閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

『淡野弓子<操り人形と歌の夕べ>~「ユトロ」とともに~』

少女人形に投影された性的幻想:音楽、語り、人形による総合芸術

 

『淡野弓子<操り人形と歌の夕べ>~「ユトロ」とともに~』は、音楽、語り、そして人形の共同作業が、精緻で美しいアンサンブルを奏でる複合的スペクタクルだった。各表現技法の相乗効果が魔術的で幻想的な世界を作り出す。作品は人形作家、井桁裕子が制作した《ユトロ》(ポーランド語で「明日」を意味する)という名前の少女人形に捧げられている。舞台上で朗読された岡本かの子『狂童女の戀』は、この人形を使った公演にふさわしい選択だ。人形はごく小型のものだ。黒子姿の黒谷が人形の後ろにひっそりと立つ。彼女が人形をほんのわずか動かすと、《ユトロ》に生命が宿る。その瞬間「アッ」と思わず声をあげそうになった。この最初の動きだけで催眠術にかかってしまったかのように、いやその手の動き、目の動き(ユトロの目は動く仕掛になっていた)で、すとんと私は本当に催眠術に罹ってしまい、《ユトロ》の世界に引き込まれてしまったのだ。その後はずっと息を呑んで、じっと彼女の姿を目で追いかけた。

 

 私は二十数年前、大学学部生の頃にリコーダー合奏のサークルに所属し、リコーダーを通じて古楽に関心を持つようになり、これがきっかけでギヨーム・ド・マショー、アダン・ド・ラ・アルなどのフランス中世の抒情詩人の研究を始めるようになったのだが、ここ十年ぐらいは演劇に関心が向かい、古楽の世界からはすっかり遠ざかっていた。今回の公演主催者である淡野弓子は長いキャリアを持ち、シュッツやバッハなどのドイツ系古楽のエキスパートの声楽家だが、私は名前を聞いたことがあるくらいだった。人形制作者の井桁裕子については全く知らなかった。

 この公演に私が興味を持ったのは、出演者のなかに人形操演者の黒谷都の名前があったからである。黒谷都については加藤暁子の『日本の人形劇―1867‐2007』(法政大学出版局、2007年)を読んで知った。2011年秋に白百合女子大で加藤暁子の講演会があり、聞きに行ったら黒谷都も会場にいて、そこで彼女の操演をはじめて見た。優れた人形遣いの操演はみな魔術を思わせるのだが、黒谷が操る人形の動きの繊細さ、優雅さに私は魅了されてしまった。

 その後、黒谷の公演を仙川の人形演劇祭で見に行ったら、ポップでアングラ風前衛のわけのわからない舞台だったので、また驚嘆してしまったのだが。その長い人形遣いとしてのキャリア、卓越した操演技術、審美的で芸術的な演目、そして白髪頭と笑顔の迫力で、黒谷都は人形遣いの魔女あるいは傀儡女の呼び名がいかにもふさわしく思える。人形に取り憑かれて、狂ってしまった人のように見えて、黒谷都は強烈な印象を私に植え付けた。

 

 黒谷都が人形操演者として出演した公演はその後、東京で何回かあったのだけれど、公演の時期が私の都合が合わなくて、ずっと見られないでいた。『淡野弓子<操り人形と歌の夕べ>~「ユトロ」とともに~』の告知ページには、黒谷都だけでなく、音楽家の武久源造、俳優の坂本長利の名前が出演者のなかにあったことで、私はこの公演に俄然好奇心を駆り立てられた。盲目の作曲家であり鍵盤楽器の奏者である武久源造は、私のかつてのリコーダーの師が曲を委嘱したことがある作曲家であり、私はその作風を知っていた。私の師匠のコンサートに武久は何度か出演していた。坂本長利は数年前に彼のライフワークである一人芝居、『土佐源氏』を見たのだが、その土俗的な語りの魅力は衝撃的だった。

 

 当日パンフの記述によると、淡野がそもそもこの企画を思いついたのは、2013年に彼女が見た『ハーメルン』(坪川拓史)という映画がきっかけだという。http://www.hameln-film.jp/ この映画に井桁裕子が制作した人形「ユトロ」が出演していて、その操演を黒谷都が行っていた。この少女の人形、ユトロに魅了された淡野に、岡本かの子の短編『狂童女の戀』を語りと人形と音楽を組み合わせて上演するというアイディアが浮かびあがり、今回の上演に至ったとのこと。上演時間は60分、原作の岡本かの子の小説は掌編と言っていいごく短い作品だ。青空文庫で読むことができる。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000076/files/986_14599.html

