閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

Pascal Kirsch, La Princesse Maleine de Maeterllinck

www.festival-avignon.com

 

『マレーヌ姫』は1898年に発表されたメーテルリンクの処女戯曲で、オクタヴ・ミラボーによって激賞されたことで知られている。メーテルリンクの戯曲といえば、2012年から2014年にかけてクロード・レジがSPACの俳優と共に一幕劇『室内』を上演し、その弟子筋にあたるジャンヌトーがやはりSPACで『盲人たち』を上演したが、近年とりあげられるメーテルリンク作品といえばたいていは『青い鳥』であり、それ以外にはドビュッシーのオペラを通して上演される『ペレアスとメリザンド』くらいである。五幕悲劇である『マレーヌ姫』の上演機会は極めて稀であり、アヴィニョン演劇祭の舞台で見られるのを楽しみにしていた。

上演会場はセレスティン修道院回廊中庭(Cloître des Célestins)で、回廊を背景にその内側の庭の巨大な2本のけやきの木のあいだ、15メートルほどが舞台になっていた。f:id:camin:20170713000730j:plain

背景となる回廊にはスクリーンがあり、そこにモノクロを基調とした映像が映し出される。映像は風景などの静止画もあったが、星、木々、川などのゆらぐような動きがあるものが多かった。

こうした映像を使った、抽象的ですっきりしたデザインの美術は珍しくない。床面などは黒が基調とされていて、舞台上の時間はずっと夜のイメージだった。メーテルリンクの原作が描くイメージがほぼそのまま素直に舞台化されている。修道院の回廊の向こう側から満月に近い月が見え隠れしていて、その月や修道院回廊という借景が、作品内容、舞台美術とよく適合していた。

メーテルリンクの作品の上演となると、私としては2012-2014年にクロード・レジが演出した『室内』の公演を指標とせざるをえない。レジの『室内』はあのプロットのシンプルさ、素朴な短い言葉のやりとり、ほとんど停滞しているかのような展開の流れから、いかに豊かで深遠な詩情と思想を作品から汲み取ることができるかという見事な実例だった。あらゆるメーテルリンク作品の上演がレジのテクスト解釈、方法論(レジのそれはメイエルホリドの演出ノートに沿ったものだった)を踏まえなくてはならないというわけでは勿論ない。しかしレジの『室内』公演は、それ以後のメーテルリンク上演においては演出家にとっては重要な参照軸であり、彼の解釈と演出美学を乗り越えた作品を提示するのでなければ、少なくとも現代演劇の文脈ではメーテルリンク作品を上演する意義は乏しいように私は思う。

写真を見る限りまだ30代後半か40代始めに見えるキルシュの演出は、正直、なぜ彼がメーテルリンクのこの作品を今、取り上げたかったのかがわからなかった。舞台空間のセンスは悪くない。借景としての修道院回廊も作品にマッチしている。しかし映像の使い方はごくありきたり以上のものではない。五幕のかなり長い戯曲であるが、これを2時間半休憩なしで上演する。会話のテンポはかなり速く、その口調は現代劇風だ。レジの演出ならおそらくこの倍以上の時間は上演に必要だっただろう。短い言葉のやりとりと表現の反復が特徴的なメーテルリンクの台詞は、リズミカルにたったったと交換される。その平板な速さのなかで、メーテルリンクの台詞の詩的性格は抜け落ちてしまった。連想するのはマンガやBDの吹き出しによる台詞のやりとりだ。人物の動きや動作もマンガ的だ。動きにためや様式性はなく、いわゆるごく普通の写実演劇的な動きをしている。安っぽいプラスチック製品のような上演であり、失われた深遠な詩性の代わりに、ポップで破壊的な要素が機能しているかと言えばそうでもない。安っぽい、味わいの薄い童話のような芝居に、観客の10%ぐらいは上演中に退出していった。

『マレーヌ姫』の最後では、マレーヌ姫をはじめ、その恋人のヤルマール王子、そしてヤルマール王妃のアンヌなど主要な人物が、シェイクスピア悲劇のように死んでしまう。その次々人が死んでいく場面の記号的な演技に観客のあいだからは失笑がわき上がった。この「笑い」は演出家の意図通りなのだろうか? もし意図通りだとすれば、なぜこの終幕部にナンセンスに思える笑いを入れたかったのかがわからない。