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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

シアターグリーン学生演劇祭 Vol.8 Tang Peng 30 A プログラム

演劇

http://green55.jp/index.html

劇場:池袋 シアターグリーン

四戸賢治(日本大学)『Critical Criticism』

靖国演劇祭制作委員会(二松学舎大学)『ニーとプー』

ロリポップチキン(武蔵大学)『君の瞳には二重螺旋構造が見えるッ!!』

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ロリポップチキン以外の二団体については今回が初見で、予備知識はまったくなかった。「学生演劇」というくくりに先入観を持っていて、見る前は実はあまり期待していなかったのだけれど、三作品とも楽しんで見ることができた。

そもそも12日はフランスでの研修からの帰国当日だったので、この学生演劇祭も見に行けるとは思っていなかった。ロリポップチキンの公演は旗揚げ公演から全て見ていたので、この公演も見たいなとは思っていたのだが。羽田空港に飛行機到着が午後三時だった。まっすぐ池袋に向かえば五時開演の回に間に合う。スーツケースを宅配便で送る手続きを急いですませ、シアターグリーンに行った。

30分の短編を三団体が上演するという形式であることは、客席入場後に知る。15時間、狭いエコノミークラスの座席でほとんど眠れず、かなり疲れていたので、ロリポップチキンだけ見たら帰ろうかと思っていたのだけれど、途中退場はできないらしい。眠ってしまうかもなと思ったのだけれど、眠らなかった。ロリポップチキン以外の二作も予想外に面白かった。

 

四戸賢治はソロのダンスだった。最初、音楽なしで、黒い地味な衣装を身につけた男性がクネクネと踊る。各所作の意味もシーケンスのロジックもまったくわからない。またありがちな一人よがりの前衛ダンスなのかと思って、やれやれと思っていると、5分ほどで終了して暗転。しばらくすると先ほどのダンサーが白衣を着て再登場した。さてここからが、このパフォーマンスの真骨頂だったのだ。彼は自分が先ほど踊ったダンスの意味と意図を解説しはじめる。そして実は先ほどの意味不明なダンスこそ、この学生演劇祭で観客の支持を最も得ることができるパフォーマンスであることがその解説のなかで明らかにされるのだ。それはなぜか? このダンスは過去の学生演劇祭の観客の評、公演の内容などの分析をもとに、支持される要素の最大公約数で構成されたものだからである。擬似統計的な手法を用いたその分析は、われわれの演劇観がいかに凡庸なクリシェによって構成されてしまうのかを明らかにする。批評的行為に対する優れた風刺になっていた。実際、われわれは往々にして無自覚のまま、つまらない紋切り型の思考、表現をなぞり、何かを語った気になっているのだ。四戸の風刺には私自身にも思い当たるところがあって、身が縮まる思いをした。


四戸賢治は、30分の公演のなかで同じ舞踊を三回踊る。舞踊表現としてはおそらく敢えて、前衛風の凡庸な紋切り型を彼は選択している(ダンス自体にもうちょっと面白みがあってもよいように思ったが)。しかし意味が付与されることで、作品としてたちあがってくる。われわれは彼の仕掛によってコントロールされてしまった。最後は観客参加の要素を取り入れる。作品提示の切り口のアイディア、構成力に感心した。

 

二松学舎大学靖国演劇祭制作委員会『ニーとプー』は、小学校時代の恩師の葬儀にやってきた同級生(まだ大学卒業したてのような感じ)たちの再会の様子を描く不条理劇風喜劇。話題のズレ具合、シュールな逸脱が面白い。不器用な演技が作り出すぎごちない間が作品の雰囲気と適合して、乾いた笑いを作り出していた。ぎくしゃくとしていて、機械仕掛けの現代口語演劇風芝居という感じ。

 

ロリポップチキンの『君の瞳には二重螺旋構造が見えるッ!!』は、冒頭からエネルギー全開。先に上演された二作が音楽をほとんど使わない静かで乾いた演劇だったのとは対照的だ。座組のヒロイン、エキセントリックなロリータ女優、竹垣朋香が無理矢理といった感じで自爆的なパフォーマンスをするオープニングから引き込まれた。最初にエネルギーに満ちた混沌を提示させ、観客にショックを与える。作品のテーマはシリアスな問題に真っ直ぐ向き合ったものだった。戦争および放射能汚染に関わる痛ましいエピソードが、5組のペアによって順番に提示される。この5組のエピソードは終盤になって乱暴に強引に収束され、普遍的なメッセージを発する。この転換の強引さが感動を生む。

 この作品でロリポップチキンは反戦という主題に伴うクリシェに敢て真っ直ぐ向き合った。そして今の日本に住む20台の「自分」がこの手垢にまみれた主題に対して持ちうるリアリティが真摯に探求されている。


 通俗に落ち込みかねないギリギリの表現の中で、紋切り型の枠組を逃れた何かを提示されていた。いやむしろ通俗にあえてずぶずぶと身を浸しながら、そこを突破しようとしているように見える。そのもがきようが演劇的な表現として有効であることを作・演出家の長谷川はよく知っている。脚本・演出でのコントロールの加減が公演を重ねる度に上手くなっている。

 ロリポップチキンは小劇場の世界でその独自の居場所を近いうちに見つけることができるかも知れない。