閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

町人貴族 Le Bourgeois Gentilhomme

Le Poême Harmonique
http://www.chateauversaillesspectacles.fr/spectacle.php?spe=24

  • 作:モリエールリュリ Molière / Jean Baptiste Lully
  • 芸術監督:ヴァンサン・デュメトル Vincent Dumestre
  • 演出:バンジャマン・ラザール Benjamin Lazar
  • 振付:セシル・ルサ Cécile Roussaat
  • 美術:アドリーヌ・カロン Adeline Caron
  • 衣裳:アラン・ブランショ Alain Blanhot
  • 照明:クリストフ・ナイエ Christophe Naillet
  • 出演:Olivier Martin Salvan, Nicolas Vial, Louise Moaty, Benjamin Lazar, Anne Guersande Ledoux, Lorenzo Charoy ; Arnaud Marzorati, Claire-Lefilliâtre, François-Nicolas Geslot
  • 劇場:ベルサイユ宮殿 オペラ・ロワイヤル Château de Versailles Opéra Royal
  • チケット代:160 euro(FNACスペクタクルで購入)
  • 評価:☆☆☆☆☆☆
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お腹はごろごろだし、いやな咳はゴホゴホ出るし、早く日本に帰りたい。とか思いながらパリからRERで30分ほどのところにあるヴェルサイユに行ってきた。ヴェルサイユ宮殿の端に1780年、フランス革命直前に完成した王室オペラ座がある。そこで17世紀フランスを代表する劇作家モリエールと同じ時代のフランスを代表する作曲家であるリュリによるコメディ・バレ、『町人貴族』の上演があった。

王のオペラ座は600人ほどの観客収容能力しかない。オペラ・ガルニエの1/3ほどの大きさのこじんまりしたオペラ劇場だ。もとより王族・貴族専門の劇場ゆえに、木製の内装の美しさは、19世紀後半の建築であるオペラ・ガルニエの壮麗でごてごてした装飾とは別種の極上の洗練が感じられる。20年ぐらい前にはじめてガイド付きツアーでこの劇場を知ったとき、できればいつかここでバロック・オペラ、ラモーなどを観てみたいものだと思っていた。

今回の滞在中、モリエールリュリのコメディ・バレの代表作、『町人喜劇』が上演されるのを知って喜んだのだけれど、チケットを買うのはちょっと躊躇した。この公演は週末に四回しかないのだけれど、チケット代が非常に高いのだ。売っていた席は160ユーロだった。客席が少ないので仕方ない面もあるのだが、私にはいくらなんでも不相応な価格だ。散々

迷ったのだけれど王のオペラ座でコメディ・バレを観る機会なんてもう二度とないかもしれないと思い、思い切って購入してしまった。

宮殿を見学しておこうと思い早めに行ったのだけれど、けっこうな混雑ぶりで入場券売り場は長蛇の列。だいぶ前に夏にヴェルサイユに行ったときも炎天下長蛇の列でうんざりしたのだけれど、永遠にこれは改善されないのかもしれない。今日はしかも寒かった。寒さのせいかお腹がまたぐるぐる言い出した。宮殿見学のチケットを買って宮殿を一回りしたあと、劇場に向かったのだけれど、お腹の調子がひどい。昨夜同様、どうしようかかなり迷ったのだが、下痢止め薬を飲んで、劇場内に入った。上演時間は第一幕が2時間弱、休憩30分を挟んで、第二幕がまた1時間45分という超長時間スペクタクルだとわかり、くらくらした。耐えられるだろうか。第一幕の前半はお腹の調子が気になって、脂汗を流しながらの苦しい観劇になってしまった。


スペクタクルの内容についてはまだ何も書いていない。うーん、高額のチケット代を払い、かつ苦しい思いをして観る甲斐は十二分にあった素晴らしい舞台だったのだ。あまりのすばらしさにお腹の調子も気にならなくなってしまうほど。日本では絶対味わえない、まさにヴェルサイユ宮殿の王のオペラ座でこそ味わうことのできた恐ろしく贅沢な夢幻を堪能した。私がこれまで見たあらゆるスペクタクルのなかで最も印象深い舞台の一つだ。一生のうちそうそう味わう機会がないような極上の感興を私はこの舞台で味わうことができたのだ。

