閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

モリー・スウィーニー

  • 作:ブライアン・フリール
  • 訳・演出:谷賢一(DULL-COLORED POP)
  • 美術:尼川ゆら
  • 照明:斎藤茂雄
  • 音響:小笠原康雅
  • 衣裳:前田文子
  • 劇場:シアタートラム
  • 上演時間:2時間30分(休憩15分)
  • 評価:☆☆☆☆
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谷賢一の演出作品を見るのはこの公演が初めてだった。まだ29歳だという。現代のアイルランドを代表する劇作家一人であるブライアン・フリールの戯曲の上演ということで興味を持った。

登場人物が三人の芝居だが、台詞のほとんどがモノローグで構成された戯曲だった。オリジナルは完全にモノローグだけで構成された作品だったそうだが、演出家が一部改変し、後半のテクストの一部をダイアローグに書き換えている。
モリー・スウィーニーはヒロインの名前で、彼女は40代盲目の女性である。彼女は盲目という障害はあったけれど、嗅覚や触覚、聴覚などがその障害を補った。高い知性の持ち主だった彼女は定職に就き、仲間にも恵まれた充実した日々を送っていた。長く独身だったが、40を過ぎてからフランクに一目惚れされ、彼と結婚した。このフランクはモリーとは対照的に実に騒がしい男だ。ずっとハイテンションの躁状態。気になったことは図書館で徹底的に調べるという習慣を持っている。モリーとの結婚後、図書館で本を読みあさっていた彼はモリーの目が手術によって見えるようになる可能性があると考えるようになる。モリーに手術を受けることを彼は薦め、モリーは名眼科医ライスの手術を受けることになった。手術は成功し、モリーの目は見えるようになった。しかし喜びの日々はごくわずかしか続かなかった。それまでずっと盲目だったモリーには、中年をすぎて突然膨大な視覚情報を受け入れることが多大な負担となっていたのだ。彼女の脳は視覚からの情報を受け入れることを拒否し、彼女の精神は変調をきたす。眼科医ライスと夫フランクは彼女の苦悩を支えきることができない。何ヶ月か苦しみ抜いた後で彼女は死んでしまった。手術の成功の場面で終わる前半の幸福感に満ちた展開と後半の重くて悲劇的な展開の対比がとても印象的だ。

目が見えなくても十分に幸せであったのに、なまじ目が見えるようになったために起こった悲劇である。しかし死ぬ前の彼女の精神はこの残酷な人生のパラドックスを端然と受けとめている。最後の彼女のモノローグは暗闇のなかで行われる。その暗闇の中を彼女は自由に歩き回る。舞台中をそして客席の間を。彼女は再び自由を得た。しかしその最後の言葉に自嘲はない。ただ潔く、爽やかに運命を受け入れている。南果歩の澄んだ声が暗闇のなかに響く。悲痛で美しい場だった。

モノローグ劇ということで、登場人物はそれぞれかなり長大なモノローグを客席に向かって語りかける。フランク役の小林顕作はほとんど芝居の枠組みを壊しかねないような自由さで観客に語りかけ、観客からの反応を受けとめていた。私が見にいった回は観客のなかに小林に話しかける人までいたのだ。それにもちゃんと答える。即興性、演芸性が全面に出た、そして小林の「素」ののりが混入されたようにもみえる彼のハチャメチャさについては好き嫌いが分かれるだろう。ライス役の相島一之の芝居も独特の作り事めいた臭みをむしろ強調した感じのものだった。
例えば鵜山仁あたりが演出すればもっと原作に寄り添った端正な趣の、緊張感ある静かな芝居になっていたに違いない。
谷賢一は小林に開演直前に「芝居をどんどん壊して下さい」と言ったそうだ。小林ののりは実際に芝居内世界からかなりはみ出したものだった。正直最初のうちは私はぎょっとしたのだけれど、後半になって、やはり演出家のアイディアでディアローグ形式に一部テクストが置き換えられた場面など段々悲壮で重苦しくなっていくにつれて、前半の小林のハチャメチャさが逆に優れた対比的効果を生み出していたようにも思った。

よくできた教訓的寓意劇だ。人はときに望みすぎるが故に不幸になってしまう。しかしモリーと彼女のそばにいた二人の男たちの望みは、欲深きものだとして非難されるべきものだろうか。我々の欲望は完全に充足されることは決してない。どんな状態にあってもさらにさらにと求めて、時に破滅に至ってしまうというのは、人間の生につきまとう業の一つなのだ。