 詩人が即興で作った童謡を口ずさんで坂道を歩いていると、その様子をうかがっていた坂の上に住む裕福な家の9才の娘に惚れられてしまう。

「ころがせ ころがせ びいる樽とめて、とまらぬものならば赤い夕陽の、だらだら坂を ころがせ ころがせ びいる樽 (北原白秋氏作)」

 美しい娘だったが、この娘は狂っていた。翌日、少女は母親に連れられて詩人の家を訪問する。率直で純粋な少女の愛の告白に、詩人は動揺する。しかし二人の心は通じ合うことはなかった。愛をめぐる緊張感に満ちた「対決」のあと、少女と詩人は別れる。少女の恋は叶えられるわけがない。しかし詩人はその恋愛感情の純粋さと強さに圧倒されていた。少女はその後、間もなくして死んだと言う。

 公演では16才の若さで夭折した少女詩人、山川彌千枝のテキストと岡本かの子の小説の登場人物である詩人のモデルであった北原白秋の詩に基づく武久源造作曲の歌曲、そしてモンテヴェルディのオペラ《アリアンナの嘆き》に含まれるアリアが、淡野によって歌われた。ピアノ伴奏は武久源造である。坂本長利は朗読を担当し、黒谷が少女人形「ユトロ」を操演した。

 

 会場の三鷹芸術文化センター星のホールは250席ほどの座席がある。入場は自由席で整理番号順だった。私は人形の動きをできるだけ近くからじっくり見たかったので早めに入場し、最前列中央の席に座った。舞台はがらんとしている。奥にはピアノ。下手寄り手前にはイスがあり、そこに坂本が座って朗読を行う。上手側にはテーブルが置かれていて、そこにフランス人形ほどの大きさの人形がちょこんと座っていた。これが「ユトロ」だった。想像していたよりずっと小さい。せいぜい2才ぐらいの子供の大きさくらいしかないように見える。床には雑然といくつかのオブジェが無造作に転がっていた。

 

 圧巻だったのは長大で悲壮なモンテヴェルディのアリア、《アリアンナの嘆き》の調べに合わせて踊られる人形の舞である。赤い着物を着ていた《ユトロ》の衣装が一瞬で白いロングドレスへと変わる。2歳ぐらいの子供ぐらいの身長しかなかった《ユトロ》は、一気に等身大の大きさに成長し、白いドレスを揺らしながら妖艶に、優雅に、軽やかに踊る。《アリアンナの嘆き》は、自分のすべてを犠牲にして愛したテーゼオに捨てられたクレタの王女、アリアンナの悲痛な心情を歌うドラマティックなアリアである。アリアンナとは、ギリシア神話クレタ島アリアドネーのイタリア語読みだ。アリアドネーは、クレタ島に生贄としてやって来たアテネのテーセウス(テーゼオ)に恋をし、糸玉を彼に渡して、彼が迷宮ラビュリントスから脱出するのを助けた。アリアドネーはこのため、祖国を追われる身になり、テーセウスと一緒にナクソス島に逃れる。しかしテーセウスは彼女をナクソス島に置き去りにして、立ち去ってしまうのだ。幼く無垢なやりかたで詩人を手に入れようとする少女の切実な思いがアリアンナの姿と重なり合う。当日パンフのなかで、淡野弓子はアリアンナの嘆きに岡本かの子の「狂童女」の原型像を見たと記している。

 《アリアンナの嘆き》とともに踊られる人形の舞踊の場面に、リヒャルト・シュトラウスのオペラ《サロメ》の「七つのヴェールの踊り」の場面を私は想起した。私の手元にあるDVDの英国ロイヤルオペラのマクヴィガーの演出では、この場面でサロメがヴェールを一つ一つ脱ぐたびに、その少女性を保持したまま、誰をもたじろがせる妖艶で官能的な怪物へと変貌し、成長していくさまが表現されていた。狂童女にわき上がった恋の激情を、その少女はもとより、周囲の誰もコントロールすることができない。精神的な軛から解放され、軽やかに自由に舞い踊る少女の姿は、この世の生き物とは思えぬほど美しく、清廉であるが、人を戦慄させるまがまがしいオーラを放っている。

 少女の人形の造形は精緻でリアルであるが、その完成された美しさゆえに非現実的で幻想的な存在のようにも思える。岡本かの子は「狂童女」とこの少女を呼ぶが、そもそも未熟であいまいな自意識しか持ちようがない幼い子供が、自我の確立していない少女が「狂っている」というのはどういうことなのだろうか? 知的障害、発達障害ADHDといった現代の用語では、「狂った童女」はとらえることができない。少なくとも「狂童女の戀」の少女は、見た目と言葉遣いこそ子供らしい幼さを持ってはいるが、その恋に対する執着ぶりは恐ろしく早熟である。

 彼女が狂っているとすれば、それはその身体とは裏腹の驚くべき早熟性のアンバランスの状態を指し示すしかない。しかし実際に自我の確立していない幼い年代の少女が、恋に狂うことはあり得るのだろうか? この早熟性は彼女のなかではなく、むしろそうした少女に官能性を見出してしまう大人の倒錯的な妄想のなかにこそあるのではないだろうか?

