閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

美人作家は二度死ぬ

美人作家は二度死ぬ

美人作家は二度死ぬ


評価:☆☆☆☆★

                                                                      • -

「美人作家は二度死ぬ」と「純文学の祭り」の二編を所収するが、「純文学の祭り」は30頁ほどの短編小説である。
「美人作家は二度死ぬ」は、「山室なつ子の生涯」というタイトルで作者のウェブログhttp://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/)に発表したものがもとになっているとのこと。出版社の意向で単行本化にあたってタイトルを変更したと「あとがき」にあった。「山室なつ子の生涯」はウェブログでの発表時にパソコンのHDDに保存しておいて後でまとめて読もうとおもったまま、そのまま読まないままだった。パソコンの画面では長めの文章、特に小説の類いは読むのがおっくうだし、活字媒体に掲載されない創作ということは小説としてもあまり出来がよくないのかな、と思っていたのだ。
ところが単行本化されたものを読んでみると無茶苦茶面白いではないか。小説読みの玄人である文芸出版社の編集者がこの小説を評価しなかったのはいったいどういう理由からなのだろう。

「美人作家は二度死ぬ」はこれまで読んだ彼の小説とは雰囲気がかなり異なる感じがした。もちろん語り手である女性の内面の描き方などこれまでの小説の延長線上の要素もあるのだけれど、これまでにない清浄な印象を読後にもたらす小説なのだ。これまでの私小説的小説にあったやりきれないようなリアルな薄汚さ、ニヒルな露悪趣味が後退している。小説の語り手のひとりである国文学専攻の若い女性の大学院生は、北村薫の「円紫師匠と私」シリーズを僕に想起させた。国文学専攻の院生である菊地涼子は、明治期に女流作家として活躍したものの、結婚を期に筆を折り、世間から忘却されたまま昭和の半ばまで生きた山室なつ子の論文を準備している。
山室なつ子とは、「夭折しなかった」樋口一葉である。この小説のなかでは彼女は夭折しなかったため、大作家として人々の記憶に残ることがなかったのだ。涼子の生きるのはバブル経済崩壊前の1980年代中期である。涼子がごくわずかに残された記録から組み立てあげようとする、断筆の作家、山室なつ子の生涯と、80年代に青春期を過ごす平凡な文学少女の成長が重なり合う。

少女から大人になりつつある一女性の性への健全な関りがリアルに、共感をもって描かれている秀作だと思った。
この作者は男性の性についてはときに暴力的に感じられるほど露悪的な書き方をするけれど、この小説で描かれる涼子の性にはグロテスクなところはない。しかし文学少女のある種の理想像である彼女は非現実的な聖女ではない。丁寧にその性への意識のありようが描かれることよって、極めて(ある種の男性にとって、かもしれないけれど)リアルで平凡でありながら、どこか幻想的、理想的な文学少女が具現されている。
「純文学の祭り」は文学賞選考のパロディ小説。筒井康隆の『大いなる助走』の現代版といった感じ。