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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

義太夫節研究会第一回研究成果報告会「五十回忌追善 十代豊竹若太夫を振り返る」

11/27(日)13時〜15時45分
東京藝術大学音楽学部5-401特別講義室
第一部が太田暁子氏と神津武男氏の講演、第二部がこの二人が聞き手になって、人間国宝の豊竹嶋太夫と竹本駒之助に十代豊竹若太夫の想い出を語ってもらうという座談会。
開始時間を勘違いしていて開場に到着したのが十三時半過ぎだった。太田暁子氏の発表は聞くことができず。神津氏の発表を聞いた。発表の冒頭の切り込み方がとてもいい。十世豊竹若大夫の五十周忌への黙祷を会場内の参加者に促し、捧げた後、それを国立劇場五十周年へとつなげる。今年五十周年を迎えた国立劇場では様々な企画・展示が行われたが、神津氏曰く、そのなかで文楽のありかたについて正面から論じた評言、総括が見当たらない。現代における文楽興行の担い手の要である国立劇場が、その責務を十分に果たしていないではないかと批判しているのだ。そして文楽の現在において、彼が研究者として語るべきことを語るという覚悟を宣言しているのである。気鋭の文楽研究者である神津氏のこの鮮やかな啖呵には、私は思わず背筋が伸びた。研究対象である文楽への深い愛情と研究者としてその対象を責任をもって引き受ける強い使命感を感じたからだ。狭い世界内部のヒエラルキー、人間関係に神経をすり減らすアカデミズムの世界では、若手の研究者がこうしたことはなかなか言えるものではない。
神津氏の今日の発表は30分。十代豊竹若太夫の生きた時代(明治・大正・昭和)が、義太夫節の歴史のなかでどういう意味を持つかを、資料として配付された人形浄瑠璃略年表を参照しつつ解説するという内容だった。かつては文楽の公演は「通し」で上演されるのがスタンダードだった。これが「見取り」中心の公演になったのは、昭和5年(1930)の四ツ橋文楽座の開場がきっかけである。「見取り」が公演の中心になることで、芸のあり方も全体の構成を反映した大きくダイナミックな芸から細部に工夫を凝らした小さな芸へ移行していった。当然、観客の文楽の受容のしかた、評価のポイントの大きく変わっていく。昭和41年(1966)に国立劇場が開場し、文楽興行の担い手の主軸となるが、「見取り」中心のプログラムはそのまま踏襲され、この傾向は現在まで続いている(むしろ「通し」上演は、『忠臣蔵』など極めて少数の公演に限られている)。文楽研究の成果を踏まえた通し狂言の再興という方向には消極的で、惰性で見取り公演を国立劇場が続けていることに神津氏はおそらく不満があるのだと思う。私は日本の伝統芸能には門外漢ではあるけれど、現代ではほぼ上演される可能性がない古代ローマ劇や中世ラテン語劇、中世フランス語劇の上演可能性やポエム・アルモニークが行ったような17-18世紀のコメディ・バレ、オペラの歴史的再現公演などと、文楽・歌舞伎の復活狂言のあり方は比較できる部分があるかもしれない。フランスでは古い時代の演劇伝統は途切れてしまっていて、ポエム・アルモニークなどの例では文献資料などをもとに最初から歴史的なすがたを作り上げていく、再現を目指すということになるが、日本の伝統芸能の場合、なまじ昔から繋がっているだけに、どのように再現するかについては特有の難しい問題が出てくることは想像できる(とりわけ受け継がれてきた技術・習慣への強いこだわりが演者にはあるはずだが、歴史的再現は演者の身体にしみついた「あるべきありかた」と対立することが少なくないだろう)。
発表内容も興味深かったのだが、はっきりとした発声、緩急をつけた話し方、強調のしかた、そしてユーモアといった神津氏の発表パフォーマンスにも感心した。やはり舞台芸術研究者ならば自身の発表パフォーマンスにも配慮が必要だ。話の内容の説得力も増すというものだ。
後半は嶋太夫、駒之助師匠の座談会だが、この座談会導入もGoogleMapをプロジェクタで映し出して、嶋太夫師匠が内弟子として過ごした十代豊竹若太夫旧宅付近を辿るという趣向があった。若大夫師匠の旧宅は大阪、住吉大社の近くの二階長屋だった。若太夫師匠が亡くなって五十年たっているので当然周囲の街並みには大きな変化があるのだが、それでも若太夫旧宅の隣にあった酒屋の建物はまだ健在だったし、その隣にあるパン屋にも嶋太夫師匠は記憶があると言う。
主に神津氏のリードで、嶋太夫、駒之助師匠が彼らの師匠であった若太夫の想い出について語る。大体80パーセントは嶋太夫師匠が話していた。師匠の話す内弟子時代の想い出が本当に面白い。嶋太夫師匠と駒之助師匠は文楽で最後の内弟子世代なのだそうだ。「内弟子はつらいですよ」とまず子守の話から。若大夫師匠は夜も朝も早かった。隣は酒屋だったけど若大夫師匠は下戸だった。師匠の晩御飯はトースト一枚だけ。パン好きだった。若太夫は目がほとんど見えなかったので、その身の回りの世話はかなり大変だったはずだ。
長屋の二階の三帖間で内弟子は寝起きし、稽古を受けた。ご飯はあんまりお米が入っていない薄いお粥だった。昭和二十年代の当時はどこもそんな感じだったそうだ。お粥は食べるというよりは飲む感じ。朝9時頃から通いの弟子がやって来る。稽古は通い優先で、内弟子の稽古は後回しだった。 実家にはお盆・正月の四日間だけ帰省できた。その時に実家から小遣いを貰えた。それをちびちび使って食べ物などを買った。若大夫師匠が近所で金を使うのは風呂屋に行く時くらい。ただ師匠は風呂嫌い。風呂に入ると「脂が抜けてしまうから」だそうだ。
当時の石鹸は鯨脂で作っていた。師匠家族7人だったので洗濯が大変だった。長屋だったので洗濯の物干し場は両隣と共用。隣の酒屋のお嬢さんに「洗濯好きなんやねぇ」と声かけられ、「えぇ」という微笑ましいやりとりもあったそうだ。
若大夫師匠は酒もタバコもやらなかったが、とにかく賭け事大好き。競馬、競輪、米相場。賭け事は常に大穴狙い。「文楽も米相場も死ぬ気でやる」。しかし嶋太夫師匠は払戻し窓口に行ったことは一度もない。
駒之助師匠は、若太夫師匠の付添で(目が悪かったからだろう)新町の赤線まで案内させられたことがあったとか。師匠を送り届けてから、家でおかみさんにあそこが赤線であることを聞き、以後二度と新町への送り迎えは断ったとか。おかみさんは「あそこに行ってくれるとうちは楽でええんや」と言っていたそうだ。
など色々、当時のエピソードが出てきて、非常に興味深い。神津さんのつっこみと嶋太夫師匠のぼけ、そして師匠の口から語られる若太夫師匠の大らかで破天荒な生活ぶりのおかしさに何度も大笑いした。