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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

トラッシュ・マスターズ『虚像の礎』

演劇

TRASHMASTERS vol.20 『虚像の礎』 

  • 作・演出:中津留章仁 
  • 音楽:高畠洋 
  • 舞台美術:原田愛 
  • 大道具:[株]タフゴング 
  • 照明:宮野和夫 
  • 音響:佐藤こうじ[Sugar Sound] 
  • 舞台監督:白石定[Stage Works] 
  • 宣伝美術:中塚健仁 
  • イラスト:BRAKICHI & RAGA http://www.brakichi.jp/ 
  • 出演:カゴシマジロー、吹上タツヒロ、星野卓誠、龍坐;村上洋康、井上裕朗、坂東工;林田麻里、川﨑初夏 
  • 会場:座・高円寺 
  • 上演時間:2時間20分 
  • 評価:☆☆☆☆

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 トラッシュマスターズは昨年3月に見た『来訪者』が初めて見た作品だった。尖閣諸島問題をテーマにした仮想歴史物で三時間の大作。現実の状況を綿密に調査したうえで、演劇的な壮大な嘘を展開させるダイナミックな社会派娯楽作品で、私はとても楽しんで見た。川﨑初夏というちょっと色っぽい女優も好きになったので、7月末の本多劇場での公演も見に行ったが、代表作の再演という『極東の地、西の果て』は荒唐無稽な展開に乗り切ることができずあまり楽しめなかった。 

 新作となる今回の『虚像の礎』はやはり社会派空想娯楽作品ではあったけれど、これまで私が見た二作と比べると、作品から暑苦しい雰囲気がなくなっていて、終始抑えた落ち着いた調子で展開する作品になっていた。荒唐無稽さが減少していて、ドラマとしての盛りあがりは弱くなっている。しかしこれは必ずしも悪いことではない。 

 美術は瀟洒な二階建ての家屋。前面と側面、および調度品はスケルトンになっていて、客席から見えるようになっている。むき出しになった建物の外枠のシャープさがかっこいい。1階は手前下手に居間と劇作家の書斎、その奥に台所と居室の4部屋、2階には応接間が1部屋と1階からも見える設定になっている渡り廊下が上手にある。奥行きのある大きな舞台美術だった。開演前から断続的に聴力検査のときに聞こえるブザー音のような音と金属を打ち叩くときにでるような無機的なノイズが不気味に響いている。 

 

 近未来の仮想世界が舞台となっている。登場人物はギリシア神話から取られた横文字の名(ヘラ、オネイロス、アエスなど)が与えられ、明らかに現代の日本と重なる登場人物たちの世界が「こちらの地域」、中国を想起させる国が「となりの地域」、そして舞台上の世界で進行中のこの二つの地域の紛争が「あらそい」と言い換えられている。 

 舞台上の世界で起こっている状況は、現在の日本で懸念されている政治・社会的状況がもし悪い方向に一歩に進んでしまった場合のシミュレーションになっている。わたしたちが今立っている分岐点で、悪い道を選択してしまった場合どうなるのだろうか、という問いに対する一つの答えが、演劇のかたちで示されている。 

 

 豊かな「こちらの地域」と貧しい「となりの地域」は、現在、紛争状態にある。この紛争を「こちらの地域」の人たちは「あらそい」と読んでいる。こちらの地域の人たちのなかには「あらそい」に反対して、デモを行う人たちもいるが状況は改善しない。「あらそい」の最中であるが、豊かな「こちらの地域』には大量の「となりの地域」からの移民労働者を抱えてる。紛争をきっかけに「あちらの地域」の難民も流入してきた。「こちらの地域」の人間たちは、「となりの地域」の移民・難民を取り込み利用することで、「こちらの地域」の豊かさを維持し、「となりの地域」がしかけるテロリズムに対抗しようとする。 

 表面上は「あらそい」の最中にも限らず、豊かさを享受し、平穏な「こちらの地域」ではあるが、戦争がもたらす巨大なストレスは人々の心に暗い影を投げかけている。政治家の妻の長女、劇作家の長男、介護士の次女のオネイロス家は裕福なブルジョワ家庭だが、次女のヘーラは情緒不安定で、希死念慮のため何度も自傷行為を繰り返している。ヘーラの詩人・劇作家を自称している恋人リルトンは自分が世に認められないことへのフラストレーションゆえにヘーラに暴力をふるう。彼は自分の暴力性を制御できない。この一方でリルトンは「となりの地域」からの移民労働者・難民の解放運動、反「あらそい」にも関わっている。 

