青年団若手自主企画 vol.36 現代口語ミュージカル
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「現代口語ミュージカル」というちょっとありえなさそうな組み合わせ。
舞台上でのリアルな再現をとことんまで追及した現代口語演劇スタイルとうそ臭い、非日常的な作り事としての芝居の極にあるようなミュージカルをいったいどのような方法で共存させているのか、好奇心をそそられる。
見に行ってよかった。とても面白かった。「そっかぁ」と感心してうーんとうなってしまった。
平田オリザ演出による「ホンモノ」の『御前会議』は数年前にアゴラ劇場で見たことがある。ナンセンス色の濃い風刺的な作品だが、ミュージカル化となるとまったく別物に変換してしまうのかなと思っていたら、そうではなかった。開場して中に入ると、会議室などに置かれているような円卓があった。円卓の中央奥には張りぼてのマネキンが座っている。数年前に見た『御前会議』の内容が頭に蘇る。
開演から10分ぐらいは、平田演出の忠実なコピーだった。もちろんそれだけでも青年団のいびつ感のある役者たちが演じると十分面白い(『顔よ』も青年団の役者からピックアップするともっと生々しいものに感じられたかもしれない)。『御前会議』では日常でちょくちょく目にするような、あるいは自分でも無意識のうちにやってそうな、じんわりと他人を不快な気分に陥れるような言動の再現が多い。
現代口語「ミュージカル」と銘打っていて、実際、完全現代口語演劇の導入部のあと、せりふは音楽化されていくのだけれど、その発想はいわゆるミュージカルとはまったく異なるように思った。ミュージカルでは歌とせりふの部分の対立が強調されていて、歌の部分のことばは劇内のコミュニケーションよりもむしろ観客に向かって発せられるメッセージであるのが基本だ。しかし『御前会議』は自然なせりふと不自然で人工的な歌は対立的なものとして扱われていない。
以下ネタバレあり。
10分ぐらいたつと、かすかなリズムを刻む音が聞こえてくる。最初は音響機器が発する雑音かなと思っていると、それが次第にはっきりとした拍を刻む。そのBGMの拍節に合わせせりふが語られはじめる。といってもあからさまに音楽的な旋律にことばをのせるわけではない。ベースとドラムによるリズムパターンに合わせ、せりふを乗せていく感じであるが、発話の際の旋律的な強調は意識して避けられている。日常的会話の発話の抑揚をそのまま維持しながら、リズムにのっかるというのが基本的スタイルになっている。ものすごく地味なラップという感じである。
リズムのペースとかBGMの音の大きさが話者の心理状態のメタファとなっているようなところもある。話者の心理状況を敏感に反映する振動の鼓動の変化を、リズムという形で表現しているようにも思える。
こうした現代口語スタイルのラップ化がどんな劇的効果をもたらしているのか、というのはうまく言語化できないのだけれど、リズムの拍節に会話リズムが規制されることによって、戯曲の持っていたナンセンスな笑いが増大し、その結果、作品の風刺的性格が強調される効果はあったように思う。1時間15分の芝居の後半部分はちょっとだれてしまった感じもあったのだけれど。
せりふの音楽化をどんどんエスカレートさせていくのかな、と思っていたらそうではなかった。一箇所だけ(相対的に)派手に音楽を入れたところがあったけれど、基本的には同じペースが守られていた。
アフタートークがあった。なぜ『御前会議』を現代口語ミュージカルのテクストとして選んだのか質問した。演出家の返答は、短い断片的なせりふのやりとりが少なく、3,4行の比較的長いせりふのやりとりが多い芝居だったので、音楽化しやすいように思ったのが一番目の理由。二番目の理由は、「会議」という状況での発話は、いわゆる日常的言語だけでなく、「演説的」な、演劇言語と日常言語の中間に感じられるようなことばが用いられることも多く、これも音楽化に適しているように思ったから、ということだった。
6月中旬に『御前会議』ミュージカル版演出の芝幸男演出による舞台がまた上演される。今度は自作自演出となる。こちらは「ミュージカル」とは銘打たれてはいないが、平田戯曲をミュージカル化するというちょっと普通は思いつかないアイディアに基づく舞台をこういう形で提示できた演出家だけに、次作もぜひ見てみたいと思った。