閑人手帖

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松本尚久『落語の聴き方 楽しみ方』

落語の聴き方 楽しみ方 (ちくまプリマー新書)

落語の聴き方 楽しみ方 (ちくまプリマー新書)

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ちくまプリマー新書というと、高校生ぐらいの若者をターゲットにした新書というイメージがあり、事実、そうした層を想定したと思われるタイトルが数多く並んでいる。『落語の聴き方 楽しみ方』という表題の本書もまた、口語調のです・ます体で記述され、落語の初心者でも理解できるような配慮がされている。しかしその平易な語り口にも関わらず、その内容は落語というジャンルの本質にせまる本格的な考察になっている。

この本では落語の特徴を例示するだけでなく、そうした特徴がどういう効果を落語にもたらしているかについても丁寧に説明されている。 著者はさまざまな用例を使って落語の特色を説明する。その多様な用例は、落語からとられたものばかりではない。いわゆる演劇などの落語と隣接する舞台芸術ジャンルの作品、さらにはマンガ、絵画、映画、小説などの他のジャンルの芸術表現を説明のための例として採用し、対比させることで、著者は落語特有の性質を鮮やかに明瞭に提示しているのだ。落語という閉じた世界のなかだけで落語を論じるのではなく、広く上演芸術、あるいは芸術一般という枠組みのなかで(それも平易な表現を使って)、落語の本質を語ろうとしているのが本書の秀逸なところだと私は思う。落語論を通して、普遍的な演劇論、芸術論まで広がるようなパースペクティブ、ダイナミックな視点を感じることができるのである。落語の分析を通して、さまざまな芸術表現の特徴も明らかになっているので、 落語ファンだけでなく、広く舞台芸術に関心のある人ならば、読めばいろいろな発見があると思う。

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本書は9章で構成されている。この中で繰り返し強調される落語(とりわけ滑稽話)の本質は、その非歴史性(現在性)だろう。以下、自己のための覚書として、九章の内容をまとめておく。

「第一章 落語の視点」では、落語の喜劇性の特徴について述べられている。落語は日常的な主題を喜劇的な視点であつかう。落語の登場人物たちは自分自身の置かれた状況を見失い、愚かで哀れで、それゆえに滑稽でもある姿をさらしている。聴衆は落語の登場人物を笑いつつも、その姿に自分自身の姿を見ずにはいられない。落語の笑いは常に自己を客観的に見る視点を聴衆に要求する性質を持っている。

「第二章 二人目の人」では、落語の主人公の多くが、昔話では主人公の引き立て役にあたるような〈二人目の人物〉であることを、落語独自の特徴として著者は取り上げている。落語ではまともで善良な人間が噺の外側に置かれ、そうした人物とは対照的な愚かな人物を噺の中心に据えることで、観客を噺の世界の中へと誘い込む。笑いを成立させるのに必要となる規範を噺のなかでは語らないことが、落語(この場合滑稽噺)の様式となっていると著者は指摘する。規範となるものを語らないという不安定さは、落語の笑いに逆説的なニュアンスを与える。結果的に落語の笑いは、本質的にあらゆる物事を相対化する醒めた視点によってもたらされるものであり、この性格は落語に近代的な批評性をもたらす。落語のなかでは語られない規範的世界が、落語の笑いによってしばしば見事に批評されていることを著者はいくつかの例とともに示している。

「第三章 名のある人と名のない人」では、落語の登場人物の無名性、類型性についての分析に充てられている。落語に名のある人物が出てこないのは、落語が〈歴史〉から切り離された話であることに由来する。この特徴の解説のために、著者は〈歴史〉と関わりをもつドラマ、〈物語〉についての説明から始める。著者によれば「物語」とは、「すでに終わったお噺の、現在における語り直し」である。〈物語〉の世界は過去の完結した世界であり、その結末を〈歴史〉として知っている観客は、「超越的な視点」から俯瞰的に登場人物たちの意志と彼らを待ち受ける運命との葛藤を眺める。この葛藤がドラマを生み出す。
英語のhistoryと同語源のフランス語histoireが〈物語〉と〈歴史〉の両方の意味を持つ理由が、著者の物語論と重なるところがあるように思えることが私には興味深かった。しかし無名の人物たちによって展開する落語には、歴史がなく、したがってそこに物語も存在しない。そこで語られるのは常に先の読めない現在の状況なのだ。落語ではストーリーはどこにも収束されない。落語は物語性、歴史性を選択せずに、現在性を選択したのである。このことは次章で考察の対象となる落語の時間論と関わりを持つ。

「第四章 落語の中に流れる時間」では、まず落語の時間には過去的な要素がないこと、登場人物、とりわけ滑稽話の登場人物が徹底的に現在的であること、そして落語の噺は必ず現在進行形で進んで行くことが確認される。趣味のい

