閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

うかうか三十、ちょろちょろ四十

人形劇団プーク
http://www.puk.jp/kouen.htm

  • 作:井上ひさし
  • 演出:井上幸子
  • 美術:若林由美子
  • 音楽:マリオネット(湯淺 隆・吉田剛士)
  • 照明:阿部千賀子
  • 効果:宮沢 緑
  • 出演者:安尾芳明、原山幸子、滝本妃呂美、柴崎喜彦、栗原弘昌、佐藤文子、油利 衆、石島璃紗
  • 上演時間:85分
  • 劇場:新宿 紀伊国屋ホール
  • 評価:☆☆☆☆★
                                                                                • -

人形劇団プークの大人向きの公演。
ポルトガル・ギター、マンドリュートマンドリンクラシック・ギターなどを使ったアコースティック・ギターのデュオ、マリオネットのコンサートが第一部、マリオネットが音楽を担当した井上ひさし作の『うかうか三十、ちょろちょろ四十』の公演が第二部の二本立て。紀伊国屋ホールにて。上演時間は 15分の休憩を挟んで、前半が50分、後半が1時間25分。

マリオネットの生演奏は、2年前に同じ紀伊国屋ホールで、プークの人形劇『金壺親父恋達引』公演とのジョイント公演で僕は聞いている。ポルトガル・ギター、あるいはマンドリンで爪弾かれる旋律は叙情的で、甘美な音色な豊かな色彩を感じさせる。


ポルトガル・ギターはスチール、12弦(6弦複弦)の撥弦楽器で人差し指に鉄製の爪をつけ、それで主旋律を奏でる。フラメンコ・ギターでよく使用されるラスゲアードが用いられるが、ポルトガル・ギターのラスゲアードの響きは柔らかく優雅で、装飾的だ。ポルトガルの民族音楽であるファドの伴奏に使われる楽器らしい。ギター、リュート系の撥弦楽器の音楽が好きな人ならば、そのしっとりとした風情とどこかセンチメンタルな曲調に惹かれるのではないだろうか。ポルトガルという出自から大航海時代をイメージした曲が何曲かあったが、その響きはレトロな異国趣味を感じさせると同時に、日本の演歌や古い歌謡曲を思わせるような懐かしさも感じさせる。「前座」にあたるマリオネットのコンサートだけでも大いに満足する。

15分の休憩のあと、『うかうか三十、ちょろちょろ四十』の公演。
1958年作、井上ひさしの戯曲としては最初期に書かれた作品だ。プークでは100センチほどの大型の人形を黒子の役者が操作する出遣いの形式でこの作品を上演する。僕は2006年の秋に、100席ほどの規模のプーク人形劇場でこの作品の公演を見て、大きな感銘を受けた。
今回は紀伊国屋ホールという広い舞台での公演なのがちょっと不安だったのだ。大きな舞台での上演に伴ういくつかの不満はあったのだけれど、再見した今回の舞台でも大きな満足感を得ることができた。

不満のほうから書くと、美術などのスペクタクルの面である。プーク人形劇場の小さな舞台なら気にならないのだけれど、舞台が広くなると、象徴的というには中途半端に半具象の装置がどうも落ち着かない感じがしてしまう。三幕通して同じ場なので、書割を使うにせよ、もっと写実的な美術で空間を埋めるほうが効果的であるように思った。
またせっかく広い舞台で上演するのだから、舞台空間を有効に使った、観客が思わず「あっ」と声を出すようなスペクタクルの仕掛けが欲しい。始まる前と幕間そして最後に出てくる風車をびっくりするぐらいの数ならべて舞台を埋めるとか。幕間の「お払い」ダンスも狙いがわからない。意味に乏しい。

戯曲は本当にすばらしい。この戯曲を書いたとき、井上ひさしは24歳だった。20台の人間が書いたとは思えないような達観した無常観が、心に染み入るような叙情とともに表される。民話劇風の枠組みのなかで描き出される素朴な味わいの、切ないそしてちょっと不条理な雰囲気を持つ喜劇作品の傑作である。

戯曲だけでなく、ごつごつとしたじゃがいものような愛嬌のある人形の造形、そのニュアンスに富んだ動き、台詞回し、そしてドラマの情感を盛り上げるマリオネットの音楽(名曲だよなぁ)、これらすべてが絶妙のハーモニーを奏でる。
人形をつかった演劇ならではの味わいが、戯曲の深みを効果的に引き出しているように思う。二年前に見たときも絶賛したけれど、やっぱり僕はこの作品が好きだ。

以下あらすじ。

                              • -

桜の花の季節のこと、土地の若殿は侍医とともに領地の村を散策していた。村はずれでふたりは美しく利発な、ちかという名の娘と出会う。ちかは桜の大木の前にある農家にひとりで暮らしているという。殿はこの娘に一目ぼれし、彼女に結婚を申し込むのだが、この賢い娘はそんな玉の輿の申し出に浮かれる様子がない。幼い頃からの許婚である近隣の大工と結婚し、つつましいが幸せな生活を作っていくのだ、と言って若殿の申し出をきっぱり拒絶する。娘に振られてしまった若殿は落胆し、とぼとぼと城に戻る。城に戻る途中降ってきた大雨に若殿は濡れ、雷に打たれてしまう。

それから十年目の春の日。ちかは許婚の大工と結婚し、一人の娘をもうけていた。しかし大工の夫は結婚後間もなく病に倒れ、ずっと床に伏せている。長引き、回復のきざしの見えない病気のせいで、ちかの親身の世話にも関わらず、夫の心はひねくれ、ささくれ立っていた。
そこに頭巾をかぶった二人組の男がやってくる。彼らは殿様の侍医を勤めたこともある医者だと自称する。二人は無理やり夫を診察し、夫の病気はとっくに治っていて、すでに健康を取り戻している、と断言する。その言葉を聞き、夫は元気を取り戻す。頭巾の二人組が去ったあと、侍がやってきた。その侍が言うには、先ほどやってきた頭巾の男は殿様とその侍医で、二人は10年前から狂気に陥り、立ち寄ったさきの村で病人を見つけては「名医」を自称して、「その病人はすでに全快している」などとでたらめの診断し、いたずらに病人を喜ばせているのだ、と言う。真実を知った夫は絶望し、再びふさぎ込んでしまう。

それからさらに十年目の春の朝、若殿が突然正気を回復した。彼は自分が狂気だった期間の記憶をまったく失っていた。彼の一番新しい記憶は、20年前に村はずれの桜の大木の農家でちかという娘に会ったこと、その娘に恋したものの、振られてしまったことである。20年分年老いた侍医とともに彼はあの桜の木のもとにやってくる。するとそこに自分が恋したあの娘が、あの日と同じように歌を歌いながらやってきたのだ。しかし「あの日」は再現されない。彼女はかつて若殿が恋したちかが産んだ娘だったのだ。娘の話によると、狂気の状態にあった殿がこの家を訪ねた10年前の日からしばらくして、ちかの夫、目の前にいる娘の父は病をこじらせて死んでしまった。そしてその後を追うように、ちかも死んだという。
かつて自分が恋した娘の面影を持つこの娘に、殿は求婚する。しかしこの娘も、その母と同じように、殿の申し出を拒絶した。

「うかうか三十、ちょろちょろ四十」、夢うつつのなかで過ぎてしまった青春の時間、とりかえしのつかない時間を殿は嘆く。失われた時は戻ってこない。雨風に散りゆく桜の花びらを殿は呆然と眺め見る。

色は匂へど散りぬるを吾が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず