閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

『ザ・スーツ』

http://www.parco-play.com/web/program/suit/

  • 原作:キャン・センバ、モトビ・マトローツ、バーニー・サイモン
  • 演出、翻案、音楽:ピーター・ブルックマリー=エレーヌ・エティエンヌ、フランク・クラウクチェック
  • 評価:☆☆☆★

 2003年5月にパリのウーヴル座でこの作品を見たときに、大きな感銘を得た。少人数のキャスト、簡素なセットによる地味な作品だったが、私が見たことのあるブルック演出の作品のなかで最も好きな作品だ。今回は一〇年ぶりで、日本でこの作品を見ることができるということでとても楽しみにしていたのだが。十年前にパリで見たものとは大分変わっていたように思った。音楽とその使い方が違うし、エピソードの強調の仕方、ラストも違う(後で確認したらラストは同じだった。私の受けた印象が大きく異なっていたのだ)。

 もちろん俳優と言語も異なる。記憶の美化もあると思うが、一〇年前に見た方がはるかによかった。これ見よがしのすかした小技の使い方が私には少々うるさく感じられた。貧困がもたらした悲劇というのを、あのような洗練された洒落たやり方で描くことにも違和感も強かったのかもしれない。昨夜、貧困の悲劇を泥臭く、抒情的に描き出していた韓国現代戯曲三本立てを見た直後だから特に。

 

 2003年5月にパリで見たときの感想を見つけたので、下に引用しておく。

原作は1960年代に死んだ南アフリカ出身の作家の小説.それをMothobi Mutloatse, Barney Simonが戯曲化した。フランス語版の台本はMarie-Helene Estienneが手がけている。

ブルックは1999年にブッフェ・デュ・ノールでこの作品を初演した。作品自体の初演は1995年に南アフリカのマーケット・シアターで行われた。この同じ年にイギリスのTricycle Theatreで上演が決ったが、脚本を書いたサイモン・バーニーはヨハネスブルグの病床にあって、ロンドン公演には立ち会うことができなかった。

 病床で彼は初演のあとの拍手喝采を電話で聞いたという。

 この作品の上演はメトロの構内で偶然見かけたポスターで知った。私の知らないブルックの作品だ。ポスター自体は、ソファベッドとカーテンが描かれているクラシックなデザインで、テネシー・ウイリアムズあたりの芝居を連想させる。

 ネット上の演劇サイトでシノプシスを確認した。南アフリカのゲットーが舞台で、黒人の夫と妻そして「スーツ」が登場人物とある。南アフリカのゲットーが舞台ということは、社会派の写実的作品なのか? あるいはスーツが登場人物とかいうとカフカ風の不条理劇なのか?

 とにかくピーター・ブルックが演出しているのだから、そんなひどいものではないだろう。見に行った動機はそれだけだった。作品が上演されるウーヴル座は、クリシー広場からサン・ラザール方面に下る坂道の途中にあるこじんまりした劇場だった。客席は150席ほどか。クラシックで、どこかブルジョワ風の雰囲気をもった劇場だった。

 入場すると幕はすでに開いていて、中央にベッドが置かれている。中の下ぐらいの階層の住民の住宅寝室。演劇学習かなんかで連れてこられたらしいリセアンたちが前のほうの座席で騒いでいる。いやな感じだ。芝居なんかにはなから興味がないのだろう。

 私の予約したチケットはバルコンの一番後ろの席のはずだったが、なぜかオーケストラの中央の左よりの席を案内される。開演15分前の時点ではがらがらだった劇場が、開演3分前にはほぼ満員になった。

 役者が出てきて、劇の舞台の背景を説明しはじめる。口上役かと思えばそうではない。劇中では、かなり頻繁に独白ではない、観客に向けた三人称体の語りが含まれるのだ。一遍のコントを朗読しながら,それを同時に演じているのである。

 お話はシンプルで通俗そのものだといってよい。ヨハネスブルクの郊外に貧しい若い夫婦がいる。夫は美しい妻を慈しみ、貧しいながら幸せな結婚生活を満喫していた。ただこの幸せは見せかけだった。妻は浮気していたのである。夫は妻の浮気現場に立ち会う。それに気づいた間男はスーツを残して逃げてしまう。裏切られた信頼にショックを受けた夫は、それでも妻をなじることはしない。彼女に一切の反ばくを禁止した上で、間男が残したスーツをあたかも一人の人間として、彼らの家族の一員として扱うことを強要する。

 一組のスーツに人間と同じように食事を与えることを妻に命じる夫。妻はこの奇妙な懲罰に素直に従う。外出の時もこのスーツが一緒だ。夫は妻にこのスーツを一人の人間として扱うことだけを命じた。「三人」の生活がはじまる。最初はとまどっていた妻も、次第にこの「拷問」が気にならなくなり,むしろ時には彼女自身がスーツを相手に「浮気ごっこ」を楽しむことさえあった。

 しばらく時がたつ。家庭にほぼ閉じこめられた形の妻は、夫に地区の文化的催しに参加する許可を願い出て、夫はそれを許可する。地区の社交的な集まりで妻はたちまちスターとなる。家庭からの解放、社交の楽しみは彼女を有頂天にさせた。ある日、妻は自宅に地区の社交界の人間を呼んで盛大なパーティを開くことを夫に提案する。夫は賛成し、妻に新しいドレスを買い与えさえする。盛大なパーティの成功の中で浮かれる妻。その時である。夫はスーツをパーティ会場の中心に持ち出し、妻に最初に彼が命じた時のように飯を食べさせることを命じるのだ。妻の喜びの表情は、絶望で青ざめる。最初はこの奇妙なふるまいをいぶかしく思うだけだったパーティに来ていた人間も、しばらくすると事の次第がわかってくる。

 ベッドでうちひしがれる妻を残し、夫は友人と飲み歩く。夫の友人は、妻を許しまたもとどおりの生活をはじめることを忠告する。酔いつぶれた夫が戻ってくると、妻は身動きひとつせずベッドにうつぶせになっている。かつて毎朝やっていたように夫は妻を愛撫して目覚めさせようとする。しかし妻は反応しない。妻は死んでいた。夫はさっきまで飲み歩いていた友人の名前を絶叫する。家の外で「ん,マフィケラ.誰か俺の名前をよんだかいな」ろれつの回らない口で友人はつぶやく。

 暗い話であるが、芝居の内部ではパントマイムなどをつかったお決まりのギャグや歌やダンスを交えて、レビューのように軽快に進む。南アフリカのポピュラーソングが彩りを添える。夫を裏切った妻の軽薄さの描写.喜劇的なとにかく薄っぺらい妻のふるまいを軽やかに提示し、劇はテンポよく進んでいくのである。悲劇的な結末もパーティが始まってすぐに予告されているようなものだ。でも最後の友人のせりふが泣かせられた。

 4人の黒人の役者がとにかく個性豊かで、かつよく訓練されていた。妻役のサラ・マルティンもコケットで魅力的な女優。観客の心を一気につかんで、劇中世界に観客を引きずり込む。こんなに単純でありふれた物語を、劇的な非日常に変換してしまうブルックの魔術を堪能。 

 あのリセアンたちも上演中は騒ぐことなく、劇の中に引き込まれていた。