音と言葉と身体の景色
[http://web.me.com/kyoko.kogi/07/Top.html:title=<音と言葉と身体の景色>
- 構成・演出:身体の景色
- 音楽:松田幹
- 出演:久保庭尚子、境宏子(リュカ)、西田夏奈子、福寿奈央(青組)、中島美紀(ポカリン記憶舎)、岡野暢
- 会場:新井薬師 Special Colors
- 評価:☆★
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『エレクトラ』に基づく自由な翻案。
身体の景色は二回目。知人が出演していたので観に行った。このユニットは三月の舞台を見ていたのでどんなものであるかは大体予想していた。果たして予想通りの舞台だった。正直なところ、言葉と物語に依拠した表現を選択しながら、枠組として利用した古典のテクストにまともに向き合う気はないと開き直られてしまっては、何も言えない。私には受け入れがたい態度だ。それでは何でワザワザ古典作品を選ぶの?と聞いてみたい気がする。あるいは言語に依拠しない身体表現を目指せばいいのにとも思う。ダンスなり、舞踏なり、あるいはアクロバットなどのサーカス芸、さらには新体操などの体育競技、いくらでもある。
古典のテクストという他者と格闘するのは大変しんどいことのはずである。その言葉の牢獄を身体表現で押さえ込むにせよ、テクストとまともに対決することを避けていては話にならない。身体の景色の表現は、そのキッチュな部分も含め鈴木忠志のエピゴーネンだが(ちなみに私は必ずしも鈴木忠志の表現が好きではありません)、鈴木はあえて「ことばの演劇」をその題材として選び、それを独特の身体表現で変換するに
あたって、言葉に対抗するために相当の格闘をしていることが舞台表現から伝わってくるような気がする。身体の表現にはそうしたテクストに対する真摯な姿勢が感じられなかった。
そもそも表現から「エレクトラ」をテクストとして選んだ必然性を私はまったく感じることはできなかった。演目としてどの戯曲を選ぶかというのは
非常に重要な問題ではないか?。しかしながら『リア王』だろうが『桜の園』だろうが『人形の家』だろうが、あの表現にとっては、あるいは演出家にとってはたいした問題でないように思た。有名な作品だと客が興味をもってくれやすいから(もちろんこれは重要なことだが)ぐらいの動機で、既存の戯曲から有名どころを選んできている。
自己の表現と他者である戯曲とのすりあわせを十分に行う気がないにもかかわらず、有名戯曲にのっかって「身体の感覚の優位」を唱えたところで、それは空々しい。むしろそれなら既存戯曲に依拠しない公演のほうがよっぽど潔い。
私はあの世界に入って楽しむことはできなかった。