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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

平原演劇祭2012 第2部「ようこそバイバイ、トロピカルフィーバー!」

演劇 イベント
  • 作・演出:高野竜
  • 出演:斎いおり(『詩とは何か』);生田粋(歌);青木規子、酒井春夏、泉田奈津美(『音信不通の姫』)
  • 会場:豆茶房でこ
  • 上演時間:2時間
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平原演劇祭2012年の第二部の会場は、多摩川沿いの是政駅のそばにある小さな喫茶店だった。
上演された演劇作品はすべて女性による独白体の作品だった。最初に現役女子高生役者が女子高生役を演じる独白劇『詩とは何か』、次ぎに生田粋が弾き語りで数曲歌うミニライブが続き、前半が終わる。休憩を挟んで後半は三人の女優による独白三場で構成された『音信不通の姫』。

個人的に一番印象に残ったのは最初の演目の『詩とは何か』だった。抽象的な文学談義を女子高生が語るわけではない。高台から女子高生が天体望遠鏡で下の方にある駅前を定点観察している。彼女はその駅前でひたすらナンパを続ける冴えない男がなぜか気になってしかたないのだ。定点観測を続けていたある日、女子高生は気づいた、男が口をきけなくなっていることに(凄いなあ、これ)。そして口をきけない状態でもなお、彼はナンパを続けていた。女子高生はぐっと心を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。おそらく倦怠のなかで緩やかな絶望を感じつつ生きていたこの若い女性が、彼女と同じくらいどうしようもなく退屈な町の風景のなかで目に留めた無意味で卑俗な営為が、突然、啓示的で崇高なものへと結びついたのだ。
私の座っていた場所は、演者の後ろ側だった。セーラー服の彼女の後ろ姿を見ながら語りを耳にしていた私も、はっと意表を突かれた感じがした。

『詩とは何か』が終わり、役者が退場する。そこで生じた心の空隙にすっと自然に入り込むように、生田粋さんの弾き語りが聞こえてきた。素直で伸びやかな歌声の生田さんの弾き語りが数曲。最後に歌った《イーグル》は6月のお茶の水でのライブでも聞いた曲だと思うが、大らかに響くリフレインが印象的ないい曲だと思う。

この後、二〇分の休憩が入る。幼い子供連れの母親が数組入ってきて、先ほどの『詩とは何か』で役者が芝居をしていた床にゴザを敷き、そこに陣取る。狭い喫茶店は密集状態になる。休憩時間内に差し入れの福井名物羽二重餅(私の好物でもある)とプリンを遠慮なく食べた。飲食がないと平原演劇祭という感じがしない。しかしプリンは出演者用だったようだ。40過ぎてせこい食い意地を晒してしまい、恥ずかしい。

後半は三人の女優の独白体による『音信不通の姫』。最初の場は南洋の孤島から情報発信するラジオのディスク・ジョッキーらしき若い女性の語り。折りたたみテーブルのような台にちょこんとすわって、どちらかというと陽性で軽薄なちゃらちゃらした調子で話す。ケラケラと笑いながらと言った感じで。しかしその内容はその語り口とは裏腹に、宇宙のこととか何とか、私もよくわからない内容のけっこうインテリ臭い内容なのだ。その抽象的な話題のなかに、日常的で自虐的なギャグを交えた私語りが入り込む。戯曲のタイトルである『音信不通の姫』の由来は、この女性の語りの最後で明らかにされる。この島の酋長の娘が満月の夜に海にこぎ出したまま行方不明になったのだ。音信不通の姫とは、この満月の月を追いかけるように海に出たこの女性のことである。

第二幕は乳児を抱っこした女性の語りになる。この女性も若い。今日の平原演劇祭に出演した女性はみな二〇代もしくは一〇代の若い女性だ。頼りないダメ男と恋に落ち、この男とずるずるとくっついてしまい、学生の身で幼子を育てるはめとなった彼女には、どこかやさぐれた開き直りが感じられる。男との愛に溺れた彼女は、今は自分を強烈に束縛する幼子への愛に溺れ、溺れながらぐだぐだと生きる今の自分をしっかりと引き受けている。このヤンママも実はかなりのインテリで、実感的でありかなり独創的でもあるハムレット論を、ときにぐずり出す乳児をあやしながら、語り始めるのだ。そしてハムレットのぐだぐだぶりを現在の自分のぐだぐだぶりに重ね合わせる。女優の二歳の実子を舞台上にあげ、無理矢理芝居に引き込んでしまうという超反則技を使った芝居。途中ちょっと意識が飛んでしまう。あの愛らしい二歳の子供がいなかったら、ハムレット論は聞いてられなかったもしれない。

第三幕は最初の場で女性DJがいた島へと戻ってきた。しかし語り手は島の原住民のようだ。津波に流され、船の上で漂流しているようなことを言っている。彼女は月を追いかけて島を出た「音信不通の姫」なのだろうか? 島に大量のふぐが押し寄せた話や「音信不通の姫」の話もしていたようだけれど、一人語りの三人目はこちらの頭がちょっと朦朧としてしまい、内容があまり頭に入ってこなかった。座っていた場所が女優の後ろ側で、ずっと背中を見続けていなければならなかったというのも原因かもしれないが。それでもラストの場面はとても印象的で美しいものだった。各場の女優と生田粋さんによる民謡風の歌の合唱でこの芝居は締め括られるのである。

できればまた再演を見てみたい作品だ。若い女性の独白による構成は趣向として面白い。でも正直なところ、上演としては若干単調で『音信不通の姫』の三場目は注意力が散漫になってしまった。詩情の豊かな美しい作品だったけれど、今日、一回だけでは捉えきれないところが多かったように思う。

高野竜さんの作品はいずれも、今ここにある世界のなかに、彼方へ通じる道を見せてくれる。その彼方がどこなのかは明示されていないけれど、今いるここよりもさらに広大で、美しくて、深淵で、明るい世界のようだ。芸術作品というのは多かれ少なかれ、「彼方」への誘う機能を持っているものかもしれないけれど、高野さん作品にはとりわけそういうことを強く感じる。霊的、宗教的な危うさと紙一重のところもあるのだけれど。今日の出演者はみな若い女性だった。それぞれが今ここにある自分をもてあましていて、もっと遠くの彼方にある世界を一生懸命に覗こうとしているように私には思えた。若い女性が抱えているであろうそうした切実な思いに、言葉を与えたのが今日見た作品であるような気がする。実際に、『音信不通の娘』の三場の最後で、女優がつま先だちになりながら語っているのが、まあにそうした思いの表している。

あと今日の一本目は『詩とは何か』というベタなタイトルの作品であったのだが、高野さんの劇も劇詩と呼ばれるにふさわしい詩なのだということを、今日の語り芝居で改めて確認した。フランス語圏の作家だとラシーヌクローデルベケットの戯曲が詩であるように、高野さんの作品も今の日本の日常のリアリティから生み出された演じられるための詩、劇詩だと私は思う。