閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

さんしょう太夫 -説経節より-

劇団 前進座
さんしょう太夫

  • 作:ふじたあさや
  • 演出:香川良成
  • 音楽:平井澄子
  • 美術:西山三郎
  • 美術補:高木康夫
  • 照明:寺田義雄
  • 音響:田村悳
  • 振付:六代目 嵐芳三郎
  • 振付指導:藤間多寿史
  • 出演:小林祥子、竹下雅臣、妻倉和子、前園恵子、志村智雄、江林智施、渡会元之、小佐川源次郎、高橋佑一郎、益城宏、武井茂、渡会元之、柳生啓介、中嶋宏幸、上滝啓太郎、石田聡、藤井偉策、北澤知奈美、江林智施、前園恵子、志村智雄
  • 劇場:三宅坂 国立劇場小劇場
  • 上演時間:2時間35分(休憩15分)
  • 評価:☆☆☆☆☆
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1974年以来上演されている前進座のレパートリーのひとつ。この秋の全国ツアーで公演回数は1000回を越えたそうだ。私は2006年3月に吉祥寺の前進座劇場でこの作品を見て、大きな感銘を受けた。
ふじたあさやの『さんしょう太夫』は、中世末から近世、17世紀頃に隆盛を見たささらを伴奏楽器として用いる音楽的な語り芸能、説教節がもとになっていて、この古い時代の芸能の雰囲気を生かした翻案になっていた。演者たちの一部は複数の役柄を担当し、自分の出番以外は舞台の左右に待機して、楽器を演奏したり、コロスとして厳かな調子の語りを歌って舞台上の物語に奥行きを与える。

演出でとりわけ印象的なのは冒頭と最後である。
客席が暗くなると、暗闇のなかを袈裟を被った白装束の説教師たちの群が後方からぞろぞろと現れ、舞台に上がる。舞台上で説教節の言葉が彼らに投影される。彼らは丹後地方に伝わる金焼地蔵の由来を厳かな節回しとともに群唱する。
群唱しながら説教師は装束を脱ぐと、舞台上が明るい照明で照らされる。そこからあんじゅとづし王の物語の登場人物たちが現れる。

あんじゅは姉、づし王はまだ幼い弟。この姉弟は、母親と乳母とともに、故国の奥州から父親の消息を確認するために京都に向かっていた。ところが越後の国で人買いに騙され、母と乳母は佐渡へ、あんじゅとづし王は丹後のさんしょう太夫のもとに売られ、艱難辛苦の運命に翻弄されることになる。

演者の発声と動きは狂言を連想させ、その動きはしばしば舞踊へと自然に移行する独特の様式美を持っている。とりわけ4人が船に乗せられた場面で、体を優雅に上下させて船の揺れを表現する様子が印象に残る。脇役の演者はひとりで複数役を担当し、舞台上に出ていないときは両脇に座ってコロスとして、楽器を演奏したり、節をつけて語りを朗唱したりする。

再現される物語は哀切極まりない。あんじゅとづし王の苦難は、サディスティックとも言える容赦のなさである。しかしその様式化された虐待のありさまは、独自の倒錯的な美しさがあり、観客の嗜虐趣味を刺戟する。

素朴な説話物語に込められた恵まれない人々の切実な願望が、音楽、舞踊、語りといった複合的手段で増幅され、そこから悲壮で美しい劇的幻想が浮かび上がる。類型的で素朴な人物たちはそれぞれ人間の持っているいくつかの属性のアレゴリーとなっている。そこにはわれわれの弱さ、愚かさ、醜さ、強さ、美しさが、洗練された記号として提示されている。それを享受する観客もまた、芝居の人物同様、素朴になる。役者の出番ではなく、話の展開に合わせ、主人公の二人に感情移入し、彼らが不幸から脱するような場面では客席から自然と拍手がわき上がった。

そしてこの美しい物語は最後にはまた無名の説教師の群へと収斂され、闇のなかへと消えていく。

前進座の観客には特徴があり、老人男性が多い。全体の年齢層は歌舞伎より高いだろう。休憩時間の男子トイレに女子トイレ以上の長い行列ができるのは前進座公演ぐらいだ。労働組合などの団体客が多く、私のような個人客は少ないようだ。
この素晴らしい舞台が、私がツイッターでフォローし、されているような一般的な演劇ファン、演劇関係者の大半の関心の外にあるということを、私は本当に悔しく思う。本当は自分の子供にも見せたかった。うちの二人の子供は5歳離れた姉─弟で、ちょうどあんじゅとづし王の関係が重なる。しっかり者の姉と姉が頼りの幼い弟。「さんしょう太夫」はこの弟の成長譚でもあるのだが。二人がこの作品を見たらどのような感想を持つのだろうか、と想像した。