鈴木忠志・SCOT Suzuki Tadashi・Suzuki Company of Toga
この秋に古典戯曲を読む会でエウリピデスの『バッカイ(バッコスの信女たち)』を精読したばかり。
鈴木忠志版の『デュオニソス(←バッコスの別名)』は3年前に見ているはずなのだが、今回見直しても全く覚えていなかった。ほとんど寝ていたのかもしれない。今回はちゃんと起きていた。
鈴木版は話の筋こそおおむねエウリピデスの『バッカイ』を踏襲しているが、台詞などはほとんど鈴木の創作だと思う。ディオニュソスは声だけの出演でその声は白石加代子によって雰囲気たっぷりに語られる。原作には登場しないデュオニソスの僧侶(日本の仏教の僧侶の姿をしている)5 名がデュオニソスの分身としてペンテウスと会話する。バッカイ(バッコスの信女たち)は神道の巫女風の着物を身につけ、長大なすそをひきずりつつときおり、雅楽調音楽の太鼓の音に合わせてバネにはじかれるような痙攣的な動きをして「見得」を切る。
この芝居を観て私は目が覚めた感じがした。なるほど鈴木忠志の演出は照明の使い方がとても洗練されていて、息を呑むような美しさの活人画はいくつもあるけれど、あの表現の仰々しさとあざとさ、音楽性を強調した台詞の朗唱法、露骨で強引な日本趣味の注入は私の好みではないことにようやく気づいたのだ。
あの舞台の光景はグロテスクかつ滑稽なものであるが、それが実に生真面目に表現され、受容されている。
鈴木演出に見られるほとんどパロディのレベルだと私は感じるオリエンタリズム、ジャポニスムの表現様式につっこみを入れることが許されず、深遠な作品解釈と役者の特異な身体表現との結びつきへの同意を求められるのであれば、それはほとんど宗教への入信を迫られているみたいなものだ。国際的な評価を得るには、西欧人種が持つエクゾチスムに訴えるというのは常套手段の一つだとは思うし、それを全否定するつもりはないのだけれど。確かに視覚的表現の美しさと表現のインパクトは強烈なものなのだが、あれは本当にわれわれに向けて作られた作品なのだろうか?
「バッカイ」という作品そのものがSCOTの在り方の隠喩のように私には思えた。私はその信仰の外側にいることをはっきりと感じた公演だった。