閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

リア王

http://www.saf.or.jp/p_calendar/geijyutu/2008/p0119.html

『リア王』は僕が読んだことのあるシェイクスピア作品の中で最も好きな作品の一つである。中世以来の「運命の女神」という文学的主題が、壮大な叙事詩的世界の中で、虚無主義さえ感じさせるほどの極端な酷薄さで、この作品では描かれている。王に降りかかる運命の不条理の悲劇の壮絶さには強力な吸引力がある。
結末では王の一族はことごとく死んでしまう。なぜ彼らの一人として生き残ることを作者は許せなかったのだろう。結末では人々は「運命の女神」の気まぐれの残酷さをぼう然と眺めるしかないではないか。
王は所有していたものを一つ一つはぎ取られ、無一物に近づいていくことと引換にしか、覚醒し、真実を見つめることはできない。領土と権力を失い、家来を失い、忠臣を失い、自分の影であった道化を失い、そして最愛の娘を失い、最後には己の生命を失ってしまう。この容赦ない喪失の連鎖の結末は絶望と虚無である。
リア王と娘たちの相剋に、グロスター伯とその庶子エドマンド、嫡子エドガーの物語が対旋律として主筋に絡み合ませることで、ドラマの悲劇性はさらに密度を増している。


リア王を演じる平幹二朗の気迫に圧倒される。その熱演ぶりは見ているこちらも息苦しくなるほど。威厳を持ち傲慢で頑固な王者から、迫害を受け、怒りと恥辱で狂乱していく様、転落の過程での衰弱の様子、そして最後に見いだす束の間の安らぎとその後の絶望まで、物語すべての時間に君臨し、その様相をドラマの進展に合わせたくみに変化させる、何ともリア王らしいリア王だった。
グロスター伯役の吉田鋼太郎、高橋洋のエドガー、そしてとよた真帆(リーガン)、銀粉蝶(ゴネリル)、池内博之(エドマンド)の邪悪な悪党三人組など、適材適所と思えるような配役による人物造形も素晴らしい。
リアの分身である道化は極めて重要な役柄であるが今日の舞台ではいまひとつ生彩に乏しい感じがした。松岡和子訳を読んだときにも道化の台詞の処理には僕は違和感を抱いたいたのだけど。

登場人物は最初みな豪勢な毛皮の衣裳を身に着けている。『リア王』では動物のイメージが強いという指摘がある。劇の登場人物の野生性や荒々しさが動物のメタファーで示されているという(ちくま文庫版、河合祥一郎氏の解説による)。毛皮の衣裳は王族、貴族の豊かな所有の象徴であると同時に劇中人物の動物性、野性的振舞いを示しているように思った。登場人物は動物の毛皮を脱ぎ捨てていくことでどんどん零落していくが、逆説的に人間的な理性を獲得していく。
見ごたえのある重量感たっぷりの舞台だったが、三時間四十分(休憩二十分込み)は正直なところ長く感じた。蜷川のシェイクスピアは前回の『オセロ』も長かったけれど、もう少し刈り込んでもいいように思う。『リア王』の場合、展開が停滞する第二部はとりわけ冗長に感じられる箇所が気になった。照明が暗い場面が続くし、話はずっと陰惨だしで、ちょっとしんどい芝居ではあった。
昨年見た『オセロ』のほうが舞台としては僕は好きだ。蒼井優ちゃんも出ていたし。
内山理名のコーディリアは今一つ印象が弱い感じがした。