 恋に狂う童女は実際には存在しない。このような存在は大人の妄想の中で作り出された虚像に過ぎない。美しい少女の姿の人形、《ユトロ》はこの性的幻想を受け止めるオブジェである。しかし一度、この性的幻想を人形に投影してしまうと、この虚構は圧倒的な現実感を獲得し、今度は大人が自らの幻想に支配され、振り回されてしまうのだ。虚構が現実を脅かし、かき乱してしまうときに全身を駆け抜ける激しい戦慄を、《ユトロ》は生み出す。人形は恐ろしい。《ユトロ》は少女の化身として、われわれが美少女に注ぐあらゆる感情と欲望を受け入れてしまう。しかし一度、そうした欲望を人形に託してしまうと、今度はすぐに人形は反撃してくるのだ。美しく無機的な物体に魂が宿り、我々が投影した一方的でおぞましい欲望が、人形の身体を通して、我々に襲いかかり、われわれの精神を侵食していく。一度、人形に魅入られてしまうと、私たちはそこから逃げ出すことができない。《ユトロ》は美しい妄執として私たちにまつわりつく。

 16才で結核のため、はかなく死んでしまった少女詩人、山川彌千枝をプロローグとエピローグに置く構成が、作品にさらなる深みを与えている。北原白秋と山川彌千枝のテキストのための音楽に武久源造を選択したのは適切だった。彼の音楽では日常的の断片が、複雑なやりかたで引用され、混沌とした音の響きのなかに溶け込んでいる。支離滅裂な夢のなかに突然たちあらわれる、忘れられていた過去の一場面のように、彼の音楽はわれわれを驚かせ、和ませる。そこには逸脱した自由さ、虚構と妄想の楽園が立ち現れる。ニュアンスに富んだ武久源造のピアノの音色は、日常の秩序と束縛から解放された逃避的で閉鎖的な精神のアジールを創出する。

 《ユトロ》という人形を出発点に、淡野弓子はこの人形にふさわしいテキストと音楽を選び、これを舞台化するにふさわしい演者を選んだ。当日パンフに掲載された淡野の前口上、解題、後口上には、淡野のテキスト読解の豊かさと緻密さ、表現手法の選択の的確さを読み取ることができる。複合的な芸術の実現が絶妙のバランスのなかで成立していた。ミニマルな構成のなかで、異なる属性の表現が互いに呼応しあい、互いに翻訳しあうことで、鉱物の結晶を思わせる緊密なポリフォニーを作り出していた。

 難点を敢えてあげるとすれば、舞台美術と照明だろう。舞台美術と照明はまだ多くの可能性を残している。この味わい深い舞台で、ホリゾント幕に照明をあてるだけの舞台空間は、作品の構成、演者の卓越したパフォーマンスを思うと、あまりに平凡に思える。例えばこの舞台の照明と美術が、一昨年SPAC(静岡舞台芸術センター)が舞台芸術公園の楕円堂で上演したクロード・レジ演出の『室内』(メーテルリンクの一幕劇)のように設計されていたら、あるいは暗闇のなかにぼんやりと《ユトロ》が浮かび上がるような、例えば長谷川潔のメゾチント版画のような、暗くて幻想的でノスタルジックな空間が設計できていたら、どれほど作品の奥行きが広がっていただろうか、どれほどイメージ喚起力が強化されただろうかと想像せずにはいられなかった。

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淡野弓子<操り人形と歌の夕べ>~「ユトロ」とともに~

http://www.musicapoetica.jp/record.php?year=2015&key=165

[曲目]

【序章】

武久源造:『薔薇は生きてる』より <バラの花よ>(詩:山川彌千枝)

【朗読(人形「ユトロ」とともに)】 

岡本かの子:『狂童女の戀』

【挿入歌】

C.モンテヴェルディ:<アリアンナの嘆き>(詩:O.リヌッチーニ)

武久源造:<ころがせ、ころがせ、びいる樽>(詩:北原白秋

【終章】

武久源造:『薔薇は生きてる』より <風の中の桜>(詩:山川彌千枝)

[会場]三鷹市芸術文化センター 星のホール

[時間]2015年5月1日 (金)19:00開演 (18:30開場)

[料金]一般(自由席):4,000円 学生(自由席):2,500円

[出演]

作曲/ピアノ/チェンバロ武久源造

朗読:坂本長利

メゾソプラノ:淡野弓子

人形[ユトロ]操演:黒谷都

人形[ユトロ(Jutro)]制作:井桁裕子

「ユトロ」・プロジェクトチーム

大野幸/井桁裕子/石山友美/佛願広樹/風間久和/仲村映美(響和堂)