閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

東京ノート

東京デスロック
東京デスロック

  • 作:平田オリザ
  • 演出:多田淳之介
  • セノグラフィー:杉山至
  • 照明:伊藤素行
  • 音響:泉田雄太
  • 衣装:正金彩
  • 舞台監督:中西隆雄
  • 出演:夏目慎也、佐山和泉、佐藤 誠、間野律子、松田弘子、秋山建一、石橋亜希子、郄橋智子、山本雅幸、長野 海、内田淳子、大川潤子、大庭裕介、坂本 絢、宇井晴雄、田中美希恵、永栄正顕、成田亜佑美、波佐谷 聡、李 そじん
  • 劇場:こまばアゴラ劇場
  • 上演時間:2時間30分
  • 評価:☆☆☆☆
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手荷物はすべて受付に預け、二階にあるアゴラ劇場へ昇る階段のところから靴を脱いで中に入るように指示された。
劇場空間の作り方は挑発的かつ意表をつくものであり、劇場空間に足を踏み入れたとたん「やられたな」と降参しかかってしまった。こうした大胆不敵なギミックはいかにも東京デスロックならではという感じがする。原作の設定である美術館のロビーの雰囲気はない。怪しげなナイトクラブのショースペースのような雰囲気の空間だった。
舞台に客席も舞台もない。いくつかのベンチが中央とはしに無造作に置かれているだけである。アゴラ劇場の床面には毛の長いふかふかした白色の絨毯が敷き詰められ、百名以上の観客が自分の好きな場所に腰を下ろす。劇中人物を演じる二十名の役者たちも観客のなかに紛れ込んでいて、観客/役者の対立は開演前の劇場では完全に消滅している。上演時間が二時間を超えると聞いていたので、私は背中をもたれかけることができる壁際を選択した。

原作にはない冒頭と最後の場面が面白かった。劇場内に設置されたいくつかのモニタに映像が映し出されると、客のなかに紛れ込んでいた役者たちがおもむろにたちあがり、劇場空間をあるき周りながら自身と東京についての関わりについて語り始める。最初は無造作に、混沌とした状態で劇場内を役者たちは動き回っていたが、次第に列をなし、客のあいだを縫って円陣を形成史ながら、東京への思いを語る。このオープニングの形式は劇の最後、芝居の「本編」の部分が終わった後でもう一度繰り返された。役者それぞれの東京への個人的な思いと、小津安二郎の『東京物語』をモチーフとする原作の「東京」のありかたを結びつける面白い着想だ。東京のこまばアゴラ劇場に芝居を見に来ている観客自身も、自身と東京という都市とのつながりに思いをはせるだろう。

芝居の「本編」の部分のディアローグは原作にほぼ忠実であるが、上演空間の異質さゆえに、そこからもたらされる印象は、平田オリザ演出による青年版とはまったく異なったものになっている。登場人物たちは座っている観客たちを押しのけて、強引に芝居を続ける。青年団の『東京ノート』出演の常連であり、地方から東京へ親族を訪ねにやってくるという作品の要となる人物を演じる松田弘子さんはこの特殊な空間のなかで青年団風の芝居をつづけ、その浮き上がり方ゆえに強烈な存在感を発揮していた。

全体として非常に面白い舞台ではあったけれど、演出上のギミックにすんなり乗ることには拒否感を覚えた。映像に映し出されるメッセージにとくに感じたことなのだが、作品提示の仕方に安っぽい啓蒙臭、観客誘導が漂っているような気がして反発を感じる。平田オリザが演劇ワークショップの技法のもとは洗脳とも関わりがあって、ちょっとした応用で自己啓発セミナーでも有効だと言っていたが、多田演出は作品演出の中でこの特性を意識的に、とても巧妙に活用している。
宗教の儀式、例えばカトリックの典礼が濃厚な演劇性を持ち、演劇史の中で実際に典礼劇というものを生み出したのもまさに、演劇という手段が集団に及ぼしうるこの特性ゆえだ。「典礼的演劇」は演劇の原点の一つだし、今もなを現代劇にもこの特性は強く受け継がれている。反復と音楽を効果的に使うマームとジプシー、あるは柴幸男の方法も、宗教的儀式の場の作り方に近いところがある。そもそも身体や美術、音楽などの複合的手段によって、非日常的な場を作り出し、そこの集まる人間を集団的法悦に導くのは演劇の本質のひとつとも言えるのだけれど。あの作品に限らず多田淳之介の演出は、場の作り方、メッセージの内容のシンプルさ、その提示の仕方などマインド・コントロールを強く連想させる。劇作家や演出家は様々な手管を使って観客の感情や反応をコントロールしようとするわけだが、多田の演出はそのコントロールの意図が露骨で、強力だ。この演出家は表現そのものよりも、観客のコントロールへの関心、快感が強いと私は感じる。
このような参加型、観客巻き込み型演劇というのは多かれ少なかれ典礼演劇の要素を持っているし、ある意味優れて「教化的」である。私は演劇が持ちうるこうした性質は否定しない。結局はそこで誘導される先に同意できるかどうかだ。そして私が東京デスロックにのることができないのは、演出の多田の誘導先に何か危ういものを感じるからだ。