閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第三日目(1/27)

theatercommons.tokyo

パスカルは二日目のワークショップの最後に、次のような奇妙な指示を出した。「最終日の三日目は、あなたたちに今日行った都市のリサーチの報告をしてもらうのですが、もちろんどんな形式での報告でもかまいません。ただ一つお願いしたいのは、一つの報告が終わったら、それじゃあ次の報告、それから次の報告、という具合に次々と区切りをつけて報告が行われるというかたちではやって欲しくないのです。各発表はあるがまま、なすがままの経過の中で、自然でゆるやかな連鎖によって行って下さい。一つの発表をそれに必要と思われる時間を十分に使って行い、それをしっかりとみなが受けとめてから、連鎖的に次の発表が始まるような感じで。発表は数秒でも数十分でも必要な時間、使って下さい」
私は質問した。
「それでは全員が成果を発表できないかもしれませんね?」
この質問に対してパスカルは、「それはしかたない。C’est la vie(そういうもんだよ)だよ」とそれがごく当然のことであるかのようにさらっと答えたのだった。

 この徹底して開放的なパスカルの発想に私は感動し、共感しつつも、「とは言うもの、そんなあいまいな話で実際うまくいくのだろうか?」とも思っていたのだ。互いに様子を伺い合い、停滞するなかで、結局、誰かが仕切らなければ進行しないのではないか?こんな曖昧でいい加減な指示で、人は果たして自主的に動くことができるのだろうか? 教育の実践の現場で、教員が準備不足の状態で、いきあたりばったりの曖昧な指示を与えたために、学生はかえって混乱して場が停滞してしまうということが度々ある。学生を「自主的に」動かそうとするのであれば、その指示は明確で具体的でなければならない、というのは私に染みついた経験則となっていた。

そして三日目がはじまった。参加者のなかには開始時間よりもかなり早くこの場にやってきて、プレゼンの準備を行っていた人もいた。

さあ14時、三日目のワークショップの開始時間となった。今回のWSの企画責任者である相馬千秋さんからまず挨拶があった。その後、パスカルの呼びかけで集合写真を撮ることに。暗くなってしまってからではうまく撮れないかもしれないとのことで。椅子を部屋の端に寄せて、集合写真を何枚か撮る。集合写真を撮り終わると、パスカルは部屋の端っこに置いてあった椅子に座り、そのまま機嫌よさそうに腕組みをして様子を眺めている。彼は何も言わない。よどんだ停滞の時間がしばらく続く。

「えっーっと、これではじめるんだ。うーん、どうしようか」と参加者の多くは心の中で思ったに違いない。何分かかの手持ちぶさたの時間、というよりは回りの様子を伺っているような不安定な時間が過ぎた。最初にはじめたのは、一般の人たちと即興劇の活動を行っていると自己紹介したDaichi Sasakiさんだった。彼が昨日見た、そして経験した公園の情景が再現される。公園で遊ぶ子供たち、その子供たちを引率する女性と黒人の英語の先生がいた。この黒人の先生にDaichiは話しかけたらしい。この情景が何人かの参加者によってDaichiの指示のもと再現される。
昨日は各人がそれぞれ個別に町を取材していたし、『都市をみる/リアルを記述する』というテーマだったので、私はそれを文字通り受取り、発表は個人ベースで、写真などをもとにした口頭報告のようなものが多くなるのではと思っていた。なのでこのような演劇的形態から成果発表が始まったことに、ちょっとした衝撃を受けた。結果的には参加者のかなりの部分(2/3ぐらい?)を占める演劇・パフォーマンスの作り手は、自分の観察してきた都市情景を演劇的に再現する方法を選択していて、それは彼らにとってはごく当たり前の選択だったのである。この最初のパフォーマンスで、私はこの成果発表の午後の空気のなかにすっと引き入れられてしまった。公園で遊ぶ子供たちとその保護者(?)、黒人の英語の先生