いイラストによって、物語の時間、落語の時間、講談・浪曲の時間、三つのジャンルの時間の流れの性格の違いが見事に図示されている。噺家は落語の現在性のなかに身を置いて登場人物を生かし、観客を落語の噺の現在性のなかへ引き込む技術を持っている。落語は語りのなかで意識的に歴史との関係を断ち切る。昔の出来事を現在の時間のなかで語る落語の話術についての著者の説明に、私はフランス語の半過去の用法とこの時制がもたらすニュアンスを連想した。
この落語の語りに本質的な現在性ゆえに、江戸時代後期に作られた話を口演する場合、それが口演される時代に合わせてその細部に微調整を施すことが必要となってくる。現代まで継承された、いわゆる古典落語には江戸風俗の名残と明治以降の近代の影が混じり合っている。われわれが耳にする古典落語は、近代という時代に改訂され、濾過された落語となっているのである。現代では江戸との距離が遠くなりすぎてしまい、近代に行われていた内容改訂による微調整が難しくなってしまった。現代の落語家は「古典」となった落語を演じながらも、それを現在として提示するという難題をクリアしなくてはならなくなったのである。

「第五章 落語家のしごと」では、落語に必ずつきものの「地の語り」の役割についての考察となっている。十三世紀の旅芸人のジョングルールの語り物芸と同じ世紀に北フランスの都市で生まれた演劇作品の関わりに関心を持っている私は、この章の内容がとりわけ興味深く、刺激的だった。


落語家をはじめとする芸能の語り手たちは、登場人物たちの台詞と、自身のことばである地の語り(現代語で言うナレーション)の二つの性質の異なることばの扱いに習熟していなければならない。さて、登場人物たちの直接話法の世界の外側から登場人物たちの世界の内容について解説をいれるこのナレーションの語り手の主体はいったい誰になるのだろうか? 噺を語っている落語家か、あるいは噺の作者か、あるいは台詞で構築される世界をすべて見通す超越的存在か? 地の語りの主体がこの三つの存在すべてであることを著者は明らかにしていく。地の語りはもちろん落語家自身の声であることには明らかだ。また落語の作者は登場人物を造形し、それらを自在に動かすことができた存在である以上、地の語りは作者の声でもある。ただし落語では口伝の過程で演者が自由に細部を変化させているので、小説やマンガに比べると作者の影響力は限定的である。さらに地の文の語り手は、登場人物を高いところから見下ろす、語りの枠外の超越者でもある。地の文の語りを語る落語家は、聞き手とともに登場人物の現在を生きる存在である以上、その実、超悦者でもあることが聴衆にはっきりと意識されてはまずい。落語家は超悦者として地の文を語りながら、登場人物の現在と過ごすという相反する二つの声を曲芸的に共存させるという技術の持ち主でなければならないのである。


次に著者は、落語と同じく地の文を持つ話芸、講談・義太夫と落語の違いについて述べる。同じ語り芸に属しながら、講談・義太夫では〈書物〉という依拠すべきテクストが存在し、演者はそれを〈読んでいる〉ことを慣習として意識する。書物は物語の内容を保証するものであり、歴史と語り手をつなぐ存在である。講談・義太夫の演者は、〈書物〉に書かれている(とされる)物語世界と観客の仲介者である。
しかし徹底的に現在的な位置にたつ落語では、〈書物〉は存在しない。演者は地の文の語りによって超悦者であるにもかかわらず、その超悦者としての視点は語りのなかではカムフラージュされ、あくまで「いま」「ここ」にいる自分のこととして噺を語らなくてはならないし、そういう幻想を聴衆に与えることができなくてはならないのである。落語の演目の大半で作者の存在がクローズアップされないのは、現在性にこだわる落語の性質ゆえである。

著者は〈地の語り〉を落語家の技巧のなかで最も重要なものと考える。というのも落語において地の語りとは、噺の土台となる視点を提供するからである。落語においては地の語りを土台とすることで、登場人物の会話のやりとりも生まれる。著者によると、会話は語りの変形である。落語家の名人は声色などによって人物の過剰な演技分けを拒む。これは過剰に人物となりきることで、土台である語りの位置が揺らぐことを恐れるためである。もし土台が揺らいでしまうと、噺全体が不安定なものになってしまう危険性があるからだ。完全に演技してしまわずに地の語りの存在によって話者を常に意識させる、その一方で同時に、噺の登場人物として現在進行形の時間のなかで台詞をやりとりさせる、この二つの性質の声のやりとりの絶妙のバランスの上に落語の話芸は成り立っているのである。

「第六章 落語と背景」では表題どおり、作品の背景となる事情について考察することで、東京落語と上方落語の違いを説明している。上方落語が東京落語に比べ、ギャグと脱線を繰り返す演出を好む理由を、上方と東京の社会背景違いに著者は求めている。

