閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

わたしたちは無傷な別人であるのか?

チェルフィッチュ
http://chelfitsch.net/

  • 作・演出:岡田利規
  • 出演:山縣太一 松村翔子 安藤真理 青柳いづみ 武田力 矢沢誠 佐々木幸子
  • 劇場:横浜 STスポット横浜
  • 評価:☆☆☆☆
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チェルフィッチュの芝居にはどこか自分が観客として立ち会うことが拒否されているような居心地の悪さを私は感じる。そこに踏み込もうとすると「おっさん、およびじゃないよ」と冷たく追い返されてしまうような独特の「おしゃれ感」があって、それがちょっと苦手なのだ。しかしそんな居心地の悪さかかわらずチェルフィッチュの作品は観た後にその作品について語りたい欲求を常に生み出す。おそるおそる劇場に足を踏み入れ、片隅からチェルフィッチュの世界をそっとのぞき見る。

静かな芝居だった。台詞の量は通常の芝居の1/4か1/5ほどしかないだろう。これまでのチェルフィッチュの芝居と比べても、それよりもさらに少ない。部分的に役柄を演じながらも、観客にこれから舞台上で行われる行為、行われている行為を説明するというスタイルはこれまで通りだが、間、空白が大きい芝居だ。同じ場面をヴァリエーションを加えて何度か繰り返したり、ゆっくりとスローテンポで再現したり。役者の動きもこれまでのチェルフィッチュの芝居に比べると重く、ゆっくりとしている。神経質に痙攣しているのではなくて、ずるずると重い倦怠感にひきずりこまれるような動きだ。一つの語りが終わるたびに空白をとり、その台詞の意味の考察を観客にその都度投げかけているようにも感じられた。
語りは極力中立的なトーンで行われる。役者たちは感情を交えることなく、淡々と語る。その語りの単調さと台詞の間の沈黙に、しばしば落ちてしまった。しかし自分には合わない、退屈な作品とうち捨てることはできないような重い手ごたえを感じる作品でもあった。

建築中の高層マンションへの引っ越しを考えている若い夫婦(子供はいない)と彼らの家を休日に訪問する会社の同僚(夫婦の妻と同じ会社に勤めているが、夫とは面識がない)の三人が主要な登場人物だ。この三人を七人の役者が入れ替わり立ち替わり演じる。チェルフィッチュの役者たちは、成熟して「大人」としてのスタイルを受け取ることを頑なに拒否しているかのような幼さ、生硬さを持っている。外国語のテクストをゆっくりと丁寧に訳しながら精読するかのように、彼らは自分たちが観察し、感じた日常のなかの違和感、とまどいを執拗に言語化していく。
 
報告される事柄とそれを観察し報告する「私」の間には、微かであるが決定的な乖離が存在する。時代、国を超え、ある特定の世代が抱きうる普遍的な不安定感、フラストレーションをこの作品は的確に表現している。サルトルの「吐き気」、カミュの「異邦人」をちょっと連想した。