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Qの公演を見ると「市原佐都子はいったいどんな男性と付き合っているのだろう?」と考えたくなる。思春期の女性の性愛への関心をこじらせたまま、執拗に徹底的に追求されつづけると、こんな異様なファンタジーに行き着くことができるのだろうか。劇のモチーフとして用いられた作品は、兄妹愛の物語である少女漫画の傑作(らしい、当パンによると)『ママレード・ボーイ』(吉住渉作)とエミール・シュエラザード『妖精の国へようこそ』である。この2作品の抜粋が上演前にスクリーンに繰り返し映し出される。
永山由里恵のほぼ一人芝居の90分だが、着ぐるみの「もぐら」が何回か舞台に介入する。もぐら役にはセリフがない。舞台上には黒いビニールで覆われた巨大なさつまいもらしきものがいくつもぶらさがっている。タイトル通り、地底に潜む妖精の話なのだ。しかし語りを一人で担当する永山由里恵は、妖精と人間のハーフなのだという。彼女は他の妖精たちに語り続けるのだが、他の妖精たちのすがたは人間、すなわち観客には見えない。
永山由里恵は古ぼけたビルの最上階にあるあまり評判のよくない台湾マッサージ店に向かう疲れ切ったOLでもある。このマッサージ店とサツマイモがぶらさがる地下の世界とは繋がっていて、永山由里恵はその二つの世界と二人の人物を行き来する。
膨大な台詞量だ。しかもその語りのテンションは常に高く、その調子は激しく切り替わる。せわしなく動き続ける必要もある。俳優にかかる負荷は相当なものだ。
若い女性が持つ性に対するいびつな意識のありかたが、客観的に冷静に観察されている。そしてそのいびつなひっかかりが、妄想へと自由に貼ってしていき、コントロール不可能になっていくような感じである。
セックスを含めた性的なあらゆる行いは、客観的に見ると非理性的で滑稽なものであり、そうであるにもかかわらず世の人間の大半が性的なものから逃れられないというのは、恐るべきことだと私は思っている。性には自らは没入するものであり、自らの性のありかたを客観的に批評するのはとんでもなくはずかしい行為だと私は感じていて、性について語ることについては大きな抵抗がある。
彼女は性に没入することはなく、その奇妙で異常で滑稽なありさまを観察し、それがコントロール不能になっていく様も冷静に見ているのだ。性の快楽そのものよりも、性に囚われ、非理性的で妄想的な世界に身を委ねる自分を見つめることに喜びと興奮を見出しているような倒錯的な性のありかたが提示されている。
性的幻想の奇怪な逸脱ぶりが確信犯的に深められていた傑作であり、怪作だった。グロテスクで露悪的な性の開示は不健全である一方、真っ当で誠実でもあるからよけい恐ろしさを感じる。