閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

巨大なるブッツバッハ村 Riesenbutzbach : A Permanent Colony

巨大なるブッツバッハ村――ある永続のコロニー | フェスティバル/トーキョー10 FESTIVAL/TOKYO トーキョー発、舞台芸術の祭典

  • 作:クリストフ・マルターラー、アンナ・フィーブロック
  • 演出:クリストフ・マルターラー Christoph Marthaler
  • 舞台美術:アンナ・フィーブロック Anna Viebrock
  • 衣装:サラ・シテック
  • 音楽監督:クリストフ・ホムベルガー
  • 照明デザイン:フェーニックス(アンドレアス・ホファー)
  • メイク:クリスチャン・シリング
  • 出演:マルク・ボドナール/迷ったフランス人/ラファエル・クラーマ/警備員/ベンディックス・デットレフセン/ピアニスト/カーリン・プファンマーター/過去の探索者/オリヴィア・グリゴッリ/ませた少女/クリストフ・ホムベルガー/合唱支配者/ウエリ・イエッギ/電話中の心配している人/ユルク・キーンベルガー/子供らしい男性・電子オルガン奏者/カトヤ・コルム/ネイル・サロンの営業主/ベルンハード・ランダウ/銀行員/バルバラ・ニュッセ/幸せの探索者/サシャ・ラウ/悪意の少女/ラルス・ルードルフ/未来の重役/クレメンス・シーンクネッヒト/理性的な男性・電子オルガン奏者/ベッティーナシュトゥッキ/消費の探索者
  • 音楽:モンテヴェルディ、バッハ、ベートーヴェンシューベルト、、シューマンマーラー、サティ、ベルク、ウィーンの流行歌、ポピュラー音楽
  • テキスト:シュテファニー・カープ (エルフリーデ・ゲルストルによる「五つの詩:ich bin so frei, warum bin ich ich, anrufung der grossen putze, vögelfrei - eine spruchsammlung, k. wünscht sich eine neue enzyklopädie, from "neue wiener mischung" © Literaturverlag Droschl Graz-Vienna 2001、セネカ:『幸福な人生について』(ドイツ語訳1978年、courtesy of Alfred Körner Verlag)及びイマヌエル・カント:『定言命法』より引用を含む。)
  • 翻訳・字幕:萩原ヴァレントウィッツ健
  • 上演時間:2時間15分
  • 劇場:池袋 東京芸術劇場中ホール
  • 評価:☆☆☆☆★
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ドイツ現代演劇が専門の新野先生の講演や文章を通して、ドイツ語圏現代演劇の代表的演出家であるマルターラーのことは読み聞きしていた。映像で上演の一部を見たこともあり、今回のF/Tでは最も注目していた演目だった。とにかくここ数年の間に見たり、聞いたりしたドイツ現代演劇はことごとく尖った表現の前衛でかっこいい。先々週、F/Tのテアトロテークで見たマルターラーの『そのヨーロッパ人をやっつけろ』の舞台映像もとても刺激的で面白かったので、『巨大なるブッツバッハ村』にも大いに期待していた。チラシの写真では、太った女性が足を組み、いかにも不機嫌な表情で座っている。いかにも面白そうな芝居を予感させる。

twitter上ではいくつか否定的な感想を目にしたが、私はこの『巨大なるブッツバッハ村』もとても好きな作品だ。挑発的で政治的で、しかも皮肉なユーモアに満ちているのは先々週見た『そのヨーロッパ人をやっつけろ』同様だ。一貫した物語がなく、演者が歌を歌い、楽器を演奏するのも。ルターラーはオペラの演出もいくつか手がけていて高い評価を得ているようだが、『巨大なるブッツバッハ村─ある永続のコロニー』はオペラが滅びた時代のオペラ、音楽劇のあり方を示している。倉庫に残っていたガラクタをざーっとぶちまけて、とりあえず目についた材料を使ってオペラらしきものを組み立ててみたという感じだ。

舞台美術が極めて印象的でこちらの想像力を刺激する独創に満ちている。ほぼ立方体の形をした空間が舞台全体を覆い尽くし、その内側に部屋らしきものがある。天井までの高さは十メートルほど。ほぼ十メートル四方のその部屋は一見無機的で整然としているように思えるが、よく見るといろいろな要素が複合的に一つの空間に詰め込まれている。3つのガレージらしきものがある。中央が道路みたいなもので分断されていて、屋外にある巨大な外灯が部屋の壁に設置されている。居間らしき空間があったり、事務所っぽいところもあるし、ラジオのスタジオっぽいところが背景にある。二階にあがる階段やホテルの受付のカウンターのような場所も。登場人物たちはその中でまるでかみ合わない会話をしたり、楽器を演奏したり、歌を歌ったり。音楽演奏の技術の高さは相当なものだ。ただ合唱をやってもそれは一体感を伴う熱狂に至ることは決してなく、出演者の表情は常に冷めている。彼らは同じ場を共有しながらもバラバラに生きる孤独な存在だ。フランス語しか話さない子供(といってもひげもじゃの中年男)とドイツ語しか解さないそのその老母のあいだのディスコミュニケーションが、彼らの関係をとりわけ象徴的に示すものになっていく。

皮肉でかつ馬鹿馬鹿しいギャグに彩られた殺伐としたコミュニケーションの不毛の状況が10分ほどの場面で提示され、次々と脈絡なくパッチワークのようにつぎはぎされる。最後は3つのガレージのなかで三組のグループが歌う合唱の場面が溶暗して終わる。警備員がガレージの扉をしめて回った後も、その隙間から明かりがもれ、合唱の声がかすかに響き続ける。核戦争のあとの廃墟のなかで、シェルターの中でひっそりと生き延びた人々が歌う歌のように思えた。