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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

劇団マウス・オン・ファイア『ソロ』

演劇


シアターΧ(カイ)|サミュエル ベケット『ソロ』|東京両国の演劇芸術を中心とした劇場

『わたしじゃない』 Not I
『モノローグ一片』 A Piece of Monologue
『クラップの最後のテープ』 Krapp's Last Tape
評価:☆☆☆☆★

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 昨年に引き続き、アイルランドの劇団、マウス・オン・ファイアが来日し、両国のシアターΧで公演を行った。この劇団は、ベケットの作品をベケットによる演出プランをできる限り忠実に再現して上演する。

 昨年は四編の短編戯曲を字幕なしで上演した。実験性の高い、しかも密度の高い詩的な言葉の連なりであるベケットの戯曲を、字幕なしで見に行ったところで、意味不明で退屈するに違いないと思いながら、こうした作品の上演を見る機会は滅多にないし、料金も1000円ということで見に行ったのだけれど、これが思いの外、刺激的で面白い公演だった。演劇性を極限まで切り詰めたベケットの後期短編戯曲の持つ演劇性の豊かさを逆説的に味わうことができる公演だったのだ。

今回は『わたしじゃない』Not I、『モノローグ一片』A Piece of Monologue、『クラップの最後のテープ』Krapp's Last Tapeの三編の上演だった。


『わたしじゃない』は15分ほどの芝居。暗闇のなかに、赤い唇だけが浮き上がり、その唇の語りをひたすら聞くというこの芝居は有名な作品であり、私はYoutubeの映像で見たことがあった。唇は「思考と同じ早さ」、つまり相当な早口で語り、時に笑う。語りの内容は私にはまったく聞き取ることができなかった。事前に翻訳を読んでいたのだけれど、翻訳で読んでもその語りの筋道を辿るには相当な注意力が必要となる。日本語でもあのスピードで読まれては意味を追いかけることは困難に違いない。Youtubeの映像では、唇のみがクローズアップされていたのだが、実際に舞台で見ると赤い唇は、暗闇のなか、観客の頭上高くにぼんやりと見えるだけだ。唇だけにかすかなスポットが当たっていて、よく目を凝らしてみなければ、その動きを捉えることができない。私が読んだ翻訳では、この唇の語りの聞き手が舞台上にいることになっていたが、今日の舞台ではその聞き手の存在は確認できなかった。真っ暗闇のなかでの、赤い唇を見つめながら、その唇がもたらす意味不明の言葉のシャワーをひたすら15分のあいだ浴び続けるという演劇。朦朧とした時間もあったけれど、これは確かに濃厚に演劇的な体験であった。100人ほどの観客の意識が、暗闇のなかの唇の一点に集中していることを確かに感じる。

『モノローグ一片』A Piece of Monologueは、クリーム色の衣装と肌、髪の毛の老人による一人語りである。下手側に老人が立つ。上手側には台に乗せられた壺がある。老人は不動の状態で、ひたすら語る。この語りの内容も私には理解できない。柔らかい光が舞台上の二つのオブジェを照らし、その影が背景に大きく映し出される。きわめて素朴な道具立てであるが、舞台上のスペクタクルの印象は強烈だった。上演時間は25分ほど。

15分の休憩を挟み、『クラップの最後のテープ』の上演があった。上演時間は45分ほどか。69歳になった誕生日、クラップは毎年行っているテープへの録音作業を舞台上で始める。録音に取りかかりながら、彼は自分が三〇年前に録音したテープの音声を聞く。69歳のクラップの姿から、彼が抱える追憶、悔恨、孤独、惨めさが浮かび上がってくる。

演劇性の極限を目指す表現のストイシズムが本当にかっこいい。シャープな切り口により、演劇的なものの核が鮮やかに提示されていたように感じた。ささやかな照明光によって浮かび上がる舞台絵の美しさが印象的だった。ベケットの大きな魅力はその言葉の詩的なかがやきであると私は思うのだけれど、今日の公演ではその言葉についてはまったく理解できていない。英語の響きの音楽は味わうことは出来たのだが。


演劇から演劇的な要素をどんどんはぎ取っていったような作品であるが、その切り詰めた表現は、逆に演劇が作り出す時空の特質を抽出し、極めて純度の高い演劇を体験させてくれたように感じた。