この後、大学生のTakutoと女優のMeguが椅子に並んで座る。二人は座ったまま、ジェスチャーを交えながら、彼らが昨日、芝浦界隈で見てきたことを互いに報告しあっている。このTakutoとMeguが、この前のDaichiによる公園の情景の再現からどのように移行していったのかについては覚えていない。気がつくとTakutoとMeguの対話報告が始まっていた。
Takuto et Megu
しばらくの停滞の時間がこの後あったかもしれない。タイと日本で演出家として活動するShogoがおもむろに心もち上方を向いて、部屋のなかを歩き回る。しばらくすると別の参加者が立ち上がって、部屋をデタラメに歩き回っている。その人数は段々増えていった。振付師のSeiがA4の紙を配付している。Seiからその紙を貰った者が立ち上がって、部屋をデタラメに歩き回ることになっているようだ。歩き回る人たちはその紙を見ながら歩いている。紙には何が書かれているのか気になる。おそらく紙の記述に基づき、彼らは歩き回っているのだろうが、それぞれの移動のしかたには共通性があるようには見えない。パスカルも紙を貰って歩き始めた。移動する人がどんどん増殖していく。同じ空間のなかで、多くの人間が無秩序に動き回っているだけでも不思議な演劇的な風景が出現するのだなあ、と思い、感心しながら私は歩き回る人びとを見ていた。最初に歩き始めたShogoが立ち止まった。Seiは「終わったら戻っていいです」と言っている。Seiが私にも紙を渡してくれた。その紙には次のように書かれていたのである。
Seiが渡したA4の紙
「?」
最初の数秒間、私はこの表の意味がわからなかった。数秒後にこの表の記述の意味がわかったとき、私は「ヤラレタ!」と心の中で声をあげた。そこには、Seiが昨日午後に芝浦の町を歩いた道筋とそこで彼が見たものが書かれていたのだ。デタラメに歩いているように見えた参加者たちは、この指示書に従い、SHIBAURA HOUSEの一室でSeiの散歩の道筋を再現していたのだ。SHIBAURA HOUSEの側面は硝子張りなので、彼が昨日辿った道筋はこの屋内から見渡すことができる。バーチャルな街並みが、A4の紙の指示とそれに従って室内を歩く私によって、このSHIBAURA HOUSEの部屋のなかに立ち現れるのだ。何と言うアイディアだろう!こんな発想には私には到底思いつかないものだ。もう降参するしかないような気分だが、仕掛けがわかり、街並みが見えてきたときの爽快さは何ともいえないものだった。
バーチャルな町中散歩
今度はタイと日本で活動する演出家Shogoが指示を出す。男性と女性、全員が参加するパフォーマンスだ。彼が昨日、夕暮れに向かう芝浦の町で見た歩く人びとの姿が再現される。男たちは田町駅からビジネス街に向かうサラリーマンとなる。急ぎ足で脇目もふらず、空間を角張ったかんじで回りながら、たったと歩く。Shogoは高層ビル街の公園のなかの母親たちの姿も見た。彼女たちのあゆみはもっと柔らかくて曲線的だ。音楽家のMasaのクラップとMakiの声がこうした情景で聞こえる音を即興的に作り出していく。
芝浦の町を歩く人びと
夕暮れが町を照らす。運河をまたぐ橋の上には、それまでとはちがった人たちが歩いていた。大学生の三人、女優たち、そしてひょこひょこと奇妙な動きで移動するダンサーたち。芝浦の町を行きかうさまざまな人間たちを夕暮れが迫る町の風景の移行とともに叙情的に再現した作品となった。
