閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

DE PAY'S MAN × DAP TOKYO『STREET STORY』

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  • 構成・演出・振付 : 木皮成
  • 音楽 : 木皮成、大間知賢哉
  • 出演:甘井飴子、石丸将吾、遠藤梨乃香、片倉裕介、高橋夏生(俳協)、田島冴香、根本和歌菜、藤井祐希、森田恭矢、SEI
  • 会場:池袋 スタジオ空洞
  • 舞台監督 : 水澤桃花(箱馬研究所)
  • メイク:津田颯哉(実験劇場)
  • サポート:安田晃平
  • 宣伝美術 : 嵯峨ふみか(カミグセ)
  • 制作協力 : つくにうらら(カミグセ)
  • 企画・運営 : DE PAY’ S MAN
  • 上演時間:65分
  • 評価:☆☆☆

 

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1月終わりにパスカル・ランベールの「都市をみる/リアルを記述する」と題されるワークショップに参加した。このワークショップのレポートはこのブログに詳しく記している。

【ワークショップ・レポート】パスカル・ランベール「都市をみる/リアルを記述する」第三日目(1/27) - 閑人手帖

このWSでの発表で最も独創的で印象的な発表を行ったのが、振付師のSeiという若者だった。そのアイディアにすっかり感嘆してしまい、彼に直接賞賛の言葉を掛けたら、この青年は、「ありがとうございます。僕はこんなことばっかり考えているんですよ」とちょっと照れたふうに、でもさらっと答えた。

このSeiがFUKAIPRODUCE羽衣の公演などの振付を担当している木皮成だと知ったのはWS終了後だった。

木皮は職業的振付師であり、クライアントの注文を受け、そのニーズや特性などを考慮しつつ振付を作っていくことを生業にしている。しかしその彼が自分自身のユニットを作り、自分の表現行為としての作品を発表する場が8月にあるとWSが終わったあとに聞いた。WSで見せた彼の発想に天才を感じた私はこの公演は必ず見に行こうと決めた。

ユニットを組むにあたって経験を問わずダンスを本気でやりたい人を公募した。45名の応募があったが、五ヶ月間のリハーサルで9名が残った。木皮は公演直前の7/31に「今回、作品を作る上で、今までの自分の人生で考えられないくらい人に対して怒った。自分に何様なんだと思うし、何様だとも思え無いけど、感謝してる。」というtweetをしていた。このtweetが気になって、公演を見た後に木皮に聞いてみた。

「なんで怒ったの?」

彼の求める「本気」と集まってきたダンサーの「本気」にずれがあったからだ、と木皮は答えた。そのずれの調整にリハーサル期間のかなりの時間が必要だったと言う。

私が『STREET STORY』を見るにあたって、事前に見たこのtweetに何らかの影響を受けてしまっていた可能性は否めない。端的に書くと、随所に木皮のセンスのきらめきは感じとることができたし、スペクタクルとして退屈することはなかったけれど、ランベールWSでの木皮 が示したような、こちらの期待の地平を爽快に裏切るような斬新なアイディアは、今回の公演で感じとることはできなかった。

ダンスのジャンルとしては、集団でのストリート・ダンス(当パンでは「HOUSEダンスの習得をお願いした」とある)ということになるのだろうか。9人のダンサーが集団で踊る。その様子を池袋のホームレスがじっと見ているという構図である。客入れの段階からダンサーたちは持続的に踊り、ホームレスは己の境遇の孤独を詩的なことばで嘆いている。

65分の上演時間はいくつかのシーケンスに分かれているが、その核となるエピソードは木皮の一年間のカンボジアでの体験である。木皮はカンボジアにストリートダンスの講師として招かれた。経済復興の途上にあるこの国で、彼は日本では出会わないような様々な人間と出会い、社会と人間とそしてダンスをなりわいとする自分との関係を考えた。彼の経験に基づく断片的なエピソードをダンスとしてどのように表現していくか、そしてそれがどのような意味を持ちうるのかという問いかけが、この企画にはおそらくあるはずだ。ルポルタージュであり、私小説であるような世界が、ダンスに変換され、提示されようとしていた。

私は熱心なダンスの観客ではないが、この三月に見たバランシン振付の『夏の夜の夢』や、勅使川原三郎と佐東利穂子のアップデイト・ダンスのシリーズで物語性のある原作のあるもの(《トリスタンとイゾルデ》や《ペレアスとメリザンド》)、そしてつい先日、古典戯曲を読む会@東京で見たアントニオ・ガデスによるロルカ『血の婚礼』を見て、大きな感銘を受けた。言語芸術の世界が、身体表現であるダンス特有の言語に読み替えられる際の変容によってあらわれる新しい側面が実に新鮮であるし、ダンスで用いられるその読み替えの発想自体に驚きがあったからだ。これらの振付師は、独創的で卓越した舞踊表現を持っているだけでなく、優れたテクストの読み手であり、解釈者でもある。その読み方はまさにダンスをやっているからこそ可能なテクストの読み方なのだ。

プロの画家や写真家、優れたエッセイストや小説家が、世界を表現しようとするとき、彼らがそれぞれ持っている特性によって、普通の人が見過ごしているような世界のありかたを見出し、それを表現に変換させるように(あらゆる芸術家がそうなのだが)、優れた振付師はやはりダンサー独自の視点で世界を観察し、それを舞踊表現に変換する術を持っている。

『STREET STORY』は、日常のなかに確かにあるささやかな《詩的な瞬間》をすくい上げ、それをダンスに変換しようとしていた。『STREET STORY』のなかで取り上げられたエピソードは構成・演出の木皮成だけのものではなく、他の出演者の個々の体験も取り入れられていた。それらを俯瞰し、一つの枠組みを与えるのが、池袋の浮浪者だったはずである。

提示されたいくつかのシーケンスで圧倒的に印象的だったのは、木皮成ことSeiが提示したカンボジアの舞踊スクールでのエピソード、彼が家族の窮乏を訴える生徒に求められるままにお金を渡すエピソードだ。スクールに来なくなった女子受講生がいた。事情を聞くと、家族が病気で、お金がなくなり、スクールに行くどころではなくなっていると言う。彼女は講師であるSeiにお金を無心する。その迫力にひるみ、Seiは200ドルを渡してしまう。

他のシーケンスもこのエピソードと同じくらいの強度のものが並ばなくてはならなかったと私は思う。他の出演者によって提示されたエピソードは、これよりはるかに薄い。彼らは世の中を表現者の目で見ていない、生きていない(と書いてしまうのはごう慢すぎるかもしれない。おそらく彼らは彼らとして真剣に世界と立ち向かっているはずなのだから)、世界から衝撃を受け取っていないように思えた。もっとも最初に書いたように、私がこのように思ってしまったのは、公演前の木皮成のtweetが何らかのかたちで影響している可能性もあるのだ。

私がランベールのWSで感じた木皮の才能のきらめきはこんなものではないし、羽衣ほかの公演を通じて知っている彼の表現が感じさせる可能性もこんなものではない。ちょっと歯がみしたくなるような気分というか。次の彼の公演ではこちらの期待をあざやかに裏切るような斬新な驚きを期待したい。