閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ヴェニスの商人?〜火焔太鼓の真実〜

下町ダニーローズ
officeダニーローズ 立川志らく

立川志らくが主宰する劇団、下町ダニーローズによる演劇らくごの公演、『ヴェニスの商人?』〜火炎太鼓の真実〜を、池袋シアターグリーンに観に行った。第一部が志らくによる古典落語「火焔太鼓」、第二部がその後日談としてシェイクスピアの『ヴェニスの商人』を土台にした演劇作品。

5000円という小劇場公演としては高額なチケット代がネックになったのか、前売りの売れ行きはそれほどよくなかったようだ。志らくがツイッターで狂ったように宣伝していた。サイン会やハグなどのファン・サービスもほぼ毎公演で行う力の入れよう。ツイッターでの感想もRTでがんがん飛ばしていて、その甲斐あってか初日の公演後は予約で満席になったようである。

正直、落語家志らくのファンを目当てにした際物かもしれないなと思っていた。つまらないものにはならないだろうとは思っていたけれど、予想していたよりはるかに面白い公演だった。大いに満足する。芝居の脚本家としての志らくもやはり相当な才能の持ち主だった。アラン・エイクボーンの戯曲のアイディアを取り入れたと劇中の台詞で明かしていたが、言われてみればなるほどイギリスのウェルメイドのドタバタ笑劇の雰囲気もある芝居だった。

前半30分は志らくによる「火焔太鼓」の口演。隅々まで神経の行き届いた繊細な語りで、やはり引き込まれる。もちろんこの落語一席だけで、十二分に完成された演劇的世界を堪能できる。暗転し、高座が取り払われる。休憩は入らず、そのまま第二部の演劇パートに移る。演劇落語の独自性を志らくは散々強調していたのだが、実際に見るまでは円朝の作品など落語原作の芝居は多いし、歌舞伎では芝居のなかで落語的な語りの要素は取り入れられている。前進座の公演では、実際に落語の口演と芝居を組み合わせたものもあった。志らくの演劇らくごはどのあたりに新味があるのだろうか、と思っていた。「火焔太鼓」と「ヴェニスの商人」という接点が全くない二つの世界をどう繋げていったのか。見てみるとなるほどと感心してしまう。

二つの古典が時空を超えて結びつき、志らくの奔放な想像力によって軽快でモダンな舞台表現として現れる。多彩でアクロバチックな仕掛けの数々に感心する。戯曲はとてもよくできている。サスペンスが巧みに配置され、展開にたるみがない。役者それぞれの持ち味がよく引き出された配役になっていた。ミッキー・カーチスの役柄の超然とした有様、コック役を演じたボケ役、原武昭彦の微妙な間をうまく使ったギャグがとてもいい。柿喰う客の七味まゆ味も劇世界に溶け込みつつ、しっかりその存在感を主張していた。
しかし役者陣のなかでとりわけ印象的だったのは、ヒロインを演じた弥香である。モデル出身の彼女の美しさ、存在感は圧倒的だ。舞台に立っているだけで視線が吸い寄せられてしまうような驚異的な可愛らしさ。端正な美人というより、犬をどっかで連想させてしまうようなちょっと個性的な顔立ちでもあるのだが。私はとても好きな顔だ。彼女の姿を見るだけでも芝居を観に行った価値があった。

全般的な芝居の雰囲気はよい意味でなB級娯楽作の気安さ、ゆるやかを感じた。

唯一のひっかかったのは役者としての志らくの存在かもしれない。この公演は志らくが出演し、演出しないと興行として成立しないのだが、第二部の演劇の部では志らくの芝居が他の役者のリズムとは違う感じがして、微妙に浮いているように感じられた。演技が下手なわけではないが、落語家志らくとしての存在感が強すぎるのだ。また最初に落語をやってから、次に芝居だと、芝居に入ったときに流れがぎごちなく、若干不自由になってしまったような感じもした。語りだと緩急は演じて手である志らくの思いのままだが、芝居だと彼は一役者となり、他の役者とのアンサンブルが必要になってくる。芝居の部分だけ観ると展開のテンポがよくて、スムーズに流れているのだけど、落語から芝居に入った最初の方は、ちょっとぎごちなく、窮屈になってしまったように感じられたのだ。ただしこれは芝居が進むにつれて段々気にならなくなってきた。役者としての志らくの魅力は他の役者ほどには効果的に利用されていなかったように私は感じた。

演劇史をグローバルな観点で見ると、語りのジャンルと演劇のジャンルは両立しないことが多く、語りものが衰退している過程で徐々に演劇ジャンルが台頭し、演劇ジャンルが確立すると語りのジャンルは滅びてしまうことが多いらしい。アフリカやアラブでは比較的最近になってこういう現象が確認されたそうだ。ヨーロッパでは13世紀から14世紀が語りものから演劇への転換点になっている。日本の場合は例外とされて、複数のスペクタクルのスタイルが並行して続いているのは世界演劇史のなかでは珍しいそうだ。
しかし最近になってまた語りの可能性が演劇人のなかで再び注目されつつあるようにも感じられる。これはヨーロッパの演劇においても。語りものと演劇ジャンルのスリリングな交錯によって、新たな舞台表現の可能性を探す演劇人が増えているような気がするのだ。志らくの演劇落語もこのような流れのなかに位置づけることができるだろうか。

長尺、5000円のチケット代だったが、それに見合う充実感のある公演だった。娯楽性が高いのでもっと大きな劇場での公演も可能だと思う。再演があれば、今度は家族全員を連れて行きたい。ふだん演劇を見ない落語ファンの人はこの芝居をどう見たのだろうか?