閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

カール・マルクス:資本論、第一巻

Rimini Protokoll

http://festival-tokyo.jp/program/capital/index.html

  • コンセプト・演出:ヘルガルド・ハウグ、ダニエル・ヴェツェル Helgard Haug, Daniel Wetzel
  • リサーチ・演出助手:セバスティアン・ブリュンガー Sebastian Brünger
  • 美術:ヘルガルド・ハウグ、ダニエル・ヴェツェル、ダニエル・シュルツ
  • ドラマトゥルグ:アンドレイア・シュヴィーター、イマヌエル・シッパー
  • 照明:コンスタンティーン・ソネソン
  • 音響:フランク・ベーレ
  • 制作:デュッセルドルフ市立劇場
  • 翻訳・字幕操作・通訳:萩原ヴァレントヴィッツ
  • 出演:大谷禎之助(元大学教授、MEGA編集者)、トーマス・クチンスキー(統計学者、経済史家)、クリスティアン・シュプレンベルク(コールセンター・エージェント)、佐々木隆二(大学院生)、フランツィスカ・ツヴェルク(翻訳家、通訳)、ヨヘン・ノート(経営コンサルタント)、萩原ヴァレントヴィッツ健(大学講師)、ウルフ・マイレンダー(作家)、タリヴァルディス・マルゲーヴィッチ(歴史家、映画作家)、脇水哲郎(会社員)、サシャ・ワルネッケ(革命家)、ラルフ・ワルンホルツ(元ギャンブラー)
  • 劇場:にしすがも創造舎
  • 上演時間:二時間
  • 評価:☆☆☆☆☆
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昨年の三月に見たリミニ・プロトコルのシュテファン・ケーギの『ムネモ・パーク』は、その発想のユニークさでは突出した舞台だった。リミニ・プロトコルはドイツの同じ大学で学んだ三人の演出家(ヘルガルド・ハウグ、ダニエル・ヴェテル、シュテファン・ケーギ)のユニットだとのこと。昨年のケーギのように単独で作品を作ることもあれば、今年の『資本論』のように複数で作品を制作することもあるようだ。
昨年の「ムネモ・パーク」では鉄道模型マニアの老人たちが「俳優」となったが、今回もプロの役者は登場せず十二人の人物が、それぞれの現実世界の社会的属性を背負ったまま舞台に登場する。
以下、散漫ながら覚書。

歴史的な著作である『資本論』が現代的に、演劇的に読み替えられ、極めて独創的な舞台作品となっていた。生の証言を巧みに再構成することで、時代、社会のアクチュアリティが舞台上で映し出される。素材の調理の仕方がとてもモダンでかっこいいと僕は思った。


ユーモラスな柔らかい雰囲気を持ちながらも、鋭い社会諷刺や政治性も感じさせる実験的作品であり、作り込まれ緻密に計算された部分と即興的な茶番、遊戯、リアリティーと作り事といった相反する要素が奇妙な融合をみせた、イベント的色彩の強い作品だった。独創の挑発的性格にも関わらず、思わずこちらを失笑させるような脱力的ユーモアにも満ちている。

カール・マルクス:資本論、第一巻」という題材からして、挑発的だ。およそ演劇作品としては提示できそうにない素材である。このその存在はあまりに有名な著作を僕はこれまで実際に目にしたことがなかった。そこで観劇前に図書館で岩波文庫版の第一巻を手に取ってみたのだけれど、「使用価値」「交換価値」などどこかで聞いたことがあるような言葉はあったものの、まったく頭に内容が入ってこない。わずか十頁ほど読んだところでギブアップしてしまった。かつての大学生の多くは、非日常的表現の連なった、読んでいると頭痛がしそうなこの文章を読んでいた、少なくとも読む振りだけでもしていのだから大したものだ。思っていたとおり、およそドラマになりそうな要素はなさそうな著作である。

入場すると舞台を横断するかたちで巨大な本棚が設置されている。奥行きが数十センチの狭苦しい本棚の棚に登場人物たちが配置されている。開演までの三十分ほどの時間、彼らは手持ちぶさたな、ちょっと照れたような感じで、観客席を眺めていたりする。この十二人の出演者はみなプロの俳優ではない。四人の日本人もそのなかには含まれる。この四人の日本人は、日本上演のバージョンで加わった出演者であるが、彼らもこの舞台では重要な役割を与えられている。マルクス主義の研究者、統計学者、盲人のテレフォン・オペレーター、大学院生の活動家、通訳、実業家、ドイツ演劇研究者、編集者、元ギャンブラーなど出演者の職業はさまざまである。公演パンフレットには彼らのプロフィールが記されている。彼らはその職業的属性を背負ったまま、舞台に登場し、舞台上でいわば現実世界の自分自身を「演じ」、自分自身を語る。いずれも、関わりの浅い深いの程度はさまざまではあるものの、マルクスの『資本論』と関わりを持つ人々である。『資本論』に生涯を捧げ、そのことばの力を常に信じ続けた老境の研究者、大谷禎之助氏の佇まいがとりわけ印象深い。

「物語」は年代順に進行していく。マルクスが『資本論』を執筆した時代から、2015年の近未来まで。出演者の語り、茶番じみた遊戯的場面のコラージュから、『資本論』が現代の我々にとって持ちうる意義が浮かび上がってくる。ソ連崩壊、社会主義体制の破綻によって、1980年代に信頼を喪失し、歴史的な意義しか持たなくなったと思われてきた、『資本論』のことばが21世紀の世界でふたたび説得力を持ちはじめてきたかのように感じられる。『資本論』とつながりを持つ各出演者の現実をコラージュ風に配置することによって、現代世界が直面しつつある政治的・社会的現実を浮き上がらせる優れて啓蒙的な舞台だと思った。