閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

平原演劇祭2017第一部『未成年安愚楽鍋』

構成:高野竜

出演:中沢寒天、耳見みみ、杏奈

会場:西日暮里じょじょ家

お品書き:

  1. 序(三池崇史『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』より)
  2. 菅原孝標女更級日記』上総〜相模
  3. 諸工人の侠言(しょくにんのちうッぱら)(仮名垣魯文安愚楽鍋』より)
  4. 人車の引力語(ひきごと)仮名垣魯文安愚楽鍋』より)
  5. 讃岐の国の女冥土に行きて、其の魂還りて他の身に付きたる語(『今昔物語』より)
  6. 落語家の楽屋堕(はなしかのがくやおち)仮名垣魯文安愚楽鍋』より)
  7. のっそりジュヴェーヌ(幸田露伴五重塔』より)
  8. 飛天夜夜叉(幸田露伴五重塔』より?)
  9. 菅原孝標女更級日記駿河

 

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埼玉県宮代町在住の劇詩人・演出家の高野竜がプロデュースする平原演劇祭2017第一部に行ってきた。場所は西日暮里駅から歩いて数分のところにあるじょじょ家というカフェ(おそらく)。店内のテーブルや椅子を外に出して、公演会場としていたのだが、それでも内部は八畳間ぐらいの広さしかない。

17時開演なので、その20分ほど前に会場に到着したのだが、既に人で埋まっていて通常の椅子席はすべて塞がっていた。最終的にはこの狭い場所に出演者3名を含め20名ほどの人間がひしめきあう状況になった。

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今回の演劇祭では「安愚楽鍋」という演目にちなんでスキヤキ付きだ。実際供されたのは「スキヤキ」と呼ぶべきかどうか微妙だが、肉の入った鍋料理がこの狭い会場内で調理され、主宰の高野竜がふるまった。しかしこの狭い会場に人がぎっしりの状態なので、なかなか肉鍋が観客に行き渡らない。狭い中、身体を寄せ合い、観客は肉鍋を食べる。食べ物も平原演劇祭の演目のひとつなので、食べないわけにはいかない。肉鍋はあっさり醤油味で、牛のすじ肉とネギ、豆腐などが入っていた。いつもの平原演劇祭以上のぐだぐだの状況のなか、十分押しでとにかく公演は始まった。

公演内容は未成年10代の少女三人によるリーディング公演だ。狭い場所に人が密集しているので客と演者の距離は数十センチしかない。演者は観客に至近距離で取り囲まれる中でリーディングを行わなくてならない。『未成年安愚楽鍋』という公演タイトルだが、会場では読まれたのは『安愚楽鍋』だけではなかった。上に記しているお品書きにあるテクストが読まれた、というよりは上演されたのだが、この「お品書き」、即ち朗読テクストのリストは観客全員には配付されなかった。これは不親切だ。配付を忘れていたのか、それとも最初から配付する気がなかったのか不明だが。

公演時間は約70分。70分のあいだ、三人の十代女優が「お品書き」テクストを上演していくが、私も含め、観客のなかで彼女たちが語る日本語の意味をちゃんと追えた人はいなかったのではないだろうか。まずオープニングの『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』の冒頭部再現(スマートフォンでの映像とシンクロさせて上演された)はすべて英語だ。もちろん字幕なし。それから平安時代のテクストである「更級日記」(読まれているときは作品名は私にはわからなかった)の抜粋、その後ようやく『安愚楽鍋』から「諸工人の侠言」(これも後で「お品書き」を見てわかった)。「諸工人の侠言」については、ウェブ上に転写している人がいた。

 