「第七章 人情ばなし」。これまでの章では著者は人間生活を喜劇的にとらえた滑稽噺を題材に落語の特徴について語ってきたが、この章では人情ばなしの特徴について述べられる。人情ばなしは滑稽ばなしとは対照的な約束事によって成立している。人情ばなしでは時間は過去に属詞、登場人物は固有名を持つ。こうした人情ばなしが江戸末期から明治にかけて江戸で生まれた理由についても著者は考察する。
この時期は江戸の寄席が興行として安定化しはじめた時期であり、落語の客層が拡大した時期にあたる。人間のさまざまな感情を写実的に描く人情ばなしは、それを味わう文化的コンテクストがより多く必要となる滑稽噺より、多くの人に理解されやすく、感動されやすい。これが江戸で人情ばなしが発達した主な理由である。この時期に現実把握の方法として、落語が滑稽ばなし的な類型的表現から人情ばなし的な写実的表現まで、表現の幅が広がる段階に達していた。近代以降に発達した芸術ジャンルは、類型から写実へと同じような進化の過程を経ている。落語も例外ではなかった。

「第八章 現代の落語」、この章で著者は現代の落語が抱える固有の問題について論及する。落語の台本と演出が現在まで固定化されていないことに著者は、落語という芸能の現代性を見る。能や歌舞伎は台本と演出の固定化が進み、伝統芸能となったため、現代の芸能としての創造力、活力が減退した(もっとも歌舞伎の喜劇的演目では自由に動かせる部分がまだ多く残されている)。ただし著者は歌舞伎の古典化によって残された財産のほうが多かったと考え、この古典化には必ずしも否定的ではない。
さて古典とは何だろうか?著者によると古典とは何らかのルーツ(典拠、本節)を持ち、それをその時代にかたちに語り直したものであると考える。そして古典の鑑賞者は語り直された新作とルーツとしての典拠の双方を視野に入れて鑑賞する。過去と現在の双方を包括した存在が著者の考える古典である。この古典の定義もイラストによって巧みに表現されいる。
現在性のなかにある落語は本説との結び付きが弱く、まれに典拠がある場合でもその存在は隠蔽される。よって落語は構造としては古典となりにくい芸能である。しかし歴史との関係を絶ち現在に生きる落語は、ルーツをもたないがゆえにひどく脆い。語り手である落語家と語られる素材の乖離が決定的に大きくなった現代において、落語のレパートリーを〈古典〉として意識的に保存することに筆者は意義を認めている。つまり明治時代の歌舞伎のように、落語も〈古典化〉を意識しなければならない時代になったと筆者は考える。現代の落語の芸とは、古典落語の世界と現代の間に横たわる時代の乖離をはっきりと意識しつつ、噺の世界に生きる登場人物たちを現在の存在として感じさせるアクロバチックな話芸を要求されていると筆者は言う。


「終章 『景清』と『心眼』」。盲人を主人公とする二つの作品の分析を通し、落語の本質を語ることで、筆者はこのユニークな落語論を締め括る。「景清」と「心眼」はそのどちらも盲人が神社に願掛けに行くことで目が開く噺である。説教だとこの手の噺は偉大な神、仏の功徳を示す典型的な奇蹟譚となるような噺だが、落語には人間を超えた超越した存在への確信がない。上方落語の「景清」では、観音様は平景清がくりぬいた両眼を盲人に貸し与えるという結末をつけることで、神仏による単純な奇蹟譚で終わらせないひねりを加える。「心眼」の結末は苦いものだ。盲人の開眼はすべて夢で、夢が醒めると彼は盲人のままだ。開眼の夢によって「心眼」は望みのものを手に入れた人間のあさましさを滑稽に残酷に描き出す。落語はどんなに荒唐無稽な噺でも結末を超自然的な存在に預けず、人間の世界へと反転させる。人間がどう振る舞うか、生きるかが落語の語りには示されている。江戸時代後半に栄え始めた落語の噺のなかには、明治から昭和にかけて、つまり前近代から近代に移行していった社会のなかでの人間の立ち位置の変化が反映されている。

松本尚久『落語の聴き方 楽しみ方』を私はほぼ一年前に最初に読み、この二月に機会があって再読した。この再読の半月ほどまえに、私はさん喬師匠の『心眼』を偶然聞いて、大きな感動を味わった。さん喬師匠の『心眼』では、まずお薬師様の願掛けによって開眼した瞬間の描写がとても印象的だった。中世フランス文学には聖人奇蹟譚がたくさんあるのだけれど、これまで私はそれらの作品を読んでも感動を覚えたことはない。こうした聖人譚は、当時は聴衆を前に声を出して読まれたものだったのだが、さん喬師匠の『心眼』のこの場面を聞いて、当時の聴衆が奇蹟譚を聞いて感動はこのようなものであったに違いない、と私はわかった気がしたのだ。「そうか、奇蹟譚というのはこんな感じで感動的なんだなぁ」と。しかしその素朴な感動の余韻が残っているそのすぐ後に、奇蹟によって開眼という幸せをつかんだ主人公の愚かさ、どうしようもなさが容赦なく描き出される。そしてその浅ましさへの苦い悔恨。人間の心の多様な有様がさん喬師匠の『心眼』では実に見事に再現されていた。あの噺を聞いたとき、自分が落語のエッセンスにまさしく触れていたのだということを、この最終章を読み直して私は気づいた。