夕暮れの芝浦の町の情景を演劇的に描き出したShogoの作品のあとは、部屋のカーテンが閉められ、Okinoのプレゼンテーションが始まった。Okinoは観劇中年男性だ。とりわけこのような観客参加型の町歩きパフォーマンスが「好物」とのこと。観劇中心の生活を送るため、フリーターをしている。海岸沿いの埋め立て地にある芝浦の界隈には、新しい高層ビルが次々と建てられている。オフィスビルの壁面の多くはガラス張りになっていて、そのガラスがその周辺の風景を映し出している。彼が昨日の散歩で好んで撮影したのは、ガラス張りのビルに映り込む複層的な町の風景だ。
ビルの壁面ガラスに映り込んだマンション
カーテンが閉まったまま、次のプレゼンテーションが始まる。30歳にしてSEの職を辞し、劇作家を目指すTakaが壁面に動画を映し出した。公園でバスケットボールをやっている少年の映像がしばらくのあいだ流れる。それからその公園で遊んでいる親子の姿、公園のそばを走るモノレールにカメラが移動する。ここでカーテンが少し開けられ、Ryuzoのパートに移行する。Ryuzoは自分の子供時代の記憶を芝浦の公園の風景に重ねて、歩きながら語る。ちょっとポエム風の語りの一人語りだ。
この後は私のプレゼンだったように思う。再びカーテンが閉められ、写真のスライドが壁面に映し出される。私は東京の町の風景を形作る主要な要素としてコンビニに注目した。SHIBAURA HOUSEの半径500メートル圏内にある10軒のコンビニを回り、各店舗の写真を撮った。コンビニの写真だけでは面白くない。コンビニという東京の町の要素を発見することを通して、私自身も変化していったことを示したい。そこで各店舗の前で、これまで人には見せたことのない様々な表情の私を自撮りすることにした。普段はしない自撮りを通して、自分というものをこの機会に見つめ直すのだ。
こういう「コンビニと私」を10軒分撮影した。
10軒分、こういう「コンビニと私」の写真を並べたのだけれど、プレゼントしては単調だった。10枚同じような写真を並べるだけでなく、あと一ひねり何らかの仕掛けが欲しかったところだ。そこから何らかの意味が立ち上がってくるような。最初に意味を説明し、あとのプレゼンはその確認だけで終わってしまった。しかし似たような雰囲気の叙情的な「語り物」プレゼンが続いていたので、こうした幕間狂言的なものが入ってもいいだろうと。
カーテンが閉まった状態の薄暗い空間で、今度はフランス地域文化を専攻する東大生のYasuが椅子に座って話しはじめる。芝浦には工事中のビルが多い。工事中のビルは白い隔壁で囲まれている。法によってそうしなくてはならない定められているのだ。工事中のビルの隔壁には、その法の内容を説明する同じ文章が記されている。ビルの建設現場の近くのビルには、「土地の二重使用、建設反対」の文字が記された看板もあった。彼は工事現場のビルとビルのあいだに一時的にできた袋小路の路地にあえて入り、白い壁の向こう側にあるこの不思議な空間の美しさに気づく。しかしこの空間の面白さは、外界からの気まぐれな訪問者である彼だからこそ気づけるものだったかもしれない。工事中のビルに反対する付近の住民たちにとっては、殺風景な白い壁に囲まれた空間でしかない。Yasuは彼が観察した工事現場のビルの町、芝浦から三部構成の演劇が作れないだろうかと、回りの人間に問いかける。
工事中のビルのあいだの路地に美しさを見出す
第一部はカーテンを閉め切ったSHIBAURA HOUSEから始まる。工事現場から出る騒音をデシベルで示す数字がカーテンに映し出される。そのデシベルの数値は変化し続けている。第二部は工事現場を被う白い壁に貼ってある警告文を剥がし、その前で何かパフォーマンスを行う。第三部はSHIBAURA HOUSEのカーテンを開け放ち、外側に広がる芝浦の町の景観をテーマに何かをやってもらう。
