能楽鑑賞教室 柿山伏 葵上
解説 能楽のたのしみ 梅若長左衛門 ほか
狂言 柿山伏(かきやまぶし) 山本泰太郎 ほか(大蔵流)
能 葵上(あおいのうえ) 梅若紀彰 ほか(観世流)
- 劇場:国立能楽堂
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学生向きの公演である能楽鑑賞教室に行ってきた。解説「能楽のたのしみ」が二十五分、狂言「柿山伏」が二十五分、能「葵上」が五十分。「葵上」は三島由紀夫『近代能楽集』を通して知っていたけれど、オリジナルは見たことがなかったので見てみたかったのだ。
昨年参席したレクチャー『能のある風景』の講師の山中迓晶先生が今日、私が見た『葵上』のシテツレ、六条御息女の生き霊を呼び出す照日の巫女を演じていた。これは当日パンフレットの記述で知ったのだが。18日(午前)と22日(午前)には山中迓晶先生が「能楽のたのしみ」を担当されていたこともパンフレットで知る。今日の午前の部の解説を担当した梅若長左衛門さんの語り口も軽妙で楽しかったが、山中先生のユニークなスタイルでの解説を聞いてみたかった。「能のある風景」にも昨年一度行ったきりで、その後、機会があわず、行けないままになっている。
狂言、能とも見ている本数が少ないし、勉強も足りないので、今ひとつ見どころ、見るポイントがわからない。「柿山伏」は他人の家の柿の木に登って勝手に柿を食いちらしていた山伏がこらしめられる話。狂言をフランス中世のファルス(笑劇)と比較する研究がいくつかあるのだけれど、笑い自体は狂言のほうがファルスよりたわいないものが多いように思う。どちらも成立した時代は15-16世紀であるが、ファルスのほうは17世紀にモリエールの喜劇に部分的にその笑いが取り入れられるものの、廃れてしまい、表現の型などは伝承されなかった。テキストを読む限り、狂言よりも表現はより写実的で、題材もより幅広い日常生活からとられているような感じがする。
たわいない笑い話で、文字通り型にはまった演技だけれど、そのきっちりした型ゆえに狂言はいまだ鑑賞に堪える喜劇になっているように思った。集団鑑賞で来ていた高校生もよく反応していた。つまらない、たわいない話だなと思いつつ、見終わった直後には充実感がある。
能「葵上」。やはりそろりそろりというゆっくりすぎる動き、緩やかすぎる展開がたるくて眠い。橋がかりから演者が入場する場面の緊張感は心地よいものではあるけれど、舞台に到着してからの展開の停滞と謡の独特の調子に、睡魔に引き込まれそうになる。それでも前半、眠気を我慢しながら見ていると後半になると、その極度に切り詰められたストイックなプロットと謡やお囃子と演者の緊張感に満ちたコンビネーションに、生理的な快感を感じることができるようになった。所作の意味などがわかればもっと楽しめるはずだ。