劇場内客席に入ると、場内の照明は抑えられていて薄暗い。プログラムの文字がかろうじて読める程度の明るさだ。
コメディ・バレは喜劇と舞踊と音楽の複合スペクタクルでモリエールリュリという時代を代表する天才の共同制作によって誕生した。その後にフランス・オペラにも大きな影響を残し、19世紀前半までフランス・オペラに必ず舞踊の場面が含まれていたのは、このコメディ・バレの伝統の名残である。バレがスペクタクルに含まれたのは、ルイ14世が王自身も踊り手であるバレ愛好家だったからだ。

今回の公演では音楽演奏はもちろん17世紀後半の楽器の複製である古楽器が用いられる。モリエールリュリのコメディ・バレは、音楽付きで上演されることはしばしばあるのだが、その際に古楽器を使うのは当然の約束事だ。しかし今回の上演の凄いところは、古楽器を使うだけでなく、舞踊、衣装、照明、台詞の発音から役者の演技まであらゆる部分について、できるかぎり17世紀後半のオリジナルのスペクタクルの姿を再現しようとした点である。今日の『町人貴族』の上演では、音楽=舞踊付きの場合でも、芝居の後に続く歌と踊りが続くパート(芝居の内容とはまったく関わりがない)は省略されるのが普通だが、今回の公演ではこの部分も再現されている。現代の美学から言うと明らかに不要なパートである。うんざりするぐらい冗長だ。しかし本上演ではその冗長さも含め、17世紀後半のフランス絶対王政の絶頂期のスペクタクルの世界を現代に復元しようとする試みだった。

役者は17世紀風に発音する。moiは「モエ」だし、roiは「ロエ」、巻き舌のrや語末の無音のe、現代仏語では省略される語末子音もメロディーを歌うときのようにしっかりと響かせる。台詞は常に観客に向かって発せられる。役者は正面を向いて台詞を話す。その仕草は優雅で滑稽で美しい。まるで歌舞伎で見得を切っているようでもある。上方からのスポットライトが役者を照らすことはない。オレンジ色、ろうそくの炎の色のフットライトが薄暗い舞台上の役者をぼんやりと下から照らし出す。やわらかい明暗のコントラストが作り出す舞台画の美しさは、17世紀のフランスの画家、ジョルジュ・ラトゥールの絵画を連想させる。

歴史的考証に基づくこうした試みは学究的・実験的ではあるけれど、無味乾燥なものになってしまいがちだ。また現代の舞台芸術家の大半は過去の芸術美学というものをあまり信頼していない。「歴史的・学究的」公演と銘打っている公演でも、個人的・現代的な趣味を無粋に混入させてしまうことが多い。そうでなくては現代人の観客に受け入れられる興行としては成立しないだろうし、舞台表現というのはとりわけそうした個人的創意を混入させるという欲望を抑えることは難しいものなのだろうだと私は思っていた。

しかしこの公演は違った。演出家、指揮者、舞踊家、役者、美術家という異なる属性の人間たちが、総合的スペクタクルとしての17世紀コメディ・バレの世界を可能なかぎり忠実な再現するために、総力をあげきわめて密度の高い相互協力を行っている。もちろん17世紀コメディ・バレを忠実に再現するといっても、現代と当時ではいろいろ条件は異なるわけで、まったく同じものは提示できるわけがない。しかしヴェルサイユの「王のオペラ座」という最高の場を上演の場とすることで、17世紀のスペクタクル美学が提示する舞台の夢の豊穣さを知らしめる斬新で魅力的な公演を作り出すことに彼らは成功したのだ。あの豊かさは本当に衝撃的だった。タイムマシンにのって魅惑的な時間旅行を楽しんだかのような体験だ。

これはまさにあそこでしか観て、感じ取ることができない素晴らしい観劇体験だった。こういう舞台を観たときは、カーテンコールのときのフランス人観客の熱狂的な反応が最高に気持ちがいい。薄暗い劇場客席で、ブラヴォのかけ声とともに、力強い拍手が長く長く続いた。