閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

第三世代

ITI紛争地域から生まれた演劇シリーズ4・専用HP

  • 構成・台本:ヤエル・ロネン
  • 訳:新野守広
  • 演出:中津留章仁
  • 出演:赤澤セリ、阿部薫、天乃舞衣子、枝元萌、木下智恵、金成均、田島優成、坂東工、吹上タツヒロ、屋良学
  • 劇場:上野ストアハウス
  • 上演時間:二時間
  • 評価:☆☆☆☆★
                                                  • -

ベルリンのシャウビューネ劇場とテルアビブのハビマ劇場の共同制作作品。構成・台本のヤエル・ロネンはハビマ劇場所属のイスラエル人女性で年齢は36才。
ドイツ、イスラエル、パレスチナの三国間の民族対立、歴史問題を扱った政治劇なのだが、台詞の激しいやりとりに見られる徹底した自己検証、自己批判の率直さ、すさまじさに戦慄する。これは恐るべき戯曲だ。最初は欺瞞的な雰囲気漂う中でそれぞれのグループが青年の主張のようなかたちで、互いに遠慮しつつ、自己弁明を行っていた。しかし後半で彼らのやりとりは、自国の行為、第三世代である自分たちの欺瞞にしっかりと向き合ったものへと変化する。錯綜し、解決不能な対立のありさま、絶望が一気に提示される。何が悪い、何が良いのか判断は不可能だ。しかし当事者である彼らはその錯綜した状況のなかで、混沌を混沌として受けとめたまま最良の選択はないということを理解しながらも、どれか一つの選択肢を選ぶことが強いられる。

四名のドイツ人(うちひとりは東ドイツ出身の女性)、三名のイスラエル人(それぞれヨーロッパ、北アフリカ、中東と出自は異なる。二名は女性)、三人のパレスチナ人(ひとりは女性。二名がイスラム教徒、一名がキリスト教徒)。イスラエルのテルアビブにこの三民族のグループが集まり、討論を行い、それぞれの立場の弁明を行う。彼らは三十代で、その祖父母が第二次世界大戦時代に現役だった世代だ。ドイツ人はナチスドイツによるホロコーストという後ろめたい過去を抱えている。しかし彼らはパレスチナ人を抑圧するユダヤ人に批判的であり、どちらかというとパレスチナ人に同情的だ。ドイツ人たちは祖父母の世代の負の遺産を今もなお背負い続けなければならないことに強いフラストレーションを感じている。そのフラストレーションは、ドイツ国内に於けるアラブ、トルコ系移民に対する反発というかたちで現れることもあるが、こうした反発や不満は、ドイツ全体に支配的なナチスドイツの行いへの贖罪意識によって押さえつけられる。
ユダヤ人たちは、自分たちの祖父母が被ったホロコーストと今もなお、イスラエルがパレスチナに対して行っている抑圧、爆撃とを比較するなと訴える。そしてホロコーストを棚上げし、イスラエルの行いを批判するドイツ人を反ユダヤ主義であると否定する。しかしその否定は悲鳴に近い。イスラエルはパレスチナアラブ諸国の自爆テロのひどさを糾弾し、自己存在を正当化していく。しかしその言葉は苦く、重い。
パレスチナ人は被害者に違いない。しかし彼らも清廉潔白だろうか? 長年続く独立闘争のなかで、彼らは自分たち自身のなかにも腐敗と対立を抱えているが、それを巧妙に隠蔽している。イスラエル国家の蛮行を声高に訴えながらも、周辺アラブ諸国への不信もパレスチナ人のなかにはくすぶっている。

三国の抱える対立の複雑な様相が、劇の後半に一気に提示される。そして最終的にはこうした対立の構図を演劇として提示する自分たち自身への疑念も劇の枠内で厳しく検証しはじめる。

「紛争地域から生まれた演劇・4」の企画で今回上演された三作では、ドイツの『第三世代』が圧倒的に素晴らしかった。圧倒的に真実だった。
ドイツ現代演劇の層の厚さ、充実に(作者はイスラエル人女性だが)改めて驚嘆する。ドイツでの上演では、ドイツ人気質への揶揄、風刺的ジョークが支配的な喜劇仕立ての上演だったらしい。日本での上演は、喜劇性はそれほど強調されなかった。演出家の中津留章仁曰く、当事者ではない日本人が演じるので、デリケートな政治的問題を笑いとして提示するのは慎重に行ったとのこと。オリジナル版は実際に3国籍の役者たちが一ヶ月間、共同生活を行い、そのなかの討論を出発点に台本を組み立てた。
こういう内容の戯曲を東京で若い日本人役者に演じさせて、説得力ある表現として提示した中津留章仁の演出も見事だった。日本人役者が、外国人となってユダヤ人、パレスチナ人問題を論じるという空々しさもしっかり考慮された上で、そうした嘘くささを効果的に利用して芝居を作っていた。稽古期間はたったの5日間だったそうだ。リーディング公演と銘打っていたにもかかわらず、役者に台詞を暗記させていて、ほとんど普通の芝居として上演された。

アフタートークで訳者の新野先生から興味深い指摘があった。ドイツでの公演では風刺的笑い、喜劇性が強調され、役者たちは人物になりきるというより、それを外から客観的に見て、つっこみを入れるような、いわばブレヒト的方法でこの作品は演出されていたそうだ。これに対し、日本の上演では五日間の猛稽古のなかで、役者たちはそれぞれ自分が演じる人物になりきるように、スタニスラフスキー的な方法で役作りを行っていた。この対比が興味深いという指摘だっただった。