさに生まれた己の生き血を俊徳丸に捧げるためだというのだ。この健気な自己犠牲を知り、そこにいた一同は大泣き、玉手は名誉回復の喜びの中、安らかに息絶える。
今日の通し上演では、「合邦庵室」の場につながるエピソードが破綻なく論理的に並べられていた。序幕は海岸で俊徳丸に毒酒を飲ませる場面からはじまり、それから俊徳丸出奔時の事情を第二幕で示す。第三幕では四天王寺を舞台に俊徳丸とその恋人浅香姫が、玉手御前の父、合邦に偶然拾われる状況が説明される。玉手御前の邪恋のすさまじさは、序幕、第一幕でたっぷりと強調される。大詰の「もどり」の劇的転換の効果は、通し狂言によっていっそう高まったはずだ。しかし同時に義理の息子に恋する玉手御前の性格づけが、いっそうなぞめいた不可解なものになった。
玉手御前が俊徳丸に示していた恋心が、彼女が最後に告白したとおり「作り事」であったのか、あるいは「本当の恋」だったという解釈は昔から議論の的だったという。坂田藤十郎は、彼の恩師である武智鉄二の近代的、心理主義的な解釈にのっとった玉手御前像を作りあげたとプログラムの中で松井今朝子氏などが指摘してる。つまり玉手は俊徳丸に恋心は抱いていた、しかしそれは無意識的なものであった。「その無意識の恋愛が[中略]男を知り寡婦となった熟女の爛れた肉欲[引用者注、すごい表現だ!]から生じたのではなく、清純な娘の恋心にhとしいものとして表現されたところに」、昭和24年に現藤十郎扇雀の名で20歳のときに玉出御前を演じたときの高い評価の原因があったと松井氏は書く。芝居上の設定では玉手御前は19,20とあり、まさに当時の扇雀は、芝居上の設定と同じ年齢で玉手御前を演じたのだ。
しかし今、藤十郎は70を超えいている。いくら芸の力があり、見る側が芝居の約束事を納得していても、今の藤十郎が演じる玉手御前は松井氏が描いたような「清純な娘」には絶対見えない。むしろまさに抑えきれない「熟女の爛れた肉欲」を最後の恋に焼尽しようとする50過ぎの寡婦、女としての最後の情念の炎のすさまじさを感じてしまうのは、皮肉なものだ。結局、いかに心理主義的な立場から合理的な解釈を玉出にあてはめようとしても、今の藤十郎が演じては、しかも通し狂言という形で見せてしまえば、絶対に解釈から零れ落ちてしまう不可解なものが玉手御前にはあるように思えるのだ。
その不可解なものの面白さを感じることができた非常に興味深い公演だった。
俊徳丸は三津五郎だったが、もっとぼーっとしていて何を考えているのかわからない雰囲気の人のほうがこの役柄には合っているような気がする。呆然とした風情が似合う人。梅玉とか。

行こうかどうか迷っていた3月、蜷川演出の藤原竜也-白石加代子の『身毒丸』を、今日の公演を見て見に行きたくなった。寺山の戯曲の枠組みで彼らはどういった関係を見せてくれるのだろうか。