 オネイロス家の人々、そしてリルトンは、「あちらの地域」の難民・労働者に同情的であり、「となりの地域」の人間であるシュウと接触を持つが、自分たちのなかにある支配者・優位者の傲慢には無自覚であるようだ。「となりの地域」の人間たちと彼らは本当に理解し合うことはできない。 

 

 突出した主人公のいない群像劇であるが、オネイロス家の長男である劇作家であるアテナーがこの劇の核となる存在となっている。ブルジョワ家庭の一員であり、保守系の政治家を義兄とする彼は反体制の芸術家ではない。しかし芸術家の使命としてのヒューマニズムを信条としていて、経済的繁栄ヒューマニズム共存可能であることが信条だ。心の専門家を自認する彼は、妹、そして彼の住む「こちらの地域」が抱える病理的状況について言葉で明解に説明することができる。しかし劇作という仕事が社会や家族の病理にどのように応えることができるのか、自分自身の存在が社会やかぞくのなかでどういう意味を持っているのかについてはうまく回答できていないように私は感じた。 

 

 彼らが住む「こちらの地域」では、各個人の社会貢献度が数値化され公表されている。各地域住民は己の社会的貢献度の数値を向上させようと、社会貢献に励む。この社会貢献度の評価は共同体の当局によって行われている。劇作家、詩人も社会貢献度によって自身の価値が社会に可視化される。あらゆる人間がこの社会のなかで自分の貢献度を何とかしてアピールしなくては生きていけない。 

 共同体の構成員すべてに数値化された社会貢献度が付与される社会というのは、今の風潮の延長線上に起こりうるリアリティのある空想だ。おそらく戦時中の「お国のために」も近い感じがあったように思う。都立高校では「奉仕」の時間というのが必修科目として週に一コマ割り当てられているという。 

 

 興味深い題材の作品であったが、後半に劇作上の破綻がでてきたように思う。よくわからなかったのは、結末で提示された劇作家のあり方を素直に受けとめるべきなのか、それとも皮肉として受けとめるべきなのかということだ。この劇作家は当然、この作品の作者である中津留章仁の分身的存在と考えるべきだろう。私はこの劇作家の言動には、自己保全のための巧妙なレトリックがあり、説得力を欠いているように感じた。しかしとなると狂言回しとしてのこの劇作家の位置づけが曖昧になり、作品のメッセージがぼやけてしまう。また劇作家がこのような劇作家をこの作品の文脈で提示してしまうことは、あまりに自虐的で無責任であるようにも私には思えるおだ。 

 物語の内容では、支配者である「こちらの地域」の人たちの「となりの地域」の人間への態度が甘いことにも不満をもった。現実には権力を持っている者は、持っていない弱者に対してもっと徹底的に無慈悲で残酷ではないか。そして被抑圧者の側も、実は抑圧者と同じくらいエゴイストで狡猾な面があることを、現在、弱者の立場から労働運動に参加している私は実感している。 最後の場面では、「となりの地域」の移民が、移民を踏みつけ繁栄を享受している「こちらの地域」の成員にピストルを向ける。この隣の地域の移民は、劇作家の言葉に説得され、結局はピストルを撃たなかった。しかし彼は一度向けたピストルを下に下げるべきではなかった。言葉によって抑圧された者の反逆を抑えこむという結末は、マリヴォーの『奴隷島』を連想させる。私が聞いたシェローの演出では、主人は奴隷であるアルルカンを言葉によって説き伏せつつ、最後には後ろからアルルカンをピストルで撃ち殺す。この冷徹さこそ、支配−非支配の関係の本質の優れた演劇的表現であると私は思う。『虚像の礎』では、やはりあの「隣の地域」の反逆者たちは抑圧者である「こちらの地域」の人間を撃ち殺さなければならなかったし、もし撃ち殺さなければ今度は自分がその甘さゆえに、逆に撃ち殺されていたはずであるように私には思えるのだ。

 

 被抑圧者が抑圧者に対してどのように戦略的にふるまうべきなのかということについて考えさせる作品でもあった。人物造形が図式的なのは敢えてやったのだろう。『虚像の礎』は政治社会的問題を、演劇的表現によって、図式的にわかりやすく提示するという啓蒙的・教育的な寓意風刺劇だ。