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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

冨士山アネット[Woyzeck/W]

演劇 舞踊

冨士山アネット × 冨士山アネット/Manos.『Woyzeck/W

  • 原作:ゲオルク・ビューヒナー
  • 構成/演出/振付:長谷川寧
  • 音楽監督:吉田隆弘
  • ドラマトゥルク:小畑和奏
  • 演出助手:金子愛帆 中澤陽
  • 衣裳:生田志織
  • 舞台監督:中西隆雄
  • 映像:浦島啓(PUREDUST)
  • 照明:奥田賢太(colore)
  • 音響:和田匡史
  • 出演:Annette ver. 今津雅晴 岡本陽介 長谷川暢 細身慎之介 村本すみれ(MOKK);Manos. ver. 今村洋一 大石丈太郎 武子太郎(クロムモリブデン) 遠山悠介 森ようこ(演劇実験室◉万有引力
  • 劇場:こまばアゴラ劇場
  • 評価:☆☆☆★

 長谷川寧が主宰するダンスユニット、冨士山アネットの公演を初めて見に行った。このユニットは2003年から活動を続け、快快や羽衣の公演の振付を担当している。今回はビューヒナーの『ヴォイツェク』を冨士山アネットによるダンス・バージョンと冨士山アネット/Manos.による演劇バージョンの二種類の公演だった。

 9/13の初日とその翌日に見に行った。最初に見たのは、演劇バージョンだと思ったらダンスバージョンの回だった。上演時間は60分ほど。ダンスなので台詞はない。女性一人、男性四名のダンサーが、パントマイムで『ヴォイツェク』を再現する。私は原作を読んでいたため、演じられている場面に対応する原作の箇所を思い浮かべながら舞台を見たが、原作を知らない人にはあの舞台はどのように移ったのだろうか。どちらかというとストイックで抑制された表現で、派手な仕掛けはない。暗い照明が基調の舞台で、後半、ちょくちょく落ちた。正直、あまり面白いものではなかった。透明プラスチックの虫かごごしにダンサーを撮影し、同時に投影した映像処理は面白かったが。スクリーン映像では虫かごのなかにダンサーが閉じ込められているように思う。 主人公ヴォイツェクはスキンヘッドの男性。最初から最後まで水の中で溺れ、もがいているような感じだった。 

 

 昨夜は台詞のないダンスバージョンだったが、今夜は台詞のある演劇バージョン。キャストも異なる。台詞が入るとさすがに昨夜のダンスバージョンよりわかりやすい。いや、昨夜のダンスバージョンはやはり観客への手がかりが少なすぎたように思う。 演劇版では簡素な舞台装置と投げやりに感じられるルーズな雰囲気のなかで、『ヴォイツェク』原作が、テキストに書かれているイメージ通りにほぼ再現されていたように思う。 

 『ヴォイツェク】は断片的エピソードの集積で、各場面の空白が多い。また場面の順序も草稿からははっきりしない。『ヴォイツェク』には作者による決定稿が存在しないため、校訂によって場の配列にかなり違いがある。 各場面は黒い紙でマスキングされた連続した場面の一部が露出したスリットのようなものであるように思う。 

 

 原作よりはるかに上演頻度が高く、よく知られているアルバン・ベルクのオペラ版では、『ヴォイツェク』は、ヴォイツェクが上官のひげそりをしている場面から始まり、岩波文庫の岩淵訳もひげそりの場から始まる校訂を翻訳底本として採用している。しかし最近出た校訂ではヴォイツェクと同僚のアンドレアースの二人の場面である「広野」を冒頭に置くことが多い。 冨士山アネットの『ヴォイツェク』も広野からはじまる。 

ダンス版とはキャストの雰囲気がかなり異なる。ダンス版のヴォイツェクは禿頭のたくましい男だった。しかし演劇版では弱々しく、いかにも情緒不安定な若い男である。ダンス版のマリーは無表情で人形のような雰囲気だったが、演劇版ではコケットな女性だ。 

 舞台はほぼ素舞台。ガラクタのごとく無造作に、さまざまな日常雑貨が円状に並べられている。無理心中ものとしての「ヴォイツェク」の物語構造をはっきりと提示する構成になっていたように思う。『カルメン』、『マノン』等、ファム・ファタールものの悲劇の多くは、ヒロインの死によって完結する。女に散々振り回された男は、女の死により移ろいやすい女を安定した状態で獲得し、自らの死によってそれを完遂させようとする。死は男性の願望の実現であり、男性にとっては悲劇的結末ではない。 

 

 冨士山アネットの『ヴォイツェク』、ずっと安っぽいアイディアのテキストの再現が続き、うんざりするところもあるのだけれど、マリー殺害の場あたりからよくなった。マリーの殺害後に、老婆の語る絶望的な寓話の場を置く構成はいい。ここで終わると詩的なのだけれど、終わりはさらに延長される。ヴォイツェクの未練がましさ、だらしなさ。ヴォイツェクの入水の場面は幻想的であり、冒頭と同じ広野で締め括る。雑然とした舞台空間、ラフで緩い場の作り方は、原作の未完成性、ヴォイツェクの精神の荒廃を反映していたように思えた。あの安っぽさは、それはそれでよかったのかもしれない。 透明虫かご越しにヴォイツェクを撮影し、スクリーン上でヴォイツェクが虫かごに入れられているかのように映し出す手法は演劇編でも使われていた。 自分にとっては会心の『ヴォイツェク』ではなかったけれど、作品理解の上では参考になるところが多い舞台だった。