ひとり語りのプレゼンテーションが続く。Yasuの次に話しはじめたのは、フリーの俳優のSakoだ。Sakoは移動しながら、時折パントマイム風の再現を交えて、コミカルな様子で彼の昨日の町歩きの様子を再現して見せた。最初はYasuを引継ぎ、カーテンの閉まった薄暗い空間で、途中からカーテンを開け放った光のなかで、彼が観察した状況や人の様子がコミカルに演じられる。動きやポーズの美しさと面白さは、さすが俳優だなと思わせる技術があった。語り口もひょうひょうとした喜劇調で面白い。
昨日の夕方、見かけた人物の様子を再現するSako
地域リサーチに基づく演劇に関心を持つ演劇学科所属の学生、Yoshikuniが女優のTomomiと表象文化専攻の東大生、Takutoを呼び出した。三人は糸電話で繫がれる。最初はTomomiが小声で糸電話で話す。小声なのでその内容は、糸電話で繋がっているYoshikuniとTakutoしか聞き取ることができない。YoshikuniとTakutoは、糸電話を通して聞いたTomomiの話の内容を復誦する。私たちはYoshiuniとTakutoを介して、Tomomiが語った内容を知る。次はTakutoが話し、最後はYoshikuniが話し、他の二人は聞き取った内容を復誦する。話の内容は昨日の散策で彼らが目にしたものだ。最後は三人とも話すのをやめ、糸電話を耳に当てたまま、じっと佇んだ。彼らだけに聞こえる音と風景をしばらくのあいだ、その場で感じとっていた。この最後の場で、糸電話越しの報告は美しい詩となった。私たちも彼らを見ながら聞こえない音に耳をすます。
三人は糸電話を耳に当て、しばらくのあいだ佇んでいた。
14時に始まってから2時間以上がたった。休憩の時間があえて設けられることはない。これは自己紹介で終わった初日もそうだった。必要なときに必要な人はそっと部屋を出て、トイレに行ったり。あるいは外に出て空気を吸った人もいたかもしれない。パスカルはずっと部屋の中にいた(フランス人は本当にトイレに行かない)。
Shumpeiはダンサーだが、自分の身体を使ったパフォーマンスで、彼が見た風景を再現する方法は取らなかった。真ん中の空間の床上にiPhoneがそっと置かれる。参加者はそれをとりかこむかたちで部屋の端のほうに座っている。四人の俳優がShumpeiから渡された断片的なテクストを読みあげる。それはShumpeiが昨日目にしたモノの名称、すなわち名詞が列挙されたものだった。ガランとした中央の空間に置かれたiPhoneに向かって、複数の読み手が玉入れの玉を入れるかのように言葉を投げ入れている。
複数の読み手が、iPhoneにことばを投げていく。
読み手の言葉はばらばらと投げかけられる。読み方については各読み手に任されているようだ。時に声が重なり合うこともあった。後で彼らが読み上げたテクストを見せて貰った。「港区芝浦3丁目14番地8と9のすきま」と左上に書かれている。テクストはタイポグラフィによる視覚的な詩だ。おそらくShumpeiが見たさまざまなモノがあった位置に、そのモノの名前が記されているのではないだろうか。バラバラの方向に並ぶ名詞の羅列によって、芝浦の風景を構成するモノたちから受けた印象をできるだけそのまままのかたちで表象しようされている。私たちは無機的なモノの名前がばらばらと響き合う空間のなかで、都会の風景が伝える孤独を感じとった。
タイポグラフィ詩「港区芝浦3丁目14番地8と9のすきま」
フリーの女優のShihoが空間の中央に椅子を持ってきて座った。彼女は足をブラブラさせながら、彼女が見てきた町の風景を語る。目を閉じて公園の子供たちの声に耳をすませたり、彼女が観察した鳥の様子を、大きく優雅な手の動きとともに説明したり。
椅子に座り、町の様子を語る