「エエ、コウ、松や聞いてくれ、あの勘次の野郎ほど附合つきあいのねえまぬけは、西東にしひがしの神田三界かんださんがえにゃアおらアあるめえと思うぜ。まアこういう訳だ聞いてくりや、夕辺ゆうべ仕事のことで八右衛門さんの処とこへ面ア出すと、ちょうど棟梁とうりうが来ていて、酒が始まっているンだろう、手めえの前めえだけれど、おらだって世話焼きだとか犬いんのくそだとか言われてるからだだから、酒を見かけちゃア逃げられねえだろう。しかたがねえからつッぱえりこんで一杯いっぺえやッつけたが、なんぼさきが棟梁とうりう大工でえくでもご馳走にばかりなッちゃア外聞げえぶんがみっともねえから、盃を受けておいてヨ、小便をたれに行く振りで表へ飛び出して横町の魚政うおまさの処とけへ往いってきはだの刺身をまず一分いちぶとあつらえこんで、内田へはしけて一升とおごったは、おらア知らん顔の半兵えで帰けえってくると、間もなく酒と肴がきた処とツから、棟梁とうりうも浮かれ出して、新道しんみちの小美代を呼んで来いとかなんとか言ったからたまらねえ。藝妓ねこが一枚いちめえとびこむと八右衛門がしらまで浮気うわきになってがなりだすとノ、勘次の野郎がいい芸人の振りよをしやアがって、二上にあがりだとか湯あがりだとか蛸坊主が湯気ゆげにあがったような面つらアしやアがって、狼の遠吠えでさんざツぱら騒ぎちらしゃアがって、その挙句が人力車ちょんきなで小塚原こつへ押しだそうとなると勘次のしみツたれめえ、おさらばずいとくじを決めたもんだから、棟梁も八さんもそれなりになってしまッたが、エエ、コウ、おもしろくもねえ細工せえくびんばう人ひとだからだ、あの野郎のように銭金ぜにかねを惜しみやアがって仲間附合を外すしみったれた了簡なら職人をさらべやめて人力じんりきの車力しゃりきにでもなりゃアがればいいひとをつけこちとらア四十づらアさげて色気もそツけもねえけれど、附合とくりゃア夜が夜中よなか、槍がふろうとも唐天からてんぢよくからあめりかのばったん国までも行くつもりだア、あいつらとは職人のたてが違わあ。口はばツてえ言い分だが。うちにやア七十になるばばアにかかアと孩児がきで以上七人ぐらしで、壱升の米は一日いちんちねえし、夜があけてからすがガアと啼きやア二分にぶの札がなけりゃアびんばうゆるぎもできねえからだで、年中十の字の尻けつを右へぴん曲るが半商売だけれど、南京米なんきんめえとかての飯は喰ツたことがねえ男だ。あいつらのようにかかアに人仕事をさせやアがって、うぬは仕事から帰けえツて来ると並木へ出て休みにでっちておいた塵取ごみとりなんぞをならべて売りやアがるのだア。すツぽんにお月さま、下駄に焼き味噌ほど違うお職人さまだア、ぐずぐずしやアがりやア素脳天すのうてんを叩き割って西瓜の立売にくれてやらア。はばかりながらほんのこったが矢でも鉄砲でも持って来い、恐れるのじゃアねえわえ、ト言い掛かりやア言いたくなるだろう、のウ松、てめえにしたところがそうじゃアねえか。オイオイ、あンねえ《女》熱くしてモウ二合ふたつそして生肉なまも替りだア、早くしろウ、エエ。

江戸末期・明治初期の戯作文の語り文体、こんなものを早口で一気に読み上げられてその意味を追える人は、平原演劇祭という特異な演劇公演の観客のなかにもそうはいないはずだ。そもそもこれを快速で語っている女優も意味を追いながら読んでいるとは思えない。演者である女優三人の前には、小型の電気グリルが見台のごとく置かれていて、そこで肉を焼きながら彼女たちは語っていた。

お品書きを後で見てわかったことだが、仮名垣魯文安愚楽鍋』からの抜粋が3つあるが、これ以外のテクストが『安愚楽鍋』とどういう繋がりを持っているのか、「序」の「スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ」を除いて私にはわからない。

「諸工人の侠言」、「人車の引力語」と二つ『安愚楽鍋』からのテクストが演じられた(と言うべきだろう)あと、『今昔物語』から「讃岐の国…」という幻想譚(鬼が出てくる幻想譚であることはかろうじてわかった)が奇妙な仮面を被って朗読される。その後に『安愚楽鍋』から「落語家の楽屋堕」。つぎの『のっそりジュヴェーヌ』は、エッフェル塔建設に己の職人としての全存在をかける大工の話で、「あれ?どっかで聞いたような話だなあ」と思っていたら、幸田露伴五重塔』のパロディだった。私は前進座の公演で『五重塔』を見ていたので、聞き覚えがあったのだ。でもなぜ『五重塔』?と思う。最後は『更級日記』で終わる。

一月のこの時期に『安愚楽鍋』を未成年女優に朗読させ、観客に「すきやき」(かっこ付きだが)をふるまうというアイディアには、何らかの理由があるに違いない。そして一見、つながりがみえないテクストの構成にも意味があるのだろう。

観客にとって意味が取れないテクストを延々と聞かせるために、観客に肉鍋を食わせたりする他、時折楽器などで効果音を入れたり、三人娘に合唱させたり、食べさせたり、飲ませたりといったいくつかの緩やかな趣向はあった。

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こんな窮屈な場所での意味不明のパフォーマンスが公演として成立するのか、と問いたくなる人もいるかもしれないが(私自身が、自分でも問うていたのだが)、これがちゃんと成立している。もちろんいわゆる演劇公演とは異なるありかたで、こうした時空の共有がパフォーマンスを軸に成立していたのだ。

いったいわれわれ観客を何を聞き、何を見ていたのか。意味不明だが確かに日本語ではある言葉の音楽的な連なりを、その意味を追うことをあきらめたままぼんやりと聞き、さらにぐつぐつと鍋が煮え立つ音を聞き、そして時折、電車の通過音を聞いた。

高野竜の平原演劇祭は、様々な趣向でその場にいる者を強引に内輪として取り込み、彼らをまとめて別の時空へ連れて行ってしまう。

今日の公演で一番印象に残ったのは、最初の肉鍋で出てきたすじ肉の旨みだった。一応の公演終了後、再び鍋に追加された野菜や肉が観客にふるまわれた。牛肉はすじ肉だけ。あとは豚やら鴨やら。こんな窮屈ところで、立ったまま、知らない人と飯を食うなんて落ち着かないなあと私は思ってしまうのだが、それでもなぜか食べてしまう。鍋はすぐに空っぽになっていた。