閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

通し狂言 小町村芝居正月(こまちむらしばいのしょうがつ)

  • 作:初世桜田治助
  • 補綴:国立劇場文芸課
  • 美術:国立劇場美術係
  • 出演:尾上菊五郎、中村時蔵尾上松緑、尾上菊之助、片岡亀蔵、坂東彦三郎、澤村田之助
  • 劇場:三宅坂 国立劇場大劇場
  • 上演時間:四時間十分(10分、30分、15分、15分の休憩含む)
  • 満足度:☆☆☆☆

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1614.html

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菊五郎劇団による復活狂言が上演される国立劇場の正月公演を観るのはこれが三度目だ。長い年月、再演の機会なく埋もれていた作品を掘り起こし、上演当時の未整理で雑多な味わいを最大限生かしつつ、現代的に再構成する試みである。
江戸歌舞伎が本来持っていた民衆芸能的な卑俗で破天荒な魅力を感じさせる再現が菊五郎劇団の復活狂言の魅力だと思う。実験的な試みでありながら、現代の観客を喜ばせる豊かな娯楽性を持つ舞台作品として提示しているのもすばらしい。
歌舞伎の意識的な現代化の試みとしては、勘三郎が野田秀樹串田和美らと組んで行っているやり方が歌舞伎を現代演劇へ引き寄せて再解釈するものであるのに対し、菊五郎の方法は、民衆芸能であった歌舞伎が本来持っていた猥雑で混とんとしたエネルギーの中に現代歌舞伎の可能性を探っているように僕には思える。勘三郎の舞台も僕は大好きなのだが、方法としては菊五郎の選択により大きな魅力を感じる。

『小町村芝居正月』は平安初期を舞台に惟喬親王と惟人親王の皇位継承争いを主題とする「御位争い」と小野小町大友黒主が登場する「六歌仙」を題材とする顔見世狂言である。「暫」の場面の挿入、前半を時代物、後半を世話物にしてそこでは時代物の人物が身分をやつして登場する、世話物の場は雪景色とする、動物や植物の精が登場する、といった江戸歌舞伎の顔見世狂言独自の約束事が盛り込まれた荒唐無稽で飛躍の大きい派手な筋立ての作品だった。歌舞伎の様式的娯楽性のバラエティ・ショーといった感じである。
前半の時代物で貴族だった人物が、世話物の場で身をやつすという「実ハ○○」という歌舞伎的約束事だが、『小町村芝居正月』では王朝貴族が世話の場では江戸下町の獣肉料理店「けだもの屋」の主人になるという奇想天外な趣向が作品の目玉である。無茶苦茶なありえない強引な展開なのだけれど。しかも世話物の場では、時代物の場の貴族的雰囲気などかけらもない庶民的人物を演じつつも、そこに突然時代物の場の関係性が現れたりする突飛さも受け入れなければならない。深草少将に片思いの狐の精が人間の女性に化けて、悪役から宝剣を奪い取って、その手下たちと派手な立ち回りを演じる。最後は「暫」、正月でめでたいから悪党との決着はまた後ほど、となって終幕。
原作の荒唐無稽さは今日の上演版の比ではないことが国立劇場文芸課による補綴についての解説文から窺える。原作のさいしょの部分では「やたら多くの人物とお宝が入り乱れ、しかもそれらがほとんど後の場へつながらない」(大笑)のだという。当然こうした後の展開にまったく関わりのない部分はカットされている。江戸時代の観客のファンタジー受容能力は恐るべきものがある。

今作はいかにも歌舞伎らしい趣向の数々を贅沢に楽しむことができる楽しい作品ではあったが、貴族がももんじ屋になるという大胆奇抜さを除けば、他の部分は通常の古典作品の見せ場をコラージュしたという感じで、解説や筋書きを読んで感じるほどの奇想天外さは舞台からは感じることが出来なかった。僕がこれまでみた昨年、一昨年の復活狂言と較べると、むしろきっちりとまとまった感じもある作品にしあがっていて、そこが僕には若干物足りなかった。武家物の場の中心である第二幕は動きに乏しくて単調に感じられ、
睡魔に引きずり込まれそうになった瞬間も何回かあった。
こちらが歌舞伎の表現にだいぶ慣れてきたために新鮮味が薄くなってしまったのかもしれないが。前二作は復活狂言という企画でこれ一回きりといった感じの破綻にどんどん足を踏入れてでも、芝居全体の活力を優先させるような雰囲気がもっとあったように思う。

この頃、ようやく中村時蔵の演じる女形を美しいと思えるようになった。