閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

或る『小倉日記』伝

前進座
http://www.zenshinza.com/stage_guide/kokuranikki/index.html

  • 原作:松本清張
  • 脚色:鈴木幹二
  • 演出:鈴木龍男
  • 出演:柳生啓介、北澤知奈美、志村智雄、津田恵一、上沢美咲、浜名実貴、森愛美
  • 劇場:吉祥寺 前進座劇場
  • 上演時間:2時間(休憩15分)
  • 評価:☆☆☆☆☆
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松本清張芥川賞受賞作、「或る『小倉日記』伝」を翻案、劇化した作品。
あまり期待せずに見に行ったのだけれど、素晴らしい舞台だった。前進座らしいシンプルで筋の通った芝居だった。目新しい趣向のない古くさい芝居である。しかし僕にとっては素晴らしすぎる、と言ってもいいくらいの芝居だった。自分でもちょっと信じられないくらい激しく登場人物に感情移入してしまったのだ。まともに息ができなくなるほど感動してしまい、後半はほとんど嗚咽しながら見ていた。とにかく主人公の母子の生き様に深く感じ入ってしまったのだ。

昭和の初期に小倉にいた在野の郷土史家がモデルである。田上耕作というこの人物はおそらく脳性麻痺だったのだろう、言語不明瞭で歩行も困難な不自由な身体だった。ただし頭脳は明晰で学校の成績はよかった。父親を早く亡くした彼は、母親と二人でつつましく暮らしていた。二人の暮らしを支えていたのは遺産として母親が相続した五軒の家作からの家賃収入だった。書物を読むのが好きな耕作は、地元の名士の書庫に出入りするうちに、森鴎外が小倉滞在していた3年間に書かれていた日記が散逸していることを知る。鴎外の小倉滞在についての痕跡は、彼が幼いころから親しんだごく数編の短編小説、エッセイのかたちでしか知ることはできない。耕作はごくわずかな手がかりを頼りに、当時鴎外と関わりのあった人間を捜し出し、話しを聞いたり、彼らが持っている事物を頼りに、鴎外の失われた小倉日記を再現することを思い立った。すでに鴎外の小倉滞在から数十年が経過していたため、この作業は難航を極めた。小倉日記の空白を埋めるこの作業は耕作のライフワークとなった。

しかし取材に訪問したものの、その言語障害、身体障害ゆえに嘲笑され、追い返されるような屈辱を受け、深く傷つくことあった。「こんなことをやっていったい何の意味があるのだろう」と自問することもたびたびだった。母は身体の不自由な息子が生き甲斐を見つけたことを喜んだ。そして息子の調査に献身的に協力し、母子の二人三脚でこつこつとゆっくりと資料の収集は続けられた。戦後になると一家の経済状況は一気に困窮した。家作を売り払い、何とか堪え忍ぶ。耕作の身体の状態も悪化し、ほとんど寝たきりの状態になってしまった。母子が長年かかって、命を削るようにして集め、整理した鴎外の小倉滞在の資料はかなりの量になっていた。しかし耕作にはそれらをまとまった研究として発表する体力は残っていなかった。貧窮と病の苦しみのなか、最後に母に「ありがとう」と言い残し、耕作は息をひきとった。
耕作の死後しばらくして、それまで散逸していた鴎外の小倉滞在日記が東京で発見された。そこには耕作が探し、集め歩いた鴎外の小倉生活が克明に記録されていた。

埋めるべきマス目がある人生は幸いだ。貧困と病苦のなかで報いられることなく死んだとはいえ、この母子の生涯は決して不幸ではないと思う。

一昨年に中村梅雀が退座して以来、何人かの中堅役者も続けて退座したという話も聞く。創立80周年を目前に前進座は非常に厳しい状況にあることは間違いない。僕は中村梅雀が演じた『髪結新三』を見て以来、前進座の芝居を見に行くようになった。歌舞伎を本格的に見るようになったのも梅雀のこの作品がきっかけである。

劇団で只一人、華を感じさせる役者だった梅雀の退座後、前進座の魅力は大きく減じたけれど、地味ながら真っ直ぐで誠実な前進座の芝居への愛着ゆえに、おそらく衰亡へと急速に向かいつつあるこの劇団の行く末を見続けようと思った。外からは沈みつつある泥舟に見えるこの劇団に残り、もがきながらも公演を続ける役者たちの心意気に感じるところがあったのだ。

梅雀退座後、劇団内部では大きな動揺があったはずであるが、芝居は崩れてはいない。芝居の質、演技の緊張感は相変わらず維持されている。
地味な役者が多いが、みな恐ろしく上手い。そして演技が熱い。今日の芝居で主人公を演じた柳生啓介は、韓国映画『オアシス』の女優の鬼気迫る演技を彷彿させるものだった。母親役を演じた北澤知奈美の慈愛に満ちた表情のやわらかさ、凛とした強さも印象的であるし、叔母役の浜名実貴のおばさんぶりの達者さ、表現の細やかさには感嘆ものだ。そして若い女優、森愛美の愛らしさも格別だった。