閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

チャイム 〜マイム学園物語〜

http://hanmime.com/index_pac.html
劇団 汎マイム工房 2009トライアル公演

  • 構成・演出:あらい汎
  • 照明:アートブレインカンパニー
  • 音響:小西洋輝
  • 衣裳:長壁明美
  • 舞台監督:五十嵐祐介
  • 出演:山羽真実子、沖田祐蔵、亀井海、久垣琴美、山本知未;五十嵐祐介
  • 劇場:氷川台 スタジオPAC
  • 上演時間:1時間40分
  • 評価:☆☆☆★
                                                  • -

パントマイム技芸やクラウンの曲芸を教える養成所の研修修了公演。
娘と娘の友達の男の子二人と計四人で見に行った。
完成度という点からいうと手放しで称賛できる舞台ではなかったかもしれないが、多彩な演目の構成はよくできていて、90分間、退屈することはなかった。何よりも出演者の懸命さが伝わってくる心地よい舞台だった。子供たちも喜んでいた様子。

以下思いつくまま覚書。

養成所を運営する汎マイム工房に所属するくるくるシルクという三人組の曲芸師トリオが物凄く楽しいという噂を聞いていて、劇場が自宅の近くにあることもあり、前から一度このマイム(パントマイム役者)&クラウンの団体の公演を見てみたいと思っていた。
とりわけ先月はじめに、シアタートライアンブルの『Four seasons』を見て、キュートなマイム、チカパンさんの演戯に魅了され、俄然マイムを見てみたい気分になっていた。
http://d.hatena.ne.jp/camin/20090208

今回の公演は、上記公演の挟み込みちらしで知った。問い合わせると、子供が見ても楽しめる舞台だとことですぐに子供の分といっしょに予約した。

『チャイム:マイム学園物語』という公演タイトルで示唆されるように、プログラムが学校での一日の時間割に見立てられる。朝の点呼、体操から、午前の授業、昼ご飯、午後の授業、クラブ活動、清掃、下校までの各時限に出演者全員のプログラムと出演者の個人芸のプログラムが披露される。プログラムの内容は当然、パントマイム芸が多いが、他にもタップダンスなどの群舞やジャグリングなども含まれる。ジャグリング、パントマイムといった技芸は、素人目にも比較的はっきりその技量の差が見えてしまう。「助っ人」としてマイム工房所属の先輩芸人(五十嵐祐介)の一人芸が途中二ヶ所で挿入されるのだけれど、研修生とは技術の差はやはり歴然としていた。求心力が全然違う。
研修所修了生によるジャグリングと個人プログラムは、誠実な演じぶりには好感は抱いたのだけれど。正直、観客をあっと言わせるような圧倒的な技術力に欠けていた。
しかしグループによる集団芸は楽しんで見ることができた。とりわけ静粛さに注意が払われる様子を喜劇的に誇張した「図書館」はおかしかった。極端に神経質なやりかたで「図書館では静かに!」というルールが尊重されている学校図書館の情景である。観客がたてる咳払いの音にまでいちいち演者が反応するの。

個人芸のなかでは、無言動作劇であるパントマイムに、文学作品の朗読を組み合わせるという撞着的試みである、朗読「羅生門」が興味深かった。語りとマイムを別別の人間ではなく、一人の人間が行なうというところがポイントなのだけれど、僕はこの朗読パフォーマンスによって芥川の名作『羅生門』がもっているイメージ喚起力の強さを改めて認識した。僕はこの話を中学のころの国語の教科書で知ったように思う。
羅生門』の内容は連れて行った小学二年生の子供にはいささか難易度が高いように思えた。子供たちがどう受け止めたのかに興味を持って聞いてみると、怖い話だけど(あるいはその怖さゆえに)、この朗読パフォーマンスはかなり強い印象を子供の心に残していたようだった。「あの下人はあのあとどこに行ったんだろう」とか子供たち同士で話していた。小学二年生でも、自己の生存のために、老婆に無慈悲な行動をおこなったあの男の行く末はとても気になるようなのだ。そういう風に書かれているのだから、気になるのは当たり前といえば当たり前なのだけれど。

