閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

genre:Gray(黒谷都ソロ公演)『涯なし』

genregray.wixsite.com

  • 人形遣い:黒谷都
  • 人形美術:渡辺数憲  
  • 原案:岡本芳一
  • 作劇:黒谷都、岡本芳一
  • 音響:中村嘉宏
  • 音構成:山口敏宏
  • 照明:しもだめぐみ
  • 舞台監督:荒牧大道
  • 劇場:鶴瀬 キラリ☆ふじみ
  • 上演時間:50分
  • 評価:☆☆☆

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人形に取り憑かれ、40年以上人形遣いをやってきた人の集大成のようなソロ公演である。人形劇の特に熱心な観客とは言えない私がいったい何をコメントできるのかという感じもする。率直に書くと、この公演が提示した世界は私の持っている世界とは折り合いが悪かった。しかし「私には合わない演劇だ」と切り捨てるのではなく、この公演をめぐって自分の演劇観、人形劇観を再検討し、それについて語らずにはいられないような気分にさせる公演でもあった。

黒谷都の操演を私が初めて見たの5年ほど前のことだ。白百合女子大で行われた加藤暁子の講演会のあと、黒谷都が渡辺数憲の人形を動かす様子を実演したのを見たのだった。ごく短い時間だったが、渡辺数憲のリアルで精密な人形の造形の美しさとその人形を魔法を使うかのように柔らかに優しく動かす黒谷の操演に一気に引き込まれてしまった。それ以降、黒谷都(genre:Gray)の公演は何回か見に行っている。

『涯なし』というタイトルの公演は2015年の秋に六本木のストライプハウスで行われた人形演劇祭のときにも見ているはずなのだが、どんな舞台なのかまったく記憶に残っていない。それでもこれまでに見た黒谷都の舞台から、今回の作品がどのようなものであるかはだいたい予想がついた。そして公演はほぼ私の予想を裏切るものではなかった。

白い服、白い髪の毛、白い肌の等身大の少女の人形を黒子姿の黒谷が操作する。黒谷の繊細な操演は、魔法を感じさせるような優雅さでその人形を操る。はっとするような美しい場面がいくつかある。しかし場面の美しさはあっても、各シーケンスをつなぐ脚本が貧しい。人形と人間の驚異的なコンビネーションが生み出す夢幻の場面をいくつか提示しながらも、骨格としての脚本が弱いゆえに、その夢幻は孤立したままで深みのあるイメージの連鎖を作り出せない。
黒子だった黒谷が白い人形を操作する。50分ほどの上演時間のうち、30分ほどは無音の状態のまま、人形による舞踊が演じられる。いっそずっとこのまま最後まで行けばいいのにと思うのだが、この無音の状態での舞踊は維持されない。というか舞踊だけではスペクタクルを維持できないのだ。

操演者の黒谷がグリム童話の一部のようなものを語る。なぜこんなところで、こんなありきたりの、お約束めいた語りを入れるのだろうと私は思ってしまう。音楽も入る。黒子の衣装を脱ぎ、人形と同じ白い衣装と白い肌、白い髪の毛となった黒谷が動く。そして最後は人形が黒子となり、黒谷が白い人形となって入れ替わる。悪くない流れに思えるが、実はこの人形と人間の入れ替わるイメージはほとんど常套句、クリシェといっていい。このクリシェが魅力的に感じられないのは、黒谷の動きが人形の動きよりもはるかに凡庸に感じられること、そして後半に音楽が入り、音楽に時間の流れが制御される普通の展開になってしまうことによる。

人形と自分の身体をどう見せたいかという意志は表現から明確に伝わってくる。結局のところ、これは演劇である以上に「人形」劇なのだ。人形劇を見たい観客のための作品だ。人形という存在を偏愛する人たちのための演劇であり、演劇(ドラマ)の枠組みは人形を見せるための口実としてある。

私はむしろ人形という特殊な演劇的身体の特性が生かされた演劇を見てみたい。人形の造形のこちらをぎょっとさせるような美しさ、そして黒谷の卓越した操演技術がありながら、その魅力が、よりソリッドで適切な演劇的形式のなかで効果的に提示されていないのをもったいないと私は思ってしまう。何でこんな紋切り型の自分語りの「詩」を見せてしまうのだろう(もちろんそういう表現をしたいからなのだが)。脚本が弱いと思うのは、黒谷都の作品だけではない。これまで見てきた大人向きの人形劇は総じて脚本への関心が、人形の造形や操演技術に比べて薄いのではないかという印象を私は持っている。脚本への関心が薄いために、自分が紋切り型のイメージのなかで陶酔していることに気づかない。

こんなありきたりの自分語りをやらずに、メーテルリンクの芝居をやればいいのに、と私は思う。「マリオネットのために」と書かれたいくつかの一幕劇、そして『青い鳥』や『ペレアス』。『青い鳥』のチルチルとミチルだけを人形にして他を人間が演じるとか、あるいはチルチルとミチルだけを人間が演じ、他は全て人形にするとか、想像が膨らむ。大正期にはメーテルリンクの劇が人形劇で実際に上演されていた。人形劇の人形はノイズのない純演劇的な身体であり、そのストイックな演劇性がもたらす欠落ゆえに、特異な詩性と象徴性を自ずから提示することができる。メーテルリンクやイェーツを人形劇で見てみたいと私は思う。

 

私がこれまでに見た黒谷都の人形舞台で、私が圧倒的に素晴らしいと思っているのは、2015年5月1日に見た『淡野弓子<操り人形と歌の夕べ>~「ユトロ」とともに~』だ。これは声楽家の淡野弓子が舞台を構成した、音楽、語り、そして人形の共同作業が、奇跡的とも思えるような見事なポリフォーニーを奏でる複合的スペクタクルだった。この舞台で黒谷は井桁裕子が作った少女の人形ユトロを操演した。ただしこの人形は造形美術としての人形で、人形劇用のものではない。人形のパートは、武久源造の音楽、モンテベルディの《アリアンナの嘆き》、岡本かの子『狂童女の戀』の語りのなかに、置かれた。演劇ではないコンサートと朗読によるこの舞台が、高い演劇性を持ち得たのは淡野弓子が優れた読解力を持つ歌手であり、歌曲が内在するドラマ性を人形とともに効果的に引き出し、一つの世界として構成することに成功したからである。この複合的な表現の舞台のなかで、黒谷が操演する人形パートは埋没することなく、むしろ他の表現との関係性がもたらす相乗効果のなかで、その特異な存在感を印象づけていた。