閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

《←ココカラ》リーディング公演 Vol.1『それからの二人』

『それからの二人』Afterplay

  • 作:ブライアン・フリール
  • 翻訳・演出:江尻裕彦
  • 制作:高橋悠之輔
  • 出演:古賀豊、飯田映理子
  • 上演時間:80分
  • 劇場:江戸川橋 Green Amy Cafe
  • 評価:☆☆☆☆★

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 熟成した味わいの大人の演劇の時間だった。しっとりと心に染みいるような正統的な台詞劇を堪能した。

 《←ココカラ》は演出家で翻訳も手がける江尻裕彦と作曲家で制作を手掛ける高橋悠之輔の二人によるユニットで、今回が初めての公演となる。日本では紹介されていない海外の現代劇をリーディングという形で取り上げるという。第1回は現代のアイルランドを代表する劇作家のひとり、ブライアン・フリールの二人芝居の上演だった。

 舞台はモスクワにある寂れたカフェ。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の登場人物であるソーニャと『三人姉妹』のアンドレイが、偶然出会う。原作の時代から20年が経過したという設定で、二人は40代後半だ。二人の疲弊、孤独がが会話のやりとりから浮かび上がってくる。やるせない現実のなかで絶望しながらも、この場末のカフェでのやりとりは二人にいくばくかの安らぎをもたらす。お互いがついていた嘘を暴露し合い、それぞれが抱える傷を確認することで、二人は解放されたかのように見えた。アンドレイはソーニャをナンパしていたはずだ。ソーニャもそれを積極的に断る理由はなかったはずだ。でも似たもの同士の二人はプラトニックな関係のまま別れる。

 小さな丸テーブルにグラスが二つ。テーブルの後ろの灰緑の木製椅子に二人は座ったまま語り続けた。動きのないリーディング公演だが、台詞の抑揚の変化、表情の変化、視線の向きといった最小限の動きで、感情を効果的に伝える。アンドレイ役の古賀豊は、私の好みからすると、少々芝居をしすぎていた。余り控え目だと観客の集中力が持たないかもしれないが、動きや台詞の抑揚の変化はもっと控え目でいい。台詞がしっかりと構築され、ドラマが成立していれば、観客は引き込まれ、ほんのわずかな変化が観客の想像力を引き出すに違いない。そういった可能性を感じ取ることのできた公演だった。

 ソーニャの飯田映理子は最初はもしかすると緊張があったのかもしれない。観客があまりに近くにいるのだから。会場となったカフェは江戸川橋の商店街にあり、半地下で、落ち着いた雰囲気の洒落た内装のカフェだ。暗めの店内と弦楽器の装飾は、フリールのこの作品の朗読の場にふさわしい。観客数は40名ほどいたかもしれない。店内は満員だった。

 最初のうちは台詞のやりとりがうまくリズムに乗れていないようなぎごちなさを感じた。しかし中盤以降は会場の雰囲気がなじみ、劇の世界にぐっと引き込まれた。モスクワの場末のカフェの一角が、公演会場と一体化したかのようだった。ソーニャの飯田映理子の表情の変化に引きつけられた。抑制された小さな表現で、驚くほど豊かな世界が立ち現れる。本職は声楽家という飯田映理子は、この夜、その声と表情で観客を魅了する素晴らしい女優になっていた。

 偶然このカフェで出会った二人の中年男女の別れで、劇が幕を閉じることは誰でも予測がつく。その終幕の直前の場面、よるべない二人の男女の切ない感情のやりとりが生み出すドラマに心奪われる。

 音楽は一切使われない演出だった。舞台美術は丸テーブルのみ。小道具はグラスとウォッカの入った硝子瓶。しかし言葉と表情が、観客の想像力に作用し、私たちがドラマに求める原点を抽出したかのような豊穣で充実した時間を味わうことができた。終幕後の余韻の深さが何とも心地よい。

 リーディング公演というと、単にテクストを読み上げるだけという単調さを回避するため、台詞に過剰に表情をつけたり、ベタな音楽を多用して観客の感情を強引に動かそうとするような演出がありがちのように思う。しかし本当に優れた戯曲を上演するのであればこれみよがしのそうした演出は必要ない。小道具や俳優の演技は、戯曲を説明するものではなく、観客の想像力を引き出すキューのようなものでありさえすればいい。

 しかしもちろんただ上手に読むだけではだめなのだ。演出家の目論見が上演中は観客には意識されることのないような絶妙な配慮が要求される。単調さとのバランスが非常に難しい。リーディング公演の演出のありかたの理想型がどのようなものであるかを感じ取ることができた公演だった。