印象的な舞台ではあったが、パフォーマンス自体はマイムが冗長で説明的すぎるように感じられる部分があった。やはり演じながら、言葉で物語るというのは相当な難問だ。どうしても一旦語り終えてから、それをマイムでなぞるというかたちになってしまう。こうしたやりかたゆえ、小学校低学年の子供でも物語の本質はしっかり伝わったのかもしれないが、表現としてはやはり過剰であるようにも思える。語りのリズムも不安定なものになる。
文楽のように、読み手と演じ手という機能を分担することでそれぞれが独自に持っている表現方法を、緊張感のなかで対置させ反応させることで、総合を生み出すというやり方はとても合理的なものなのだ。話はずれるが、古代ローマ劇上演の伝統が途絶えていた中世では、修道院などでテレンティウス、プラウトゥスといったローマ喜劇を上演する際、単独の朗唱者の朗読に合わせて、複数のマイムが劇行為をなぞったそうだ。これを初めて知ったときはずいぶん珍妙な上演方法だと思ったけれど、文楽など人形劇の上演方法の多くはこれに準ずるやり方であり、そう考えるとそれほど特殊な上演形式とは言えない。ムーバーとスピーカーに分かれて演じる「ク・ナウカ」の方式は、直接的には文楽にインスピレーションを受けたものかもしれないが、中世における古代ラテン語戯曲上演方式が、現代において洗練されたかたちで図らずも蘇ったものといえる。語り手、演じ手を分離させる表現形式はまだ豊かな可能性を秘めているように思える。

一人で朗読とマイムをやるという形態で思い浮かんだのは、初期中世の演劇形態の一つと考えられてる「対話劇的マイム」と呼ばれるものだ。いくつかの初期フランス語演劇作品には、テクストの大部分は通常の演劇テクストのような対話体で書かれているのだけれど、「小説的」な地の文とは明らかに異なる、「語り物」の文体が対話体のなかに無雑作に挿入されているテクストが存在する。こうした数編のテクストを「対話劇的マイム」と名付け、複数の役者ではなく、一人の演者が声色などを使い分け、動作や表情の変化によって複数の役柄を演じ分けながら上演したテクストであるという仮説をたてた研究者がいたのだ。形態的にこうしたテクストは、演劇作品と叙事詩などの語り物文芸作品の中間に位置することから、こうしたパフォーマンスのありかたを想定したのだ。

こうしたテクストは中世のごく初期のものしか残っておらず、後の時代に芸能として継承されることはなかったので、実際の上演、具体的な上演方法がどのようなものであったか想像するのは難しい。落語や講談風の話芸を僕は思い浮べていたのだけれど、もっと身体的表現が活用されたいわゆる演劇に近いものであった可能性もあるかもしれない、と今日の「朗読+パントマイム」を見て思った。

マイム、そしてサーカスの道化、曲芸師となると、自分の研究領域の中世演劇の世界を引き寄せて考えずにはいられない。僕は中世の世俗劇や叙情詩に関心を持って研究しているのだけれど、中世フランスでこうした芸能を担った芸人はジョングルール jongleurと呼ばれる人たちだった。ジョングルールは現代フランス語でも「(サーカス・縁日などの) 曲芸師」の意味で残っているし、英語のjugglerジャグラー(曲芸師)の語源にもなっている。中世にジョングルールと呼ばれていた放浪の旅芸人たちは、現代にこの語が示すよりもはるかに幅広い技芸、芸能に習熟した複合的芸人だった。
その技芸にはジャグリング的な曲芸や軽業だけでなく、武勲詩や聖者伝の朗唱、叙情詩の歌唱、騎士道物語の語り手およびこうした文芸ジャンル作品の創作、楽器の演奏、ダンスの踊り手、演劇の上演、などあらゆる祝祭的娯楽に関わっていたのだ。彼らの祖先は、遠く古代ローマのヒストリオやミムスといった芸人にまで遡ることができる。そして近代のサーカス芸人、軽業師、曲芸師、旅役者たちは、中世のジョングルールの後継者だ。こうした芸人の技芸はその特殊性ゆえに、極めて限定された集団のなかで、世代から世代へと受け継がれてきたに違いない。現代のマイムやクラウンには、他の芸人以上に、近代、中世を経て古代にまで繋がる歴史的系譜が息づいているような、彼らが古代・中世の芸人の末裔であるかのような気がして、古いテクストから過去の芸人たちの姿を想像する僕は、より強い愛着を感じてしまう。彼らの芸を観ていると、数百年前のヨーロッパ中世でも、千年以上前の古代ローマやギリシャでも、今と同じように町辻などでこうした芸を人々に見せていた人がいたんだなあと思ってしまうのだ。