閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

東京ノート

青年団第67回公演
青年団第67回公演 第39回岸田國士戯曲賞受賞作品 『東京ノート』

  • 作・演出:平田オリザ
  • 舞台美術:杉山 至
  • 照明:岩城 保
  • 音響設計:緒方晴英
  • 音響操作:泉田雄太
  • 衣裳:有賀千鶴
  • 舞台監督:中西隆雄
  • 出演:山内健司 松田弘子 たむらみずほ 小河原康二 秋山建一 小林 智 兵藤公美 能島瑞穂 大塚 洋 井上三奈子 大竹 直 熊谷祐子 山本雅幸 荻野友里 河村竜也 長野 海 堀 夏子 村田牧子 森内美由紀 小瀧万梨子
  • 会場:上野 東京都美術館 講堂ロビー
  • 上演時間:2時間
  • 評価:☆☆☆★
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平田オリザ/青年団の超定番というべき戯曲の上演。私が舞台でこの作品を見るのはこれが三度目のはずだ。前回、3年ほど前に新国立劇場の広大なロビーを使った公演は素晴らしいものだった。空間の広大さによって作品に内在する象徴性が強調され、抽象度の高い舞台となっていた。
http://d.hatena.ne.jp/camin/20100705

時代は近未来、東京都のとある美術館のロビーを舞台とする作品である。準パブリックな空間であるそのロビーにやってくる数組のグループの会話によって構成された作品だ。各グループはポリフォニー音楽の異なる声部のように独立した旋律を劇中で奏でる。そしてその声部は劇中の何箇所かで交錯する。全体としてはそれぞれミクロな話題のやりとりが行われていた各声部が響き合い、作品の背景にある大きな物語を浮きだたせる。平田オリザの演劇様式が完成されたかたちで提示された傑作である。私はこの作品を舞台上で見ただけでなく、戯曲も相当丁寧に読んでいる。2年前の仏作文の授業でこの戯曲をテクストとしてとりあげたのだ。半年かけて、戯曲全体の1/3ほどをフランス語に訳した。自分自身が訳を作っただけでなく、学生の作った訳を添削し、さらにDVD映像のフランス語字幕とフランス語版台本を、原文およびこちらが作った仏訳と照合した。

美術館ロビーを舞台とするこの作品を、実際に美術館で上演するという試みはこれまで何回かあったらしいが、私はそうした上演に立ち会ったことがなかった。今回の上演会場となった東京都美術館では、作品のなかで何回も言及されるフェルメールの絵が展示される展覧会が行われているという、まさに作品内容と現実が見事にシンクロした条件での上演である。この借景が、ハイパーリアルを標榜する平田演出でどのように生かされるかはとても興味深い。私は発売早々にチケットを予約して、大きな期待をもって公演を見にいった。もちろん、公演前には美術展も回り、フェルメールの絵も見ておいた。

美術展を見たあと、公演の開場まで1時間ほど時間が合ったので、近くのスターバックスで時間をつぶす。開場の10分ほど前に美術館にまた入ろうとすると、入口ではおじさんが門を閉めようとしていた。隙間から中に入ろうとするとおじさんは、「もう閉館だよ」と言う。
「いや、演劇を見に来たんですよ。『東京ノート』なんですが」
「え? ああそうですか。でももうとっくにはじまってるよ。エスカレータを降りるんじゃなくてまっすぐ行って入って右ね」
という答え。「あれ?時間を間違えたのか?途中入場できなかったはず」と焦って建物の中に入ろうとすると、今度は建物の入口でおばさんに「もう閉館ですよ。入れません」と止められる。「えーっと『東京ノート』なんですが」と言うと、
「ああ、それでは付いてきて下さい」と受付まで案内された。帰るときに気がついたのだけれど、演劇公演の入口は通常の入口ではなく、裏から入るようになっていたらしい。もちろんまだ開場前だった。いや焦った、マジで。

どこを上演会場とするかと思えば、美術館のロビーはロビーでも、一階のはしにある狭苦しいスペースだった。音響や客席配置の関係でこの空間になったのだろうが、並行して並べられる三つの長いすも窮屈な配置で、美術館ロビーにもかかわらず美術館ロビーの雰囲気が薄い。これを観客席が取り囲むのだから、さらに窮屈感が増す。広大な新国立の空間のスケール感を思うと、ちまちましていて落ち着かない空間だ。平田演劇の常套で開演前に登場人物が舞台上をうろうろしているのだけれど、観客席に囲まれるなかでの芝居前芝居の趣向は、役者も居心地が悪そうでうまく機能していなかった。

美術館上演という絶好の借景をうまく生かせず、かえって戯曲の設定、台詞の不自然さ、人工性を強調する結果になってしまったように私には感じられた。平田の戯曲は、リアルだと錯覚を起こさせるような仕掛けを巧みに施した人工的会話によって構築された精巧な象徴劇である。劇場という作られた虚構の場でこそ効果を発揮するリアリティというのがあるんだなということを今回確認できた。また現代口語演劇は実際には新劇リアリズムの延長線上にあるネオ新劇だということもよくわかる公演だった。

新国立劇場での公演があまりにも素晴らしいものだったし、今回は美術館公演という趣向で期待が大きかったので、ちょっと物足りない公演ではあったが、やはりこの戯曲はとてもよくできている。とりわけラストの場面の悲しさ、美しさは卓越したものだ。私は今回も最後の場面はぎゅっとお腹に力を込めて見た。役者のやりとりから生じる張り詰めるような緊張感を感じ取った。