この後には、音楽家のMasaが現れ、声楽家のMakiと振付師のSeiを呼び出す。MasaがMakiとSeiに何か指示を出している。SeiとMakiはとりとめもない立ち話を始めた。Masaは二人から少し離れた場所に立って文庫本を読んでいる。SeiとMakiの立ち話の声はしばらくすると聞こえなくなる。しかし二人は相変わらず同じ場所に立って、声を出さないまま立ち話を続けている。Masaは体の向きを変えたり、腹ばいになったり、寝転んだりするが、二人のほうに注意を払っている様子はない。しばらくそんな場面が続いたところで、中断。二人はあるタイミングでその場を去る設定になっていたらしいが、その合図の打ち合わせがうまくいっていなかったようだ。
二人と一人
「もう一度やりなおし」
やり直しでは二人があるきっかけで、Masaに気づき、その場を去っていく。Masaもその場所から退場していく。突然、同じ場所にいる見知らぬ他者の存在が妙に気になってしまい、場の安定が揺らいでしまうような居心地の悪い時間が表現されていたのだろうか。
女優のTomomiも昨日の自分の散歩の様子を語る。中央にSHIBAURA HOUSEと見なす小さな円筒形のオブジェを置いて、そこから彼女が外に出て、何を見たのかが報告される。彼女は散歩の様子を語るにあたって、その話を聞くパートナーを募集する。聞き手に指名されたのはDaïchiだった。TomomiはDaichiに昨日の散歩の様子を動作を交えて再現していく。DaïchiはTomomiについていき、ひたすらその話をあいずちをうちながら聞いている。
Hitomiはダイナミックに動きながら、昨日の散歩を再現する。
さて一通り、Daichiに昨日の散歩の様子を説明し終えると、Tomomiは今度は別の人物(SakoかRyuzoのどちらかだったと思う)を呼び出した。そしてDaichiに今、彼女が語った散歩の様子をそのまま同じやりかたで、三人目の人物に伝えるようにリクエストする。予想外のリクエストに「え?!」と戸惑いの声を上げたDaichiだが、言われた通り、今度はDaichiがTomomi役となり、最初からその散歩の様子が三人目の人物に反復される。語り手と聞き手が異なる人物にリレーされることで当然、表現にはズレが出てくる。このズレが、夕暮れの町の風景をさらに重層化させる。
Tomomiのパフォーマンスが終わった頃には日が落ちて、ガラスばりのSHIBAURA HOUSEの中も暗くなっていた。スタッフに「電気はつけてはいけないのですか?」と尋ねると、パスカルからの指示で照明をつける、つけないは、パフォーマーが決めることで、スタッフの判断で電気をつけることはできないという返事だった。
女優のMegumiのパフォーマンスが始まった。彼女は照明を点けた。しかしその光はオレンジの弱々しいものであり、空間を煌々と照らすものではない。彼女が演じたのは厳粛な儀式を思わせる静謐な演劇だった。
小さな箱を大事そうに持って、彼女は歩き始めた。
Meguは小さな箱を両手で抱え、無言のまま部屋を横切って、窓際に座っていた男性(Yoshikuniだったような気がするがはっきり覚えていない)のほうへまっすぐ歩いて行く。そしてその男性に何か耳打ちすると、二人は部屋の端に置いてあったテーブルと椅子へ向い、他の人間には背を向けて、椅子に隣り合って座り何か話している。話し声はかすかに聞こえるが、何を話しているのかはわからない。そこはその二人だけの空間であり、私たちはそれをただ見ているしかない。
部屋の片隅のテーブルに座り、二人は小さな声で会話している。
7-8分、そうやって二人で話していただろうか。Meguは部屋から退場し、男はもとに座っていた場所に戻る。彼らが座っていたテーブルの上には、iPhoneが置かれていた。二人がいなかったあと、iPhoneのスピーカーから二人の会話が流れてきた。窓の外のビルの光、薄暗い部屋の片隅、やわらかいオレンジの照明の下で、無人のテーブルから録音された男女の会話が流れてきた。その声が流れているあいだ、私たちの体は硬直し、その場から動いてはいけないような気分になった。
このセンシティブな演劇を引継ぎ発表を始めたのは、女優のMizukiだ。
「このSHIBAURA HOUSEの界隈で一番たくさんの人が行き来する場所を私は見つけたんです。それはあそこです」
SHIBAURA HOUSEの窓から見おろすことができる、建物から100メートルほど離れた場所にある交差点が、この辺りで最も人の行き来が激しい場所だと彼女は言う。交差点には信号があって、その信号が変わることでスイッチがはいるかのように大勢の人が一斉に動く様子が面白くて見ていたそうだ。彼女の提案でこの交差点の様子を参加者全員で再現することになった。彼女が信号役となり、中央に立つ。信号が青に変わると、その場にいる者は一斉に動き出す。赤になると止まる。こんなことを数回やった。
終わりの時間が近づいた。Takutoが自分は演劇を演じる人間ではないのだが、せっかくの機会なのでどうしても語っておきたいといことで、芝浦の人工島の人びと、田町駅東口を行き交う人たちの話をした。最後は詩と建築の関係について関心があるというToruが、昨日の町歩きから生まれた短い自作詩の朗読をした。
かもめマシーンのYutaはSHIBAURA HOUSEの一階で10分ほどの演劇作品を準備していたようだったが、私はこの後仕事が入っていたため、それを見ることができなかった。
パスカルが要望したように、三日目の発表は各発表がシームレスに連鎖するようなかたちで行われた。各発表に明確な区切りはなかった。時間はずっと継続して流れていた。これは驚くべきことではないだろうか。演者と観客の境界があいまいで、その両者が相互に自由に入れ替わるような時空が実現したのだ。プロフェッショナルな表現者とこれまでこうした表現をしたことがなかったアマチュアが、同じ立場で場と時間を共有しえたこと、属性の違いを超えてさまざまな表現を通して交流が行われたことも素晴らしい。この4時間のあいだに提示された「都市の風景」はなんと多様で豊かだっただろうか。それぞれの表現が共鳴し合い、実に濃厚で深みのある都市の風景が浮かび上がってきた。パスカルは個別の作品についての講評は述べなかった。ただこうしたヒエラルキーのない、自由でかつゆったりとした演劇の時間が実現していたことを賞賛した。パスカルはフランスでこうしたワークショップをやってもこのような時間は生まれ得なかっただろうと語った。しかし日本においてもこうした時間が成立したのはほとんど奇跡のように私には思える。
『都市をみる/リアルを記述する』というコンセプトが魅力的で、開かれた可能性を持っていたことは成功の要因の一つだろう。しかしこれほど充実した時間が実現できた理由はそれだけではない。パスカルはこのワークショップにおいて徹底して「何も教えない」人だった。彼はとにかく自由にいきあたりばったりにワークショップにのぞみ、自由すぎる自己紹介で参加者の心を解放した後は、第二日目のリサーチ以降、ほぼ何もせず、われわれが行うことを眺めていたのだ。私たちたちはその自由さがもたらす結果を彼が引き受ける大らかな覚悟を読み取った。パスカルのこうした姿勢は、フランスの思想家、ジャック・ランシーエルの『無知な教師』を思い起こさせる。学生に説明する教師は学生を愚昧化する教師であるという逆接的な謂である。教師は学生の可能性を引き出す触媒に過ぎない。しかし多くの教師は教えたがり、導きたがる存在である(ほとんど宿命的に)。自由を分かちあい、その自由がもたらす広大すぎる可能性を引き受けるには、大いなる楽天的な他者への信頼とその結果がどのようなものであろうと引き受ける覚悟が必要なのだ。
パスカルの開放性を今回は参加者が信じ切ることができた。だからこそそれぞれが想像力を広げ、自分の手持ちの材料を使って、自由に表現する勇気を持つことができたのだ。